結論:秀吉の家臣は「大老・奉行・中老」の政権中枢と「七本槍」らの子飼いに分けて見る
豊臣秀吉の家臣を一覧にすると、政権を動かした中枢と、戦場で取り立てられた武将の二つの層が見えてきます。中枢は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五大老、浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の五奉行、調整役の三中老(生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏)です。もう一つの層が、賤ヶ岳の戦いで名を上げた「賤ヶ岳の七本槍」の福島正則・加藤清正らです。
この二つの層は、のちに「武断派」と「文治派」の対立として表に出ます。秀吉の死後、その対立は関ヶ原の戦いへの流れの一部になっていきました。この記事では、顔ぶれ、役割、エピソードを、史料で確かめられる範囲で整理します。
基本情報
- 主君:豊臣秀吉(天文6年〈1537年〉生まれ、慶長3年8月18日〈1598年9月18日〉没、享年62)
- 時代:安土桃山時代
- 秀吉の地位:天正13年(1585年)に関白、翌天正14年(1586年)に朝廷から豊臣の姓を賜った
- 政権中枢:五大老、五奉行、三中老(調整・監視役)
- 代表的な子飼い:賤ヶ岳の七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則)
豊臣秀吉の家臣一覧:五大老・五奉行・三中老の顔ぶれと役割
五大老:秀頼を支える有力大名
五大老は、豊臣政権の最高機関として合議で諸事を決める立場とされます。秀吉没時の官位と所領は、次のように整理されています。
- 徳川家康:関八州など255万石余、正二位・内大臣
- 毛利輝元:安芸など8か国で120万5千石(別の史料では112万石)、従三位・前権中納言
- 上杉景勝:会津・置賜・庄内など120万石、従三位・前権中納言
- 前田利家:能登・加賀半国など83万石、従二位・前権大納言
- 宇喜多秀家:備前・美作など57万石、従三位・権中納言
このほか、小早川隆景(筑前など37万石)も大老格で、慶長2年(1597年)に病没しました。通説では、隆景の死後に景勝が大老になったとされます。ただし矢部健太郎は、文禄4年(1595年)の時点で景勝も大老の列にあったとみて、通説を史料操作の結果だと論じています。
制度の始まりは文禄4年です。秀次事件後の政治危機を収めるため、秀吉は「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を出し、家康・利家・秀家・輝元・隆景の5人が連署しました。この5人が、のちに大老とみなされるようになりました。さらに慶長3年の夏、死の床の秀吉は、秀頼が成人するまで有力大名と石田三成ら吏僚による合議制をとるよう遺命しました。これが「五大老・五奉行」の制度化とされます。
大老のなかでも、家康は官位・官職が他の4人より高く、特別な位置にありました。秀吉の死後、家康は伏見城下で政務をとり、利家は大坂城で秀頼の傅役を務めました。
五奉行:政務を担った実務者たち
五奉行は、検地などの事務処理を執行し、行政・司法・財政・土木・宗教を受け持った実務の担い手です。主な担当と所領は、次のとおりです。
- 浅野長政:主に司法担当(甲斐甲府22万石)
- 前田玄以:主に宗教担当(丹波亀山5万石)
- 石田三成:主に行政担当(近江佐和山19万石)
- 増田長盛:主に土木担当(大和郡山22万石)
- 長束正家:主に財政担当(近江水口5万石)
前田玄以は京都所司代兼寺社奉行を務めたとも説明されます。ただし石田三成も文禄4年から慶長4年にかけて京都所司代を務めており、役割分担がはっきり分かれていたわけではないとされます。
成立時期にも説があります。小瀬甫庵の『太閤記』を根拠に天正13年(1585年)とされてきましたが、慶長3年7月に成立したとする説もあります。五人という人数も固定的ではなく、浅野長政が失脚した際には、宮部継潤と富田一白を加えた六名が奉行を務めたとも言われます。
三中老:大老と奉行の間に立つ役
三中老は、五大老と五奉行の調整・監視役を務めた生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の三人です。大老・奉行の名前に比べて知られていませんが、政権の仕組みの一部でした。なお、豊臣政権に関する記事には出典不足の注記があり、中老の位置づけには検討の余地があります。
秀吉が好んだのは合議制だったのか
五大老・五奉行は、権力を分散させる合議制として説明されることが多い制度です。一方で、秀吉が望んだのは合議制ではなく、徳川家康と前田利家による「内府・大納言体制」だったとする学説もあります。制度の評価は、研究のなかでも分かれています。
慶長4年(1599年)に利家が死去すると、家康は他の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入り、秀頼を掌握しました。前田家は家康に人質を差し出し、残る上杉・毛利・宇喜多は関ヶ原の戦いで敗れて改易または大幅な減知となります。こうして家康の単独支配の体制ができあがりました。
秀吉の家臣と戦い:賤ヶ岳の七本槍、武断派と文治派
賤ヶ岳の七本槍の7人
天正11年4月20日〜21日(1583年6月10日〜11日)、近江国伊香郡の賤ヶ岳付近で戦いがあり、その働きで名を知られたのが七本槍です。7人は次のとおりです。
- 福島正則(1561〜1624)
- 平野長泰(1559〜1628)
- 糟屋武則(1562〜1607)
- 片桐且元(1556〜1615)
- 加藤清正(1562〜1611)
- 加藤嘉明(1563〜1631)
- 脇坂安治(1554〜1626)
面白いのは、この「七」が史料の上では固まっていないことです。「賤ヶ岳の七本槍」という呼び名は江戸初期の『甫庵太閤記』が初見で、7人という数は語呂合わせによるとされます。大村由己『天正記』内の「柴田合戦記」には、7人に桜井家一と石川一光を加えた9人が挙げられています。実際に感状を得て数千石を与えられたのは、この9人だとされます。
加増額にも差がありました。福島正則は敵将の拝郷家嘉を討ち取り、一番槍・一番首として、7人のなかで突出した5,000石を与えられました。他の6人は3,000石です。加藤清正は敵将の山路正国を討ち、3,000石を得ています。片桐且元は「一番槍の功」を認められて摂津国内に3千石とされます。
加藤清正と福島正則:母方の縁で秀吉に仕えた二人
加藤清正は永禄5年(1562年)、尾張国愛知郡中村の生まれです。母の伊都が秀吉の生母・大政所の従姉妹(あるいは遠縁)と伝わり、秀吉の「又従兄弟」とされます。天正元年(1573年)、長浜城主になった秀吉に小姓として仕えました。天正16年(1588年)に肥後北半国19万5,000石を与えられ、関ヶ原の戦い後には小西旧領の肥後南半を加えて52万石(実質79万石)の大名になりました。なお、Wikipedia は、清正の武功に関する伝記には創作の可能性があると述べています。
福島正則は、母が大政所の妹で秀吉の叔母にあたるとされます(父の姉妹だったのではないかという説もあります)。最初の禄高は200石で、文禄4年(1595年)に尾張清洲24万石を与えられました。関ヶ原では東軍につき、戦後は功績第一と評価されて、慶長6年(1601年)に安芸・備後49万8,000石に入ります。ところが元和5年(1619年)、台風で破損した広島城を無断で修繕したことが武家諸法度違反とされ、安芸・備後は没収されて信濃高井郡などの4万5,000石に減転封されました。出世を支えた秀吉との縁でも、のちの時代の処分は防げなかったことになります。
脇坂安治と片桐且元:関ヶ原と大坂の陣のはざまで
脇坂安治は、石田三成の挙兵時に大坂にいたため、やむなく約1,000名を率いて西軍についたとされます。関ヶ原では朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに小早川秀秋への備えに配置され、小早川隊が大谷吉継隊を攻撃したのに乗じて東軍に寝返りました。戦後、朽木は減封、小川と赤座は改易となる一方、脇坂家は藤堂高虎の仲介によって所領を安堵されたと『秘覚集』にあるとされています。
片桐且元は、関ヶ原ののち豊臣家の家老として秀頼に仕え、豊臣宗家の外交・財政を担いました。秀頼の発給文書131通のうち100通で取次者を務めたとされ、その重さがわかります。慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件では、駿府で弁明して家康に許されましたが、同年10月1日の明け方ごろ、弟の貞隆らと大坂城を退去しました。翌年の5月28日(1615年6月24日)に京屋敷で亡くなっています。
武断派と文治派、そして七将襲撃事件
豊臣政権では、武功派(武断派)と、石田三成を主要人物とする吏僚派・文治派のグループが形成され、両者の対立が強まりました。朝鮮出兵の蔚山城の戦いは、武断派と軍目付の軋轢を激化させた契機で、軍目付の統括にあたっていたのが三成だったため、武功派の矛先は三成にも向けられるようになったとされます。
慶長4年(1599年)閏3月、前田利家の死後に事件が起きます。三成を襲撃しようとした武将たちが、大坂の前田邸を出る三成を待ち受けたものの、秀頼の家臣が三成に知らせ、三成は逃れたと伝えられます。三成は伏見城に入り、攻撃側が城を取り囲みましたが、家康の調停により、三成は居城の佐和山に引退し、蔚山の評価は見直されることになりました。閏3月10日、結城秀康が三成を佐和山まで送っています。
「七将襲撃事件」という名称ですが、近年は見直しが進んでいます。史料によって挙がる顔ぶれは異なり、七人という数自体が疑問視されています。表には福島正則・加藤清正・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明・池田輝政・脇坂安治・蜂須賀家政・藤堂高虎の十人が並び、実際には十人ほどが加わったとみる研究者もいます。また、武力で襲撃した事実を示す一次史料はなく「訴訟」と呼ぶべきだとする研究や、私闘ではなく継続する政治対立の一部だったとする研究もあります。「武断派が文治派を襲った」という単純な図式で語るのは、慎重にしたほうがよさそうです。
黒田孝高:秀吉の信頼を受けた智将
黒田孝高(官兵衛、如水)は天文15年(1546年)に生まれ、慶長9年(1604年)に亡くなりました。天正5年(1577年)10月、秀吉が播磨に進駐した際に姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に移って幕僚として活躍しました。天正6年(1578年)10月には荒木村重を説得しようと有岡城に乗り込み、逆に幽閉され、約1年後の天正7年(1579年)10月16日に家臣の栗山利安に救出されました。
天正13年(1585年)頃には、高山右近や蒲生氏郷らの勧めで入信し、洗礼名は「シメオン」です。天正15年(1587年)には豊前の6郡約12万石(太閤検地後は17万石以上)を与えられ、中津城を築きました。後世の記述では、秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたとされます。一方、天正6年7月の秀吉自筆の書状には、孝高を弟の秀長と同じように信頼している旨が書かれています。
石田三成:奉行として政権を支えた人物
石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で、石田正継の三男として生まれました。元亀2年(1571年)頃に父と次兄の正澄が羽柴秀吉に従い、三成もその後に仕えたと考えられています。天正13年(1585年)に従五位下・治部少輔、天正14年(1586年)に堺奉行、天正15年(1587年)に博多奉行、慶長元年(1596年)に京都奉行を務め、文禄4年(1595年)には佐和山19万4,000石を与えられました。
関ヶ原の戦いの後、慶長5年10月1日(1600年11月6日)に、小西行長・安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で斬首されました。享年41です。
ゆかりの地と関連する人物
- 熊本城:加藤清正が隈本城に入った後、天正19年(1591年)頃から改修して熊本城としました。
- 佐和山(近江国):石田三成が文禄4年(1595年)に19万4,000石で入った地で、七将襲撃事件の後、三成が引退した居城でもあります。
- 中津城(豊前):黒田孝高が豊前を与えられた後に築いた城で、天正16年(1588年)1月頃に完成したとされます。
- 高井野(信濃国高井郡):福島正則が減転封された信濃高井郡の地で、寛永元年(1624年)に没しました。
- 関連する人物:徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則
よくある質問
五大老と五奉行の違いは何ですか。
五大老は家康・利家・輝元・景勝・秀家という有力大名で、豊臣政権の最高機関として合議で諸事を決める立場とされます。五奉行は浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家で、検地など行政・司法・財政・土木・宗教の実務を担いました。
賤ヶ岳の七本槍は本当に7人だったのですか。
呼び名は江戸初期の『甫庵太閤記』が初見で、7人という数は語呂合わせとされます。大村由己『天正記』には桜井家一と石川一光を加えた9人が挙げられ、実際に感状を得たのは9人だとされています。
小早川隆景は五大老だったのですか。
文禄4年の御掟に連署した5人の一人で、大老格でした。ただし慶長2年に病没しています。後任に上杉景勝が入ったとするのが通説ですが、景勝はすでに大老の列にあったとする説もあります。
七将襲撃事件は、本当に武力で襲ったのですか。
武力で襲撃した事実を示す一次史料はなく、「訴訟」と呼ぶべきだとする研究があります。顔ぶれや人数も史料により異なるため、通説には見直しが進んでいます。





