結論:織田信長の血液型は分からない。何型かを示す史料も、確かめる手段も残っていない
織田信長の血液型は、不明です。ABO式血液型を分類した研究が発表されたのは1901年で、信長が生きた16世紀には「A型」「B型」という考え方そのものがありませんでした。本能寺の変で亡くなった信長の遺体は発見されておらず、後から血液型を調べる材料もありません。
「信長はB型っぽい」「O型だろう」といった話は、型破りで大胆という信長のイメージに、現代の血液型の性格イメージを重ねた推測です。確かめた範囲では、その根拠になる同時代の史料は見つかりませんでした。しかも、血液型と性格に関係があるとは言えない、というのが日本パーソナリティ心理学会のQ&Aでの見解です。
この記事では、なぜ血液型が分からないのか、血液型と性格の話はどこから来たのか、そして血液型を持ち出さなくても語れる信長の人物像を、確かめられた事実だけで整理します。
基本情報
- 生没年:天文3年(1534年)に生まれ、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)に死去。享年49。生年月日は天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日)とされるが、5月28日とする説もある
- 時代:戦国時代から安土桃山時代
- 幼名:吉法師
- 父母:父は織田信秀、母は土田御前
- 最期:京都の本能寺で、家臣の明智光秀の謀反により自害に追い込まれた
- 血液型:不明(記録なし)
織田信長の血液型は?記録がない理由と推測が生まれた背景
戦国時代に「血液型」はなかった
ABO式血液型は、ウィーン大学にいたカール・ラントシュタイナーが1900年に発見し、1901年11月14日に、人の血液は3つの群に分けられるという分類を発表したものです。このとき彼はA、B、Cと名づけ、Cは現在のO型にあたります。
信長の死は1582年ですから、発見までおよそ320年あります。信長本人にも家臣にも、血液に型があるという知識はなく、書状や記録に血液型が書かれる余地がありませんでした。「信長の血液型を記した古文書がある」という話があれば、まず疑ってかまいません。
遺体が見つかっていないので、調べようもない
血液型は、現在の医療では血液を検査して判定します。赤血球に抗A血清・抗B血清を混ぜて反応を見る「おもて検査」と、血清側を調べる「うら検査」を組み合わせ、両方が合ったときに型が確定します。つまり、血液そのもの、あるいは遺伝子を調べる試料が必要です。
ところが信長の遺体は、本能寺の変のあと発見されませんでした。光秀が探したものの見つからず、焼死体が多くて信長の遺体を特定できなかったためと考えられています。信長の墓とされるものは、遺体が見つからなかったために、衣冠墓や供養塔として全国に21か所作られました。調べる試料がないという意味でも、信長の血液型を知る方法はありません。
「B型説」「O型説」はどう生まれるのか
それでも信長の血液型が話題になるのは、人気の高い武将だからです。大胆な奇襲で知られる、新しいものを好んだ、家臣に厳しかった。こうしたイメージを、世間でいわれる「B型は独創的」「O型は親分肌」といった血液型の性格像に当てはめると、何型にも見えてしまいます。
確かめた範囲では、信長の血液型を何型と判断できる史料や研究は見つかりませんでした。どの型の説も、史実ではなく「そう見立てる遊び」の域を出ません。逆にいえば、信長の言動は一つの型に収まらず、どの型にも当てはめられるということです。
血液型と性格の話はどこから来たのか:疑似科学と研究の現在地
日本での始まり:1927年の論文から1970年代の大流行へ
血液型と気質を結びつける考えは、日本では1920年代から始まりました。東京女子高等師範学校の教育学者・古川竹二が1927年に『心理学研究』に論文を発表し、1932年に『血液型と気質』を出版しています。しかし1933年の日本法医学会総会で、この説は正式に否定されました。
その後、1970年代に入って血液型の性格本が相次いで出版され、広く知られるようになります。1971年刊の『血液型でわかる相性』は累計800万部とされています。「血液型と気質」と言っていたものが「血液型と性格」という言い方に変わったのも、この時期の著書からとされます。2004年ごろにはテレビ番組が増え、2004年2月からの1年間だけで約70本の関連番組が放送されました。BPO(放送倫理・番組向上機構)は、血液型で性格が決まるという見方を助長しないよう放送局に要望しました。
学会と研究者はどう見ているか
2009年、日本パーソナリティ心理学会のサイトのQ&Aで、理事が「いまのところ血液型と性格に関係があるとは言えない」と述べました。日本語版 Wikipedia も、統計的な関連は2024年時点で認められていないと整理しています。約1万2000人を対象に1980〜1988年の調査を分析した研究(松井、1991年)でも、統計的に有意な関連は確認されませんでした。
2017年には約26万人を対象にした遺伝子の研究があり、血液型に関わる遺伝子座が示されたものの、その決定係数は0.04%未満と極めて低いとされています。血液型が性格を決めるほどの差を生むとは言えない数字です。
「当たる」と感じる理由と、信長への当てはめ
血液型の性格像が当たると感じられる理由として、「予言の自己成就」(そう言われた人が、その型らしく振る舞うようになる)という説明が研究されてきました。ただし、これについても研究ごとに結果は分かれており、有意な差を認めた研究もあれば、日米約1万人のデータで認めなかった研究もあります。
ここまでの経緯から分かるように、「信長は何型か」という問いは、信長の時代ではなく、20世紀以降の血液型への関心から生まれたものです。
ゆかりの地と関連する人物
信長ゆかりの地
- 本能寺(京都市中京区):最期の地。境内に信長公廟がある
- 大徳寺総見院(京都市北区):信長の墓所・廟所の一つ
- 妙心寺玉鳳院(京都市右京区)、阿弥陀寺(京都市上京区):いずれも墓所・寺社として挙げられる
- 安土城址(滋賀県):信長が築いた城。城址に織田信長公本廟がある
- 西山本門寺(静岡県富士宮市):信長公首塚がある
- 建勲神社:信長を祀る神社として挙げられる
関連する人物
- 織田信秀:信長の父。その葬儀での信長の振る舞いが知られる
- 土田御前:信長の母
- 明智光秀:本能寺の変を起こした家臣
- ルイス・フロイス:信長を直接見て記録した宣教師。人物評が残る
- カール・ラントシュタイナー:ABO式血液型を発見した研究者
よくある質問
織田信長の血液型は何型ですか?
分かっていません。血液型の概念は1901年の発表で初めて世に出たもので、信長の時代にはなく、遺体も発見されていないため、確かめる方法がありません。
信長は「B型」「O型」だったといわれるのはなぜですか?
大胆で型破りな行動のイメージに、現代の血液型の性格イメージを重ねた推測です。確かめた範囲では、根拠となる史料は見つかりませんでした。
血液型と性格には関係がありますか?
日本パーソナリティ心理学会のサイトのQ&Aで、2009年に理事が「いまのところ血液型と性格に関係があるとは言えない」と述べています。統計的な関連は認められていません。
信長の人物像は、史料から分かりますか?
分かる部分も分からない部分もあります。ルイス・フロイスは信長を「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と記したとされます。一方、フロイスの記述は日本側の史料で確認できない部分が多く、鵜呑みにはできないという研究者の指摘もあります。






