織田信長 日本史トリビア

結論:1568年の信長は、義昭を奉じて上洛し、畿内の支配に踏み出した

1568年(永禄11年)、織田信長は9月7日に岐阜を出発し、足利義昭を奉じて京都へ向かいました。近江の六角氏を破り、三好三人衆の軍も崩れ、10月18日に義昭は室町幕府の第15代将軍に就任します。信長は尾張・美濃の大名から、将軍を支えて畿内に影響力をもつ存在へと立場を変えました。

ただし信長は、義昭が授けようとした副将軍や管領などの役職を、多くは受けませんでした。将軍の下に収まるのではなく、距離を保ったまま実力で畿内に関わる道を選んだ年だったと見ることができます。この記事では、上洛前夜から翌1569年の動きまでを、日付を追って整理します。

基本情報

  • 人物:織田信長(通称は三郎、のち上総介など)
  • 生没年:天文3年(1534年)〜天正10年6月2日(1582年)。本能寺の変で自害
  • 時代:戦国時代〜安土桃山時代
  • 1568年の立場:尾張・美濃を領する戦国大名。前年の1567年に美濃を平定している
  • 1568年の主な出来事:足利義昭との会見(7月25日)、上洛戦の開始(9月7日)、義昭の将軍就任(10月18日)
  • 1568年に起きたこと:上洛戦、近江・畿内の平定、義昭の将軍擁立

1568年の織田信長は何をしたのか|足利義昭を奉じた上洛戦

前年の美濃平定と「天下布武」の印

上洛の土台は、1567年(永禄10年)の美濃平定です。信長は稲葉山城の戦いで斎藤龍興を退け、美濃を押さえました。『信長公記』には、このとき井ノ口を岐阜と改めたと記されています。同じ年の11月、信長は印文「天下布武」の朱印を使い始めました。

よく「天下布武」は全国統一の宣言と説明されますが、ここでいう「天下」は全国ではなく、五畿内を指すと考えられています。1568年の上洛は、この印の文字どおりの行動にあたります。

義昭が岐阜に来るまで

足利義昭は、将軍だった兄の義輝が永禄8年(1565年)5月19日に三好義継・三好三人衆・松永久通らに殺された(永禄の変)あと、奈良の興福寺に幽閉されました。同年7月28日夜に脱出し、近江、若狭を経て、越前の朝倉義景のもとに身を寄せます。義景は上洛に積極的ではなく、滞在は長引きました。

この間、朝倉家臣だった明智光秀の仲介で信長との交渉が再開されたと、義昭の項目にあります。永禄11年4月15日に義昭は一乗谷で元服して「義秋」から「義昭」に改名し、7月には信長が和田惟政らを越前に遣わします。義昭は一乗谷を出て、7月16日に浅井長政の饗応を小谷城で受け、7月25日に岐阜城下の立政寺で信長と会いました。

9月7日出発、近江の六角氏を数日で破る

信長は9月7日、尾張・美濃・伊勢の軍と徳川方の軍を率いて岐阜を出ました。佐和山城では浅井長政の3千、松平信一の1千が加わり、軍勢は4万から6万にのぼったとされます。

これを迎え撃つ六角義賢・義治の父子は観音寺城に籠もり、箕作城と和田山城を固めました。道に逆木を置いて織田軍を2、3日足止めしたものの、9月12日に織田・浅井軍が箕作城を攻めると、和田山城は戦わずに開城し、箕作城も翌未明までに落ちました。観音寺城は続けて攻められ、六角父子と城兵の多くは夜のうちに甲賀郡へ逃れます。信長は周辺の十数城にも兵を出し、江南の二十四郡を5、6日で制圧したと記されています。

観音寺城の守りを説いて退けられた蒲生賢秀は日野城に入って抵抗しましたが、のちに降伏し、人質を出しました。この人質が、のちの蒲生氏郷です。

三好三人衆の崩壊と義昭の将軍就任

9月25日に信長が大津まで進むと、三好三人衆の軍は崩れました。9月29日に岩成友通が勝龍寺城で降伏し、10月2日には篠原長房が越水城を放棄します。義昭は9月下旬に清水寺に入り、10月14日に六条の本圀寺に入り、16日に上京の細川屋形へ移りました。

10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府の第15代将軍になりました。信長が岐阜に戻ったのは10月26日です。出発から京都での決着まで、およそ1か月半の遠征でした。

信長は役職を断った|義昭との距離と1569年の殿中御掟

「御父」と呼ばれても、副将軍・管領は受けなかった

10月24日、義昭は信長を上洛戦の最大の功労者として「天下武勇第一」とたたえ、桐紋と二引両の使用を許しました。信長に「室町殿御父」の称号も与えられ、義昭が同日付で信長に宛てた自筆の感状には、宛名として「御父織田弾正忠(信長)殿」と書かれています。

義昭は副将軍か管領(管領代)を授けようともしましたが、信長は副将軍、管領、斯波氏の家督などの高い栄典の多くを辞退しました。受けたのは、弾正忠への正式な叙任と、桐紋・二引両の使用許可が中心だったとされます。草津・大津・堺の土地は与えられています。

なぜ断ったのか、信長自身の言葉で説明した史料は、ここで確かめた資料の範囲にはありません。結果として、信長は幕府の役職に組み込まれず、将軍とは別の立場で動く余地を残しました。

本圀寺の変と殿中御掟

翌1569年(永禄12年)1月5日、三好三人衆らが義昭の居た六条の本圀寺を攻撃しました(本圀寺の変)。信長は豪雪の中を2日で援軍に駆けつけましたが、細川藤賢や明智光秀らの奮戦で、敵はすでに敗退していました。

1月14日、信長は義昭の権力を制限する「殿中御掟」9ヶ条を出し、義昭に認めさせます。のちに追加の7ヶ条も出されました。翌1570年(元亀元年)1月23日には、さらに5ヶ条の条書も義昭に認めさせています。将軍を立てた信長が、その将軍の動きに枠をはめ始めたことが、この条文から読み取れます。

堺への矢銭と、朝廷の副将軍の意向

同じ1569年の2月、堺は信長の要求に応じて矢銭(軍資金)を支払いました。信長は今井宗久の代官職を認めて堺の支配を始め、1570年4月頃には松井友閑を堺政所として送っています。1568年に与えられた堺の土地は、ここで実際の支配につながりました。

3月には、正親町天皇が信長を副将軍に任じたい意向を伝えましたが、信長は返答せず、事実上無視したとされます。1567年11月に天皇が信長を「古今無双の名将」とほめたときも、信長は「まずもって心得存じ候」と返しただけでした。朝廷や将軍からの高い評価にも、信長は役職や称号で応じなかった点が共通しています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 岐阜城(岐阜市):旧称は稲葉山城。1567年に信長が斎藤龍興を破って手に入れ、城下の井ノ口を岐阜と改めた。1568年の上洛はここから出発した
  • 立政寺(岐阜市):1568年7月25日、義昭と信長が会見した寺
  • 観音寺城(近江):六角氏が籠もった城。1568年9月、六角父子が夜のうちに退いた
  • 本圀寺(京都):上洛後の義昭が入り、1569年に襲撃を受けた場所

関連する人物

  • 足利義昭:兄・義輝の死後に将軍を目指し、信長の助けで15代将軍になった
  • 浅井長政:信長の同盟者。義昭を小谷城でもてなし、上洛戦に軍勢を出した
  • 六角義賢・義治:近江の戦国大名。観音寺城を放棄して甲賀へ逃れた
  • 三好三人衆・松永久秀:畿内の勢力。三人衆は上洛戦で崩れ、翌年に本圀寺を襲った
  • 明智光秀:朝倉家臣として、義昭と信長の交渉の仲介役を務めたとされる。本圀寺では義昭を守った
  • 今井宗久:堺の人物。信長は1569年にその代官職を認めた

よくある質問

Q. 1568年に織田信長は何をしましたか。

9月7日に岐阜を出て、足利義昭を奉じて上洛しました。近江の六角氏を破り、三好三人衆の軍を退け、10月18日に義昭を第15代将軍にしました。

Q. 信長は上洛したあと、将軍の家臣になったのですか。

なっていません。義昭は副将軍や管領を授けようとしましたが、信長は多くの役職や栄典を辞退し、弾正忠への叙任と桐紋・二引両の使用許可を受けるにとどめたとされます。

Q. 「天下布武」の印はいつから使われましたか。

1567年11月から、印文「天下布武」の朱印を使い始めたとされます。ここでの「天下」は、全国ではなく五畿内を指すと考えられています。

Q. 信長と義昭の関係は、1568年の時点で悪くなっていましたか。

1568年の段階では、義昭は信長を「御父」と呼んで感状を出しています。関係に変化が見えるのは翌1569年で、信長が殿中御掟で義昭の権力を制限しました。