蔦屋重三郎の死因は脚気?47歳の最期と没後の蔦屋

結論:蔦屋重三郎の死因は脚気と伝わる。寛政9年5月6日、江戸で47歳で亡くなった

蔦屋重三郎が亡くなったのは寛政9年5月6日(1797年5月31日)です。年表では47歳とされます。死因は脚気と伝えられていて、その根拠は曲亭(滝沢)馬琴が『近世物之本江戸作者部類』に書いた「脚気を患ひて身まかりぬ」の一文です。

病名を伝える主な手がかりは、この馬琴の記述です。寛政8年(1796年)の秋ごろから体調を崩して床に伏し、翌年3月には危篤になったとされます。吉原細見の出版から出発し、歌麿や写楽を世に出した人物の最期は、意外なほど静かな記録しか残っていません。

基本情報

  • 生没年:寛延3年1月7日(1750年2月13日)生まれ、寛政9年5月6日(1797年5月31日)没
  • 時代:江戸時代中期から後期
  • 立場:地本問屋・書物問屋(版元)。吉原の案内書である吉原細見の出版から事業を広げた
  • 享年:年表では47歳。馬琴は48歳と記す
  • 死因:脚気と伝わる(馬琴の記述による)
  • 法名:幽玄院義山日盛信士
  • 墓所:台東区の正法寺

蔦屋重三郎の死因と最期の経緯

寛政8年の秋から床に伏す

体調の悪化が始まったのは、寛政8年(1796年)の秋ごろとされます。寛政9年3月には危篤の状態になりました。急に倒れたのではなく、床についたまま春を越した経過がうかがえます。

馬琴が書いた死因「脚気」

死因が脚気だと伝わるのは、馬琴の『近世物之本江戸作者部類』に、寛政9年の夏5月に「脚気を患ひて身まかりぬ」と記されているためです。馬琴は重三郎と同じ時代を生きた戯作者で、その証言が死因の拠り所になっています。ただし、病状の細かい経過や、医師の診立てを伝える記録は確認できません。症状が具体的にどうだったかは、伝わる範囲を超えて語れません。

享年47と48の食い違い

年表では47歳没とされますが、馬琴は同じ『近世物之本江戸作者部類』で享年を48歳としています。生まれは寛延3年1月7日(1750年2月13日)で、没したのは寛政9年5月6日(1797年5月31日)です。この1歳の差がなぜ生じたのかは、確かめられていません。

亡くなる前に交わされた別れの言葉

安藤優一郎の著書によると、重三郎は死に際に別れの言葉を交わしたとされます。ただし、その言葉の内容は伝わっていません。有名な辞世の句や遺言として確かめられるものも見当たらないため、この記事では「最期の言葉」を創作して補うことはしません。

最期に至る晩年と、残された店

寛政の改革の中で、立て直しを図った晩年

重三郎が病に伏した頃、出版界は寛政の改革による出版統制で冷え込んでいました。寛政3年(1791年)には、山東京伝が手鎖50日、重三郎が重過料の処罰を受けています。一般には「身上半減」と語られますが、倉本初夫は罰金額を身上(年収)に応じたものとみて、営業に差し支えるほどではなかったと論じています。中嶋修も、財産の半分を没収したことを裏づける当時の記録は見つからないとしています。「財産半減で店が傾き、それが死につながった」という見方は、根拠のある説明とは言えません。

晩年の重三郎は、利益の見込めない事業の版木を売るなどして、不況を乗り切ろうとしていました。写楽の役者絵は、寛政6年(1794年)から翌年正月にかけての第4期で終わっています。

死の前に手がけていた仕事

重三郎の出版は、吉原細見『籬の花』(安永4年)や『五葉松』(天明3年)から、黄表紙『文武二道万石通』(天明8年)、歌麿の美人大首絵(寛政4年から翌年にかけて多数刊行)、写楽の役者絵(寛政6年)まで広がっていました。最期の病に伏した寛政8年秋は、写楽の役者絵が終わったあとにあたります。

疎遠になった歌麿との関係修復

幕府の規制に対する考え方の違いなどから、重三郎と喜多川歌麿は次第に疎遠になっていました。重三郎は写楽の役者絵に力を注いだ後、晩年には歌麿との関係修復に努めたとされます。ただ、その試みが実を結ぶ前に重三郎は亡くなりました。

二代目に店を継いだ番頭の勇助

馬琴の記述によれば、番頭の勇助が婿養子となって二代目蔦屋を継ぎました。馬琴の説では、勇助は伊賀屋勘右衛門の妻の従弟にあたる人物です。没後には、二代目が葛飾北斎の作品を刊行しています。重三郎が築いた版元の名は、本人の死後も続きました。

なお、重三郎の妻は文政8年(1825年)10月11日に亡くなったとみられています。正法寺の過去帳にある「錬心妙貞日義信女」がこれに当たると考えられています。

ゆかりの地と関連する人物

台東区の正法寺

重三郎は、吉原に近い台東区の正法寺に葬られました。同寺には、重三郎を顕彰する「喜多川柯理墓碣銘」と「通油町 蔦屋」の墓碑があります。ただし、墓碣銘の原物は震災や戦災で失われています。いま見られる碑は、江戸時代の墓石そのままではない点に注意が必要です。

関わりの深い人物

最期を書き残した馬琴のほか、大田南畝、恋川春町、山東京伝、喜多川歌麿、東洲斎写楽、北尾重政、朋誠堂喜三二、十返舎一九らが、重三郎の周りにいた人物です。写楽の正体をめぐる説は、蔦屋重三郎と写楽の正体は?斎藤十郎兵衛説と別人説を検証で整理しています。源内との関わりは平賀源内と蔦屋重三郎──江戸の天才と仕掛人が交差した“吉原細見”の真実にまとめました。

死因を伝える史料が限られる人物の例としては、徳川家康の死因は?鯛の天ぷらか胃癌か、駿府での最期と諸説のように、史料の書きぶりで説が分かれる記事も参考になります。

よくある質問

蔦屋重三郎は何歳で亡くなりましたか。

年表では47歳です。馬琴は『近世物之本江戸作者部類』で48歳としており、記録によって1歳の違いがあります。

蔦屋重三郎の死因は何ですか。

脚気と伝えられています。馬琴が『近世物之本江戸作者部類』に「脚気を患ひて身まかりぬ」と記したことが根拠です。詳しい病状の経過を伝える記録は確認できません。

寛政の改革の処罰で財産を半分失ったことが死につながったのですか。

そう言える根拠はありません。一般に「身上半減」と言われますが、倉本初夫は営業に差し支えるほどではなかったと論じ、中嶋修も財産半分没収を裏づける当時の記録は見つからないとしています。

蔦屋重三郎の墓はどこにありますか。

台東区の正法寺です。顕彰する「喜多川柯理墓碣銘」と「通油町 蔦屋」の墓碑がありますが、墓碣銘の原物は震災や戦災で失われています。

蔦屋重三郎の死後、店はどうなりましたか。

馬琴の記述によれば、番頭の勇助が婿養子として二代目蔦屋を継ぎました。没後には、二代目が葛飾北斎の作品を刊行しています。

ほかの人物の死因を時代順に調べるなら、歴史上の人物の死因一覧も参考になります。