結論:古義学は、朱子学の解釈を通さず『論語』『孟子』の原文を直接読む学問
古義学とは、江戸時代前期の京都の儒学者・伊藤仁斎(1627〜1705)が唱えた学問の立場です。後の時代に加えられた朱子学の経典解釈を退け、孔子・孟子の書物そのものを直接検討して、本来の意味(古義)を探ろうとしました。
仁斎は寛永4年(1627年)に京都で生まれ、1662年に堀川で私塾「古義堂」を開き、宝永2年(1705年)に亡くなりました。はじめは朱子学者でしたが、のちに反朱子学へ転じています。
「町人出身の独学者」「欲望を肯定した思想家」「門人は3,000人」といった話もよく語られます。この記事では、資料で確かめられる範囲と、確かめられない(あるいは資料の書き方が分かれる)部分を分けて整理します。
基本情報
- 生没年:寛永4年7月20日(1627年8月30日)〜宝永2年3月12日(1705年4月5日)
- 時代:江戸時代前期
- 身分・立場:京都の儒学者。屋号は鶴屋七右衛門。死後の諡号は古学先生
- 学問:古義学(古学派の一つ)
- 私塾:古義堂(堀川塾・堀川学校とも)。1662年に京都の堀川で開く
- 主な著作:『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』『古学先生文集』
- 子:東涯、梅宇、介亭、竹里、蘭嵎の五人の息子は「伊藤の五蔵」と称された
伊藤仁斎の古義学とは?朱子学との違いと思想の中身
江戸時代の「古学」の中の古義学
古学は、朱子学を否定した江戸時代の儒学の一派の総称です。山鹿素行の聖学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学が含まれます。共通するのは、後世の解釈に頼らず、『論語』などの経典を直接、実証的に調べる態度です。この態度は国学にも影響を与えたとされています。
その中で仁斎の古義学は、関心が個人の実践に向いている点で特徴づけられます。徂徠が「道」を制度や政治に限って経典を制度理論の書として読んだのに対し、仁斎の「道」は人倫の世界に限られた、と対比されます。仁斎は政治や社会秩序を論じることがほとんどなく、秩序のもとにある人間関係を、愛や誠実、思いやりに満ちたものにすることを目指しました。そのため、日常生活での自覚的な実践を重んじたと説明されます。
朱子学の経典解釈を退け、原文を直接読む
仁斎ははじめ朱子学者でしたが、のちに反朱子学となり、「古義」を標榜しました。朱子学の経典解釈を廃し、テクスト(本文)を直接検討する方法をとっています。さらに、禅学や老荘思想は儒学にとって不純なものだと考えました。
評価も徹底していました。『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と呼んでいます。『童子問』では、孔子の教えは『論語』に基づくべきだと説き、『論語』だけで分からない点があるときは『孟子』を使うよう唱えました。宋学(朱子学や陽明学)は、仏教や道教の影響を受けた考え方として退けられています。
「理」より「気」と「情」を重んじた
英語版 Wikipedia によれば、仁斎は、生命と万物を生み出すのは気(material force)だけだと考え、宋代の理と気を分ける二元論を否定しました。日本語版 Wikipedia は、朱子学の「理」に対して「情」を積極的に価値づけたと述べています。感情を抑えるべきものとせず、人の自然な感情(人情)を重んじた点が、朱子学との大きな違いです。英語版は、詩を感情を表す手段として尊んだとも書いています。
人間の本性についての説明は、2つの Wikipedia で書きぶりが違います。日本語版は「四端の心や性善説を唱えた」とし、英語版は「生まれつき善であるという見方を退け、日々の実践によって善になりうると考えた」としています。仁斎の人性論は、読み方によって説明が分かれる部分で、1つの言葉で言い切れません。
俗説を検証する:町人出身・欲望の肯定・門人3,000人
「町人出身の独学の学者」は本当か
仁斎が京都の商人の家の長男だったことは確かです。英語版 Wikipedia は、父を伊藤了室という京都の商人とし、28歳のとき家業を弟に譲ったと書いています。ただし同じ記事は、家業が何だったかははっきりしないとしており、「木材商」などと断定はできません。
「独学だった」という話も、言い切れません。英語版 Wikipedia は、仁斎が10歳のころ医師だった叔父のもとで学んだこと、京都の朱子学者・松永尺五にも学んだ可能性が高いことを書いています。確かなのは、はじめ朱子学を学び、のちに反朱子学へ転じたという流れです。
「欲望を肯定した」は言い過ぎか
「仁斎は欲望を肯定した」と説明されることがあります。しかし、確かめた資料に書かれているのは、「理」に対して「情」(人情)を積極的に価値づけた、という点までです。英語版は、詩が感情や欲望のはけ口になると仁斎が考えたとも書いていますが、欲望そのものを善とした、という書きぶりは見当たりません。「感情を重んじた」と言えば資料に沿い、「欲望の肯定」は資料以上の言い方になります。
「門人3,000人」は何を意味するか
古義堂の門人は、仁斎の教えを受けた者が3,000人に上ったともいわれる、というのが日本語版 Wikipedia の書き方です。英語版も、さまざまな階層・職業から約3,000人が集まったと書いています。どちらも、同時代の名簿から数えた数字とは書かれていません。「約3,000人といわれる」と紹介するのが適切です。
門人の中には、儒学よりも漢詩に関心が強い者もいたと英語版は述べています。
伊藤仁斎の生涯と著作
家族と古義堂の開設
仁斎は40歳を過ぎて結婚し、1男2女をもうけました。52歳で妻に先立たれ、数年後に再婚して4男1女をもうけています。末子の五男・蘭嵎が生まれたのは、仁斎68歳のときでした。息子たち(東涯、梅宇、介亭、竹里、蘭嵎)は、世に「伊藤の五蔵」と称されます。
古義堂を開いたのは1662年、京都の堀川です。堀川をはさんだ対岸には、山崎闇斎の闇斎塾がありました。同じ川の両岸に、朱子学系の塾と、それに反対する立場の塾が向かい合っていたことになります。
生前に出さなかった著作
仁斎は生前、著作を公刊せず、講義と、著述の整理・推敲に力を注ぎました。『童子問』は、元禄4年(1691年)頃に書き始め、2年後に序文を記し、没年の1705年まで改訂と加筆を続けています。仁斎の死後、息子の東涯と門人の林景范が校訂・清書して、1707年に刊行されました。
『童子問』は、儒教の原理・方法・実践を、童子と師の問答の形で論じた概説書で、全3巻、漢文体です。中国・宋代の欧陽脩『易童子問』を手本にしています。なお、日本語版 Wikipedia のこの項目には出典が不十分との注記があります。英語版 Wikipedia は『語孟字義』を、『論語』『孟子』に出る用語の意味を論じた著作として挙げています。
赤穂事件につながる交友
日本語版 Wikipedia には、仁斎が、元禄赤穂事件で討ち入りに反対したり不参加だったりした大野九郎兵衛、伊藤宗寿と交流があったと記されています。1703年4月に東涯が並河千左衛門に送った書状には、この両人の消息や、仁斎の支援のことが述べられているとされます。
ゆかりの地と関連する人物
古義堂跡(京都市上京区)
古義堂は、現在の京都市上京区東堀川通出水下ルにあった仁斎の生家で開かれました。この跡地は、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国の史跡に指定されています。
古義堂は長子の東涯以下、代々子が受け継ぎました。歴代は、初代仁斎、2代東涯、3代東所、4代東里、5代東峯(東里の弟)、6代輶軒です。子がいなかった4代目は、弟を5代目として継がせています。1842年(天保13年)には、松永家の講習堂とともに町奉行所から表彰を受けました。
古義堂の書画などを含む約5,500点、約1万冊は、1941年(昭和16年)に天理大学附属天理図書館に所蔵されました。目録は1956年に『古義堂文庫目録』として刊行され、特別文庫として公開されています。
関連する人物
- 伊藤東涯(1670〜1736):長男。仁斎の没後、古義堂を率いた
- 山崎闇斎:堀川の対岸に闇斎塾を開いた朱子学者
- 山鹿素行・荻生徂徠:仁斎と同じ「古学」に数えられる学者
よくある質問
伊藤仁斎の古義学を一言でいうと?
朱子学の解釈を退け、『論語』『孟子』の本文を直接読んで孔子・孟子の本来の意味(古義)をつかもうとする学問です。人倫の世界での、日々の実践を重んじました。
古義学と荻生徂徠の古文辞学はどう違う?
どちらも古学に数えられます。徂徠が「道」を制度や政治に結びつけて経典を読んだのに対し、仁斎の「道」は人倫の世界に限られ、関心は個人の実践に向いていたと対比されます。
『童子問』はどんな本?
童子と師の問答の形で、儒教の原理・方法・実践を論じた全3巻の概説書です。仁斎の没後、1707年に東涯らの校訂で刊行されました。
古義堂は今も見られる?
跡地は「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国の史跡です。建物の現在の状態は今回確かめられていないので、訪ねる前に京都市などの公式情報で確認してください。





