徳川家康の子孫と家系図|将軍家・御三家・御三卿に分かれ明治以降も存続

結論:家康の血筋は「将軍家・御三家・御三卿」に分かれて続き、明治以降も家は残った

徳川家康の子孫は、将軍家(徳川宗家)、尾張・紀伊・水戸の御三家、田安・一橋・清水の御三卿に分かれて続き、明治以降も華族として家が残りました。将軍家は15代の慶喜で幕府を終えています。

ただし、将軍の座が家康の子孫へ一本の線でつながったわけではない。7代将軍の家継が幼くして亡くなると、紀伊家から吉宗が迎えられた。のちには一橋家から家斉が、水戸家出身の慶喜も一橋家を経て将軍になった。この記事では、すでに亡くなった当主の系譜に絞って、その流れを整理する。

基本情報

  • 人物:徳川家康(天文11年12月26日〔西暦1543年1月31日〕生、元和2年4月17日〔1616年6月1日〕没)
  • 時代:戦国時代から江戸時代初期
  • 立場:江戸幕府の初代将軍。慶長8年(1603年)に任官し、慶長10年(1605年)に将軍職を秀忠へ譲った
  • 家の構成:将軍家(徳川宗家)、御三家(尾張・紀伊・水戸)、御三卿(田安・一橋・清水)
  • 将軍の数:徳川将軍は15人
  • 墓所:久能山東照宮と日光東照宮

徳川家康の家系図:将軍家と当主の系譜

家康の男子と、将軍職を継いだ秀忠

家康の男子は、長男が松平信康、次男が結城秀康、三男が秀忠、四男が松平忠吉、五男が武田信吉、六男が松平忠輝、七男が松平松千代、八男が平岩仙千代、九男が義直、十男が頼宣、十一男が頼房と伝わる。将軍職を継いだのは三男の秀忠で、母は於愛(竜泉院)である。家康は慶長10年(1605年)4月16日に将軍職を秀忠に譲り、慶長12年(1607年)には駿府城へ移った。

将軍家15代の流れ

2代秀忠の後は、次のように続く。

  • 3代家光:秀忠の次男
  • 4代家綱:家光の長男。実子はいなかった
  • 5代綱吉:家光の子で、家綱の弟
  • 6代家宣:甲府家から入った養子。綱吉の甥にあたる
  • 7代家継:家宣の長男。幼くして亡くなった
  • 8代吉宗:紀伊家から入った
  • 9代家重、10代家治:親子で継いだ
  • 11代家斉:一橋家から入った養子
  • 12代家慶、13代家定:家斉の次男、家慶の四男
  • 14代家茂:紀伊家から入った
  • 15代慶喜:水戸家の出身で、一橋家を経て将軍になった

15人のうち、父から子へ直接つながった例もあれば、傍系や養子で継いだ例も多い。「直系の子孫が代々継いだ」という単純な図ではないことが、家系図を読むうえでの大切なところである。

松平から徳川への改姓

家康はもと松平家康といい、永禄9年(1566年)に朝廷の許可を得て「徳川」に改めた。『徳川氏』の項目は、これを松平の一族がそろって徳川に改めたのではなく、「徳川」は家康個人にだけ許された称号だったと説明している。家康の男系子孫の諸家が徳川を名乗り、松平の名乗りだけを認められた越前松平家・会津松平家などの諸松平家とともに親藩を構えた。

御三家と御三卿:分家はどう広がったか

御三家:尾張・紀伊・水戸

御三家は、家康の九男義直(尾張)、十男頼宣(紀伊)、十一男頼房(水戸)を祖とする3家である。将軍家に次ぐ家格として特別に扱われた。藩庁は、尾張が名古屋城、紀伊が和歌山城、水戸が水戸城である。水戸家は江戸に常住する「定府」だったことなどから、5代将軍綱吉のころに、ほかの2家と並んで御三家と呼ばれるようになったとされる。

将軍を出した紀伊家と、出さなかった尾張家

紀伊家からは、5代和歌山藩主の吉宗が8代将軍となった。14代将軍の家茂は13代和歌山藩主で、藩主の代数と将軍の代数は別である。紀伊家の当主から将軍になったのは、8代吉宗と14代家茂の2人である。一方、尾張家から将軍は出ていない。4代藩主の吉通が6代将軍家宣の後継になりかけたが、吉通自身が身を引いたとされる。

御三卿:田安・一橋・清水

御三卿は、江戸時代中期に創設された3家である。創設の目的には、吉宗が自らの血統で将軍家を続けるためとする説など、複数の説がある。

  • 田安家:吉宗の三男宗武が祖。享保16年(1731年)の創設
  • 一橋家:吉宗の四男宗尹が祖。元文5年(1740年)の創設
  • 清水家:9代家重の次男重好が祖。宝暦9年(1759年)の創設

3家の形が整ったのは清水家ができた1759年とされる。御三卿は独立した藩を持たず、将軍の近親者として扱われ、各家に賄料10万石があてられた。一橋家からは11代家斉と15代慶喜が出ている。

明治以降の徳川家と、よくある誤解

宗家を継いだ家達

慶応2年(1866年)に家茂が後継ぎのないまま亡くなったとき、田安家の家達は4歳と幼かったことなどから宗家相続に反対があり、慶喜が15代将軍となった。慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府は家達に宗家の相続を許し、家達は数え年6歳で徳川宗家16代当主となった。家達は明治17年(1884年)の華族令で最上位の公爵に叙され、昭和15年(1940年)6月5日に亡くなった。家康の直系がそのまま続いたのではなく、御三卿の田安家から宗家に入った人物である。

華族になった徳川の諸家

明治維新後に華族となった徳川氏は12家である。内訳は公爵3、侯爵2、伯爵2、子爵1、男爵4で、宗家は公爵、御三家は侯爵(水戸家は後に公爵)、御三卿は伯爵に列せられた。紀伊家では、最後の和歌山藩主の茂承が明治17年に侯爵となった。

断絶した家もある

家康の血筋の家がすべて続いたわけではない。駿河徳川家、甲府徳川家、館林徳川家は断絶している。「松平」姓の家も、すべてが家康の男系子孫というわけではなく、松平の名乗りだけを認められた家が諸松平家として含まれる。

ゆかりの地と関連する人物

久能山東照宮と日光東照宮

家康の墓所として広く知られるのは、久能山東照宮と日光東照宮である。久能山の廟所宝塔は元和2年(1616年)に築かれ、のちに家光が石造で建て替えた。日光へは翌元和3年(1617年)に移され、4月17日の一周忌に遷座祭が行われた。日光への移葬は天海が主導した改葬とされることが多いが、近年の研究では日光に送られた神柩に遺体が入っていなかった可能性も指摘されている。

関連する人物

  • 徳川秀忠:家康の三男で、2代将軍
  • 徳川吉宗:紀伊家から入り、8代将軍となった。田安家・一橋家の祖である宗武・宗尹の父でもある
  • 徳川慶喜:水戸家の出身で、一橋家を経て15代将軍となった
  • 徳川家達:田安家の出身で、宗家16代当主

よくある質問

徳川将軍は、すべて家康の直系ですか。

いいえ。養子や傍系で継いだ例が多くあります。6代家宣は甲府家から、8代吉宗と14代家茂は紀伊家から、11代家斉は一橋家から入りました。

御三家はどの家ですか。

尾張・紀伊・水戸の3家です。家康の九男義直、十男頼宣、十一男頼房がそれぞれの祖です。

水戸家から将軍は出ましたか。

15代慶喜は水戸家の出身ですが、一橋家に入ってから将軍になりました。水戸家の当主が将軍を継いだわけではありません。

御三卿とは何ですか。

8代吉宗の子と9代家重の子を祖とする田安・一橋・清水の3家です。独立した藩を持たず、将軍の近親者として扱われました。

家康はなぜ「松平」ではなく「徳川」を名乗ったのですか。

永禄9年(1566年)に朝廷の許可を得て改めました。「徳川」は家康個人にだけ許された称号と説明されており、松平の一族がそろって改めたわけではありません。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。