結論:北斎は「構図と形で見せる絵師」、広重は「旅と空気を描いた絵師」
葛飾北斎(1760〜1849年)と歌川広重(1797〜1858年)は、どちらも江戸時代後期に風景版画で名を上げた浮世絵師です。生まれは37年離れていますが、北斎の『冨嶽三十六景』(1831〜34年の刊行)と広重の保永堂版『東海道五十三次』(1833年頃の刊行)は、わずか数年の差で世に出ました。
違いを一言でいえば、北斎は富士山を主役に据え、形や構図の面白さで見る人を驚かせた絵師です。広重は街道や江戸の名所を舞台に、遠近法や風雨の表現で旅の場面を描き、風景画家としての名声を確立しました。一方で「北斎の青だけが特別だった」「2人は犬猿の仲だった」といった通説には、史料で裏づけにくいものもあります。以下、確かめられた事実だけで比べていきます。
基本情報
- 葛飾北斎:宝暦10年9月23日(1760年10月31日)生まれ、嘉永2年4月18日(1849年5月10日)没。没年齢は88歳とも満90歳とも記される。生地は武蔵国本所割下水の近く(現在の墨田区亀沢付近)とされる。
- 歌川広重:寛政9年(1797年)生まれ、安政5年(1858年)旧暦9月6日(新暦10月12日)没。江戸八代洲河岸の定火消屋敷に勤める同心の子で、本名は安藤重右衛門。
- 時代:どちらも江戸時代後期
- 立場:浮世絵師。北斎は勝川春朗、宗理、為一、画狂老人卍など30回以上画号を改めたとされる。広重は歌川豊広の門人
- 代表作:北斎『冨嶽三十六景』『北斎漫画』、広重『東海道五十三次』『名所江戸百景』
葛飾北斎と歌川広重の画風の違い
富士山を描き尽くした北斎、街道と名所を描いた広重
北斎の『冨嶽三十六景』は、西村屋与八が版元となった大判錦絵の揃物です。当初は36図の予定でしたが、売れ行きが好調で10図が追加され、全46図になりました。追加分は「裏富士」と呼ばれます。1834年(天保5年)、75歳の北斎は『富嶽百景』を刊行し、富士の図の集大成としました。この本では「画狂老人卍」の号を使い、巻末に自跋も載せています。
広重の出世作は、天保4年(1833年)頃に出た保永堂版『東海道五十三次』(横大判55枚)です。遠近法や風雨の表現が評価され、風景画家としての名声が確立したとされます。広重の画題の中心は富士ではなく、宿場や街道、江戸の町でした。なお、広重が実際に東海道を旅して取材したという話は伝承で、旅をしていなかったとする説もあります。「現地で写生した写実の人」と言い切るのは避けたほうが安全です。
構図の違い:形の面白さと、近景を大きく切り取る視点
北斎は洋風の風景版画(『日本堤田中見之図』など)で、透視画法を使い、明暗を強く意識した西洋絵画を思わせる表現にも取り組みました。『冨嶽三十六景』でも、河村岷雪の『百富士』から構図や全体構成の影響を受けたと指摘されています。
広重の『名所江戸百景』は、近景と遠景を極端に切り取り、俯瞰や鳥瞰、ズームアップのような視点を多く使った斬新な構図が特徴とされます。この連作は、のちに西洋の画家たちにも影響を与えた作品の例とされます。
ベロ藍の使い方と、よくある誤解
ベロ藍(プルシアンブルー)は、輸入された化学顔料の紺青です。ベロ藍を多用した色摺は「藍摺」と呼ばれ、1829年に初めて浮世絵に使われました。『冨嶽三十六景』では、ベロ藍の単色摺りやベロ藍を主体とした作品が10図あります。
ただし「北斎が濃い青で評判をとり、全国に広まった」という説は俗説とされます。ベロ藍は1826年頃から大量に輸入されて値段が下がり、広重をはじめ当時の多くの絵師が使っていました。北斎はそのうちの一人で、日本で最初に藍摺絵を描いたのは北斎の弟子の渓斎英泉だと伝えられます。広重作品の青も、日本古来の藍ではなくベロ藍とされ、欧米では「ヒロシゲブルー」とも呼ばれます。つまり青は2人の違いというより、2人に共通する時代の流行でした。
北斎と広重の生涯と人物像の比較
年齢差と、1830年代の重なり
北斎が『冨嶽三十六景』を出し始めたのは1830年代初め、広重が『東海道五十三次』で名を上げたのは1833年頃です。2人の人気が同じ時期に並んだことになります。北斎の項には、晩年の画風の移り変わりを述べて「為一時代の晩期には、広重の実感的で趣のある作風に人気が移り、北斎は錦絵や風景画から手を引いていった」という趣旨の記述があります。広重の項では、北斎を広重に影響を与えた先人の一人に数えています。
広重が晩年に『富士見百図』の序文で、北斎への評価と自作との違いを書いたことも記録されています。2人が直接会った記録は、今回確かめた資料には見当たりませんでした。直接の交流や敵対心の有無は、資料から言えないというのが正確なところです。
武家の同心から絵師になった広重
広重は文化6年(1809年)、数え13歳のときに母を亡くし、父が隠居したため火消同心の職を継ぎました。父はその年の12月に亡くなっています。師にしようとした初代歌川豊国には入門を断られ、歌川豊広に入門し、1812年に師と自分の一字ずつをとって「歌川広重」の名を得ました。文政元年(1818年)には一遊斎の号でデビューしています。文政6年(1823年)には養祖父側の嫡子・仲次郎に家督を譲って後見となり、天保3年(1832年)に仲次郎が元服したのを機に同心職を正式に譲りました。職を譲った翌年に『東海道五十三次』が出た形です。
画号を変え、住まいを変え続けた北斎
北斎は幼名が時太郎、のちに鉄蔵を名乗ったとされ、画号は30回以上変わりました。転居については、『葛飾北斎伝』が生涯93回と記しますが、具体的な根拠はなく信憑性に欠けるという指摘があります。
臨終の言葉として『葛飾北斎伝』は、「天我をして十年の命を長ふせしめば」と語り、さらに「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と続けたと伝えています。辞世の句は「悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原」で、墓碑に刻まれています。人魂になって夏の野原を飛んでいこう、という意味と解説されます。
世界への影響と、現代に残る2人の絵
ジャポニスムと北斎・広重
19世紀の欧州では、浮世絵などの日本美術が注目され、ジャポニスムと呼ばれる流行が起きました。『北斎漫画』は文化11年(1814年)に初編が出て、明治11年(1878年)までに全15編が刊行されました。図案は3900余で、シーボルトが欧州に持ち込み、海外に知られるきっかけになったとされます。ただし、版画家ブラックモンが北斎漫画を見つけたという有名な逸話は、伝聞で裏づけがないという批判もあります。
ゴッホの模写、ドビュッシーの楽譜表紙
ゴッホは広重の『名所江戸百景』から2点を模写したとされます。ロートレックのポスターに見られる斜めの構図も、広重の構図が着想源と考えられています。
ドビュッシーの交響詩『海』は、初版スコアの表紙に『神奈川沖浪裏』から写した波が描かれています。ただし、この絵が曲の着想源だったという主張は俗説とされ、断定する根拠は十分ではありません。表紙に使われた事実と、着想源の話は分けて考える必要があります。
新千円札とパスポートの北斎
『神奈川沖浪裏』は2024年発行の千円紙幣の裏面に採用されました。パスポートの査証欄にも『冨嶽三十六景』が使われています。2020年2月4日以降のパスポートの査証ページに使われ、外務省は各ページを異なるデザインにすることが偽変造対策にも有益としています。
ゆかりの地と関連する人物
- 北斎の生地:墨田区亀沢付近(本所割下水の近く)とされる
- 北斎の墓所:浅草の誓教寺。墓碑に辞世の句が刻まれている。晩年は浅草聖天町の遍照院の境内の長屋で亡くなったとされる
- 広重の墓所:足立区の東岳寺。当初は浅草北松山町にあり、関東大震災後に現在地へ移った
- 関連する人物:北斎の弟子の渓斎英泉(日本で初めてベロ藍の藍摺絵を描いたとされる)、広重の師の歌川豊広、広重の晩年作を補筆した二代広重、版元の西村屋与八
よくある質問
北斎と広重はどちらが年上ですか?
北斎が1760年生まれ、広重が1797年生まれで、北斎のほうが37年早く生まれています。
北斎と広重は会ったことがありますか?
確かめた資料には、2人が直接会った記録はありませんでした。広重が晩年に『富士見百図』の序文で北斎に触れたことは記録されています。
ベロ藍を最初に使ったのは北斎ですか?
いいえ。日本で最初に藍摺絵を描いたのは北斎の弟子の渓斎英泉と伝えられます。北斎もベロ藍を使った絵師の一人ですが、広重を含む多くの絵師が使いました。
広重は『東海道五十三次』のために実際に東海道を旅しましたか?
取材旅行をしたという伝承はありますが、実際には旅行していなかったとする説もあり、どちらとも断定できません。
広重の死因は何ですか?
安政5年(1858年)に、当時江戸で流行したコレラに感染したとされています。






