津田信澄とは何者か?信長の甥の生涯と本能寺後の最期

結論:津田信澄は信長の甥で明智光秀の娘婿。本能寺の変の3日後、謀反の噂だけで討たれた武将

本能寺の変から3日後の天正10年6月5日(1582年6月24日)、大坂城の千貫櫓のあたりで、一人の若い武将が討たれました。織田信長の甥にあたる津田信澄です。妻が明智光秀の娘だったことから「光秀と通じていた」という噂が広がり、四国攻めの副将だった織田信孝と丹羽長秀に襲われました。

ただし、信澄が謀反に加わった様子や、光秀を助けようとした形跡は見当たらないとされています。信長に厚く用いられた一門衆が、疑いだけで命を落とした。これが信澄の最期の姿です。

なお「津田」という姓は、近年の研究では一次史料に確認できず、本人は一貫して「織田」を名乗っていたとされます。この記事では、検索で広く使われる呼び名として「津田信澄」と書き、必要な箇所で「織田信澄」と補います。

基本情報

  • 名:信澄(初名は信重)。通称は七兵衛。幼名は御坊・坊丸・於菊丸
  • 生年:弘治元年(1555年)または永禄元年(1558年)とされ、はっきりしない
  • 没年:天正10年6月5日(1582年6月24日)。享年は25または28とされる
  • 時代:安土桃山時代
  • 身分:織田信長の甥。父は信長の弟・織田信勝(信行)、母は高島局
  • 居城:近江国高島郡の大溝城
  • 家族:妻は明智光秀の娘。子に昌澄、元信
  • 最期:大坂城で織田信孝・丹羽長秀に襲われ、丹羽家臣の上田重安に討たれた
  • 墓所:墓所・法名は伝わっていない。滋賀県高島市の大善寺に供養墓と慰霊の石碑がある
  • 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』には「織田信澄」の名で登場する

津田信澄とは何者か?生い立ちから大溝城主になるまで

父は信長に殺された弟・信勝

信澄の父・織田信勝(信行)は、信長の弟です。弘治2年(1556年)に兄に対して謀反を起こして敗れ、永禄元年(1558年)に信長の手で殺されました。このとき信勝の子どもたちは信長の命で助けられ、柴田勝家のもとで育てられたと伝わります。

父を討った伯父の命で生かされ、柴田勝家のもとで育つ。信澄の出発点は、織田家の内輪の争いの後始末でした。

磯野員昌の養子になり、高島郡を任される

元亀2年(1571年)ごろ、信澄は浅井氏の旧臣だった磯野員昌の養子になります。ところが天正6年(1578年)、員昌が高野山へ出奔してしまいます。すると信澄は高島郡を与えられ、新庄城から移って、明智光秀の縄張り(設計)による大溝城を築き、城主になりました。

のちに妻となるのが光秀の娘ですから、大溝城は信澄と光秀の結びつきを示す城でもあります。この縁が、のちの悲劇の原因になりました。

信長の側近くで働いた戦歴

信澄は、安土城の普請に携わり、一向一揆との戦いや荒木村重の討伐に従軍しました。天正9年(1581年)の京都の馬揃えにも加わっています。父が謀反人として殺された家の子でありながら、信長のもとで重い役目を任されていたことが分かります。

織田一門の中でも異例の扱いだったと評されます。

「津田」の姓は本当に名乗っていたのか

信澄は一般に津田信澄と呼ばれます。江戸幕府がまとめた『寛政重修諸家譜』などは、元服して津田姓を名乗ったと記しています。しかし誉田航平氏の研究では、一次史料に津田姓は確認できず、信澄は一貫して織田姓を名乗っていたとされています。

つまり「津田信澄」は、後世に定着した呼び名です。大河ドラマでの役名も「織田信澄」です。

本能寺の変の後、なぜ信澄は討たれたのか。評価とその後

四国攻めの副将として大坂にいた

天正10年(1582年)、信澄は織田信孝を総大将とする四国攻めの軍で、副将に任じられていました。同じ時期には、大坂で徳川家康を接待する役目も受けていたとされます。

信澄は大坂に常駐しており、6月2日に舅の光秀が起こした本能寺の変のときも大坂にいたとみられます。

世間では、光秀の娘婿である信澄が謀反に加わっていたのではないか、という噂が流れました。これについて、信澄が実際に光秀と共謀したという事実とは異なると考えられています。変の直後、光秀の縁者として知られた細川忠興でさえ、事件が起きてから事態を知った、という例が挙げられています。縁戚だから事前に知っていたとは限らない、ということです。

それでも、疑心暗鬼にとらわれた信孝と丹羽長秀は、6月5日に信澄を襲います。

千貫櫓での最期と堺での晒し

信澄は大坂城の千貫櫓のあたりで防戦しましたが、丹羽長秀の家臣・上田重安に討ち取られました。信澄は堺の町外れにさらされました。年齢は25歳とも28歳ともされ、生年が定まらないため、享年もはっきりしません。

信澄を襲ったのは、四国攻めで共に軍を率いるはずだった信孝と長秀でした。主君を失った織田家の内側で、疑いが同じ軍の仲間を討つ結果になりました。

宣教師は「暴君」、僧は「逸物」と評した

信澄への評価は、書き手によって大きく分かれます。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と記しています。『耶蘇会報』にも「甚だしく勇敢だが惨酷」とあります。

一方、『多聞院日記』を書いた多聞院英俊は、その死を惜しみ、信澄を「一段の逸物也」と評しました。突出して優れた人物だ、という意味です。外国人宣教師の見方と、日本の僧の見方で、これほど差があります。

織田家の研究で知られる谷口克広氏は、信澄を、信長に似た行動力のある人物だった可能性があると指摘しています。評価が割れる人物だったことは、記録の食い違いからも読み取れます。

私は、フロイスの記述だけを信澄の人物像の中心に置くのは危ういと考えます。宣教師の見聞は一つの立場からの記録であり、同じ人物を別の立場から見た記録と並べてはじめて、輪郭が見えてくるからです。

子どもたちは家を残した

信澄の死後、子どもたちは生き延びました。長男の昌澄は、藤堂高虎の取りなしで豊臣秀吉、のちに秀頼に仕えます。大坂の陣では高虎とともに戦い、戦後に責任をとって自害を図りましたが、高虎と徳川秀忠に止められました。その後は交代寄合の旗本として2,000石を与えられ、家は幕末まで続きました。次男の元信は、織田信雄、のちに豊臣秀頼に仕えています。

父が「謀反の疑い」で討たれた家でしたが、子は豊臣家に仕えたのち、旗本の家として続いたことになります。

ゆかりの地と関連する人物

滋賀県高島市:大溝城と大善寺

信澄が築いた大溝城は、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)にありました。また信澄は、兵火に焼けた比叡山延暦寺の飛地境内にあった大善寺の別院を建立し、その開基になったとされます。現在の大善寺には供養墓と慰霊の石碑があり、命日の6月5日には供養が行われています。信澄自身の墓所や法名は伝わっていません。

関係の深い人物

  • 織田信長:伯父。父を殺した人物でありながら、信澄を重く用いた
  • 明智光秀:舅。大溝城の縄張りを手がけた
  • 柴田勝家:幼い信澄を養育した
  • 織田信孝・丹羽長秀:信澄を襲った二人。上田重安は長秀の家臣

織田・豊臣政権のなかで、若くして非業の最期を遂げた人物としては、豊臣秀次とは何者か?関白就任から切腹までの生涯と功績も合わせて読むと、同じ時代の空気がつかめます。さらに時代をさかのぼって、日本史の大きな転換点を担った人物を知りたい方には、中大兄皇子がしたこととは?大化の改新から天智天皇まで解説もあります。

よくある質問

津田信澄は誰の子ですか?

織田信長の弟・織田信勝(信行)の子で、母は高島局です。信長から見ると甥にあたります。

津田信澄は本能寺の変に関わっていましたか?

関わった形跡はないとされています。妻が明智光秀の娘だったため共謀の噂が流れましたが、信澄が光秀に加担した様子は確認されていません。

津田信澄はいつ、どこで、誰に討たれましたか?

天正10年6月5日(1582年6月24日)、大坂城の千貫櫓のあたりで、織田信孝と丹羽長秀に襲われ、長秀の家臣・上田重安に討たれました。

「津田」姓は本当に名乗っていたのですか?

江戸時代の系譜書は津田姓を名乗ったと記しますが、近年の研究では一次史料に津田姓は確認できず、織田姓で通したとされています。

津田信澄の子孫は残りましたか?

長男の昌澄は大坂の陣のあと、2,000石の交代寄合の旗本となり、家は幕末まで続きました。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。