結論:直接対決の記録はなく、勝敗は「何を強さと呼ぶか」で変わる
信長と謙信が、互いに本陣を構えて正面からぶつかった合戦はありません。1577年(天正5年)の手取川の戦いでも、織田軍の総大将は柴田勝家で、信長は戦場にいませんでした。この一戦では上杉軍が優勢だったと伝わりますが、戦いの規模や、そもそも大きな合戦があったかどうかには議論があります。
比べ方によって答えは分かれます。個々の戦場で見れば、手取川で織田軍を追撃した謙信に分があります。領国の広さと政権としての拡大力では、畿内から東国まで影響を及ぼした信長が上です。ただし二人が戦える状態で全力を出し合ったわけではなく、「どちらが強い」と断定できる史料はありません。この記事では、確かめられる経緯と戦歴を並べ、比較の材料を示します。
基本情報
- 織田信長:天正10年6月2日(1582年6月21日、ユリウス暦)に本能寺の変で自害。享年49
- 上杉謙信:天正6年3月13日(1578年4月19日)に春日山城で死去。享年49(満48歳)
- 時代:室町時代(戦国時代)
- 立場:信長は尾張から畿内へ勢力を広げた戦国大名、謙信は越後を拠点に関東・北陸へ出兵した戦国大名
- 二人の関係:1572年ごろに書状を交わして同盟、1576年に敵対。1577年に配下の軍が手取川で衝突
織田信長と上杉謙信の直接対決はあったのか?接点を時系列で見る
1572〜1574年:武田信玄を非難する書状と、屏風の贈り物
最初の接点は元亀3年(1572年)11月20日です。信長は謙信に書状を送り、武田信玄の行動を強く非難しました。その後、両者は同盟を結んだとされます。これより前の元亀2年(1571年)ごろには、信長は足利義昭の命を受けて武田・上杉間の調停も行っていました。
天正2年(1574年)3月、信長は狩野永徳筆とされる「洛中洛外図屏風」を謙信に贈ります。この屏風はもともと、将軍・足利義輝が謙信に上洛を促すために永徳へ注文したものとされ、義輝が永禄8年(1565年)5月の永禄の変で殺害された後、同年9月に完成して永徳の手元に残っていました。信長が京都を押さえると永徳が信長に近づき、同盟が必要になった信長が謙信に贈ったという経緯が、『上杉年譜』などをもとに復元されています。
屏風は六曲一双の紙本金地着色で、米沢藩主だった上杉家に伝わりました。1995年(平成7年)に国宝に指定され、現在は米沢市上杉博物館が所蔵しています。同盟の贈り物が、今も形として残っているわけです。
1576年:石山本願寺との和睦で敵対へ
関係が壊れたのは天正4年(1576年)です。謙信は4月から石山本願寺との和睦交渉を始め、5月中旬に顕如と和睦しました。さらに武田勝頼とも和睦し、信長との対立を明らかにします。これで信長を包囲する構図ができ、同盟は破綻しました。同年9月から11月にかけて、謙信は越中を平定し、能登へ進みます。
1577年:手取川の戦い
能登の七尾城に籠もる畠山方の長続連は、以前から関係のあった信長に救援を求めました。信長は謙信の勢力拡大を望まず、柴田勝家を総大将とする軍勢(約4万とする記載)を8月8日に出陣させたとされます。同じころ、閏7月には伊達輝宗らに働きかけ、越後の本庄繁長と協力して謙信を討つ策も進めていたと伝わります。
謙信は9月15日に七尾城を落とします。城内では疫病が広がり、畠山家臣の遊佐続光らが内応したことが落城につながりました。勝家の軍は落城を知らないまま手取川を渡り、そこで謙信と松任城入りを知って撤退を命じます。9月23日夜、謙信直率の約8,000の軍が追撃し、増水した手取川で溺れる者も多く出たとされます。
謙信は9月26日に七尾城へ戻り、松波城も落として能登をほぼ平定したと伝わります。
戦歴・領国・人物像で比べる:信長と謙信はどっちが強い?
戦場での強さ:桶狭間・長篠と、川中島・関東出兵
信長の代表的な勝利は、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いです。今川軍の兵力は1万人とも4万5千人ともされ、織田軍は数千人程度と見られています。信長は幸若舞『敦盛』を舞ってから出陣し、今川義元を討ち取りました。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、織田・徳川の連合軍(約3万)が武田軍(約1万5千)に勝ちました。信長は佐々成政ら5人の武将に火縄銃の射撃を行わせたと記されています。数で上回り、鉄砲を用意して勝つのが信長の戦い方でした。
謙信の戦歴は、遠征の多さが特徴です。川中島の戦いは天文22年(1553年)の布施の戦いに始まり、第4次は永禄4年(1561年)8月、第5次は永禄7年(1564年)8月に約60日対峙して決着がつきませんでした。永禄4年には北条氏の小田原城を攻囲し、関東出兵は17回あったとされます。永禄6年(1563年)4月には唐沢山城で佐野昌綱を降伏させ、翌年4月には山王堂の戦いで小田氏治を破りました。
軍勢の規模も違います。『甲陽軍鑑』によれば永禄4年8月の謙信軍は1万9000人です。元亀2年(1571年)2月の越中出陣は2万8000人、天正2年の関東出陣は8,000人とされます。数万の兵を動かす大名ですが、信長のように数の優位で押し切る戦い方とは違うことが、数字からうかがえます。
領国の広がり:畿内の政権か、遠征する越後の大名か
信長は永禄10年(1567年)に稲葉山城の戦いで斎藤龍興を破り、尾張・美濃を領しました。翌年9月には足利義昭を擁して上洛します。天正元年(1573年)8月に朝倉氏を滅ぼして越前を織田領とし、天正8年(1580年)3月10日には北条氏政から従属の申し入れを受けました。天正10年(1582年)3月には、滝川一益に旧武田領の上野国と信濃2郡を与えています。
「天下布武」の朱印は永禄10年11月から使われました。この「天下」は日本全国ではなく五畿内を指すと考えられ、室町幕府再興の意志を込めたものとされています。全国統一の宣言と読むのは、現在の見方とは異なります。
謙信は越後を拠点に、関東や北陸へ出兵を繰り返しました。関東管領職にこだわり続けた面があり、私利私欲にとらわれない義の武将として知られる一方、近年の研究では利害を冷静に判断して領土拡大に努めた戦国大名という見方もあります。「義の人」の姿は後世に美化された面があると指摘されています。
経済政策と文化:楽市楽座と名物狩り
信長の経済政策としてよく挙がる楽市・楽座ですが、確認できる限り、最初に行ったのは近江南部の六角氏とされます。評価も分かれ、座を解体する革新的政策とみる豊田武の説に対し、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じています。一方、関所を不必要に撤廃して流通の活性化を図ったことや、天正2年末から4人の奉行に道路整備を命じたことは確認できます。
文化面では、永禄12年(1569年)以降の「名物狩り」があります。名物茶道具を収集し、手に入れた道具は家臣への恩賞や政治的手段に使われました(御茶湯御政道)。
謙信は和歌に通じ、達筆でもあったとされます。近衛稙家から和歌の奥義を伝授され、永禄5年(1562年)2月13日には甥の喜平次(のちの上杉景勝)に習字の手本『伊呂波尽手本』を贈りました。
あえて勝敗をつけるなら
以下は私の考えです。野戦の指揮と機動力の評価では、手取川で追撃を成功させた謙信が上に見えます。一方、複数の方面に軍を同時に出し、畿内を押さえて東国の北条氏まで従属させた点は、信長にしかできないことでした。二人が戦っていたら、という仮定の勝敗は、史料からは決められません。
掘り下げ:謙信の最期と、よくある誤解
謙信の死と信長への影響
謙信は天正5年の手取川のあと、関東への出陣を準備していました。越中の領主や国衆にも動員をかけたとされますが、天正6年3月9日に閑所で倒れ、意識が戻らないまま3月13日に亡くなりました。死因は、過度の飲酒や塩分の摂り過ぎなどによる糖尿病性高血圧が原因の脳血管障害とみる見方が定説とされ、昏睡状態だったことから脳溢血とする見方もあります。胃癌や食道癌と脳卒中の併発、急性膵炎、腹部大動脈瘤の破裂といった推論も紹介されています。
手取川の戦いに関する記述では、信長包囲網が謙信の死去まで一時的に勢いを取り戻したとされています。
手取川は「織田軍の大敗」と言い切れるか
手取川の戦いは、上杉軍の圧勝として語られることが多い合戦です。しかし『信長公記』は柴田勝家らの出陣と秀吉の離脱は記すものの、合戦そのものは記していません。『長家家譜』には、秀吉は戦わずに帰陣したと記されているとされます。『大日本史料』は織田軍の大敗という記述を採らず、「9月23日に謙信が追撃した」という内容にとどめています。
謙信自身の9月19日付の書状には、千余人を討ち取ったことや、洪水で多くの者が流されたことが書かれ、「信長打出候間」と信長が出てきたことにも触れています。史料が乏しく、戦いの規模は確定していません。
「毘沙門天の化身」と軍神のイメージ
謙信は毘沙門天の熱心な信仰者で、本陣の旗印に「毘」の文字を用いたとされます。弘治2年(1556年)には、3月23日に出家を宣言し、6月28日に春日山城を出奔しましたが、8月17日に家臣に説得されて思いとどまった出来事もあります。「義」だけで語られがちな謙信にも、人間くさい一面があったことが分かります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 米沢市上杉博物館(山形県):信長が謙信に贈った国宝「上杉本洛中洛外図屏風」を所蔵する
- 春日山城(新潟県上越市):謙信が死去した城。城内には生前から墓所となる不識院が建てられていた
- 林泉寺(春日山):謙信の供養塔がある
- 上杉神社(山形県米沢市):明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建。明治35年(1902年)に別格官幣社となり、神体は謙信一柱となった
- 本能寺・総見院・安土城址:信長の遺体は発見されておらず、衣冠墓・供養塔が21か所に作られた。安土城址には織田信長公本廟がある
謙信の遺骸は、鎧を着せ太刀を帯びさせ、甕に納めて漆で密封し、不識院に埋葬されたとされます。のち景勝の会津移封で移され、関ヶ原の戦い後は米沢城本丸に安置、明治以降は上杉家廟所に改葬されました。
関連する人物
- 柴田勝家:手取川の戦いで織田軍の総大将を務めた
- 武田信玄:謙信とは川中島で戦い、信長は書状でその行動を非難した
- 上杉景勝:謙信の甥で、のち上杉家を継いだ
- 狩野永徳:洛中洛外図屏風の作者とされる絵師
- 足利義昭:信長が擁して上洛した将軍。信長は義昭の命で武田・上杉間の調停を行った
よくある質問
信長と謙信は戦ったことがありますか?
本人同士が戦場で向き合った記録はありません。天正5年(1577年)9月の手取川で、信長の命を受けた柴田勝家と謙信の軍が衝突したとされます。ただし戦いの規模には議論があります。
信長と謙信は同盟関係だったのですか?
元亀3年(1572年)11月の書状のあと同盟を結んだとされ、天正2年には信長が洛中洛外図屏風を謙信に贈りました。天正4年に謙信が石山本願寺・武田勝頼と和睦して敵対に転じています。
謙信が長生きしていたら信長に勝てましたか?
史料からは判断できません。謙信は天正6年に急死し、関東への出陣準備の最中でした。仮定の勝敗は、確かめられる事実の外にあります。
信長が楽市・楽座を始めたのですか?
確認できる限り、最初に行ったのは近江南部の六角氏とされます。信長が座の特権を多く保障していたと論じる研究もあり、評価は分かれています。
謙信の死因は何ですか?
3月9日に閑所で倒れ、13日に亡くなりました。糖尿病性高血圧による脳血管障害とする見方が定説とされ、脳溢血とする見方や、胃癌・食道癌と脳卒中の併発など、ほかにも諸説があります。





