武田信玄

結論:明確な勝敗はつかなかった。ただし川中島は武田の勢力下に入った

川中島の戦いは、武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)が信濃国川中島(現在の長野市)周辺で争った数次の戦いです。双方が勝利を主張しており、はっきりした勝ち負けはつきませんでした。

一方で、結果だけを見ると、戦いの後に川中島地方は武田氏の勢力下に入っています。「どちらが勝ったか」は、戦場での勝敗と、最終的に何を得たかで答えが変わります。

もう一つ、よくある思い込みがあります。いわゆる「五回の戦い」のうち、実際に川中島で戦闘があったのは第二次(犀川の戦い)と第四次だけとされます。一般に「川中島の戦い」といえば、最大の激戦だった第四次を指します。

基本情報

  • 時代:戦国時代(1553年〜1564年)
  • 場所:信濃国川中島周辺(現在の長野市)
  • 武田信玄:大永元年(1521年)生まれ、元亀4年(1573年)没、享年53
  • 上杉謙信:享禄3年(1530年)生まれ、天正6年(1578年)没、享年49(数え年)
  • 一般に「五次」と数えられるが、近年の研究では六戦説など数え方に異説がある
  • 最大の激戦:第四次(八幡原の戦い)、旧暦の永禄4年(1561年)9月9日〜10日

川中島の戦いはどっちが勝ったのか:五次の経過と結果

戦いの背景:なぜ川中島で争ったのか

武田氏は信濃へ侵攻を進め、1548年の上田原の戦いでは村上義清に敗れたものの、1551年に1551年に戸石城を落としました。追われた北信濃の国衆(高梨氏など)は、縁戚関係にあった長尾氏に援助を求めます。こうして越後の景虎が北信濃へ出てくることになりました。

川中島は、犀川と千曲川が合流する地点から広がる、長野盆地の南に位置する土地です。

第一次〜第三次:決戦を避けた睨み合い

第一次(1553年)は布施の戦い、更科八幡の戦いなどとも呼ばれます。景虎は9月に出陣し、布施で武田の先鋒を破るなどしましたが、武田は決戦を避け、景虎は9月20日に越後へ引き揚げました。

第二次(1555年)は犀川の戦いです。両軍は犀川を挟んで200日余り対陣しました。最後は今川義元の仲介で和睦し、旭山城を破却して、犀川を境に北を上杉領、南を武田領とする形になりました。

第三次(1557年)は上野原の戦いとも呼ばれます。景虎は4月に出陣して長野盆地の諸城を奪還しましたが、武田はやはり決戦を避け、決着はつきませんでした。この後、足利義輝の仲介を経て、1558年に武田晴信は信濃守護に補任されています。

第四次(八幡原の戦い):最大の激戦

第四次の前、上杉政虎(景虎)は関東に出兵して小田原城を包囲しましたが、攻め落とせずにいました。北条氏康の要請を受けた信玄は北信濃に出て海津城を築き、政虎の背後を脅かします。政虎は妻女山に布陣し、信玄は茶臼山(諸説あり)や塩崎城に布陣しました。

武田側は、別働隊が妻女山の上杉軍を攻めて麓の八幡原へ追い落とし、待ち受ける本隊と挟み撃ちにする作戦を立てたとされます。これが「啄木鳥戦法」と呼ばれるものです。兵力は、武田が本隊8000と別働隊1万2000の計2万、上杉が1万3000とされます。

ところが政虎は、海津城からの炊煙が多いことから動きを察したとされ、夜のうちに妻女山を下り、雨宮の渡しで千曲川を渡りました。頼山陽の漢詩「鞭声粛々夜河を渡る」は、この場面を詠んだものです。

霧が晴れた午前8時頃、武田本隊の前に上杉軍が現れます。柿崎景家らを先鋒とする波状攻撃に、武田は鶴翼の陣で応じましたが、信玄の弟・武田信繁、山本勘助、諸角虎定らが討死するなど、一時は危機的な状況に陥りました。

別働隊は、上杉軍のしんがりを務めた甘粕景持の部隊に阻まれて到着が遅れ、昼前にようやく八幡原に着きます。挟まれる形になった上杉軍は兵を引いて犀川を渡り、善光寺へ退きました。午後4時頃に信玄も追撃を止め、戦いは終わりました。死者は上杉軍が3000余、武田軍が4000余とされますが、史料によって差があります。

戦後には、政虎が出した感状3通(「血染めの感状」と呼ばれます)が残り、信玄側にも感状2通が確認されています。双方が戦功を称えており、これが「双方が勝利を主張した」と言われる材料の一つです。

第五次:塩崎の対陣

第五次(1564年)は飛騨国の内紛に武田と上杉が介入したことが発端でした。8月に輝虎(政虎)が出陣しますが、信玄は塩崎城に布陣して決戦を避け、2か月の対陣の後、10月に両軍が撤退しました。いずれも決戦のないまま終わりました。

「どっちが勝った」をめぐる諸説と、一騎討ちの真偽

戦果で見ると:武田が川中島を得た

戦場の勝ち負けではなく、結果を見るなら、川中島地方は戦いを通じて武田氏の勢力下に入りました。信玄は1557年に信濃守護職に補任されてもいます。この点を重く見れば、武田が実利を得たという見方になります。

一方、上杉側は1561年閏3月に関東管領職を継ぎ、政虎と名乗りました。第四次の前には関東に出兵して小田原城を包囲しており、上杉の動きは川中島だけに向いていたわけではありません。

啄木鳥戦法と「不期遭遇戦説」

第四次をめぐっては、見方そのものが分かれています。啄木鳥戦法は、妻女山の尾根が急で、実際に挟撃が可能だったのか疑問視されています。また、両軍が濃霧の中で行軍し、本隊同士が偶然ぶつかったとする「不期遭遇戦説」もあります。この説は、当時の戦いとしては死傷者が多いことの説明にもなるとされます。

合戦そのものが、家臣の求心力を高めるための「パフォーマンス」だったとする説もあります。いずれも有力な通説として定着しているわけではなく、「こう考える研究もある」という段階の話です。

有名な一騎討ちは史実か

政虎が信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配で太刀を受けたという場面は、『甲陽軍鑑』などに描かれます。しかしこの一騎討ちは、確実な史料では確認されていません。後世の軍記物や絵画に多く描かれたもので、浮世絵だけでも200種類を超える川中島合戦図があり、一騎討ちの場面は特に好まれたとされます。

『甲陽軍鑑』は近世初頭に成立した武田流軍学の書で、春日虎綱(高坂昌信)の口述に基づくとされます。ただし史実との食い違いも多く、扱いには慎重さが必要とされています。同時代の一次史料とされるのは、血染めの感状や近衛前久の書状などです。

「五回」という数え方も揺れている

江戸時代には軍記物が広まり、「五戦説」が定着しました。ところが1889年に田中義成が五戦説を否定して二戦説を唱え、2000年には柴辻俊六が川中島の戦いは第四次に限られるとしました。2007年には西川広平が起請文の分析から「六戦説」を唱え、「川中島五戦」という呼び方は越後流軍学の書物に見られるものだとして、上杉氏が支配の正当性を主張するために生んだ呼称ではないかと推測しています。さらに、前嶋敏の集計では、永禄元年、10年、11年の戦いも含めると8回になるとされます。

ゆかりの地と関連する人物

川中島古戦場史跡公園(長野市)

長野市小島田町1384-1にある公園で、2017年(平成29年)7月1日に「八幡原史跡公園」から現在の名前に変わりました。長野市の案内では、隣接する八幡社の中に、信玄と謙信の一騎討ちを表した像があるとされています。園内には市立博物館もあります。

躑躅ヶ崎館(甲府)と春日山城(上越)

信玄の本拠は甲府の躑躅ヶ崎館で、菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺です。謙信は春日山城で生まれ、同城で亡くなりました。城内にはのちに不識院という廟所が設けられています。

関連する人物

  • 武田信繁:信玄の弟。第四次で討死した
  • 山本勘助:第四次で討死した
  • 甘粕景持:上杉軍のしんがりを務め、武田別働隊の到着を遅らせた
  • 村上義清:1548年の上田原の戦いで武田を破った信濃の武将
  • 今川義元・足利義輝:それぞれ第二次、第三次の和睦を仲介した

よくある質問

結局、武田信玄と上杉謙信のどちらが勝ちましたか?

双方が勝利を主張し、明確な勝敗はつきませんでした。ただし、戦いの結果として川中島地方は武田氏の勢力下に入っています。

川中島の戦いは本当に5回あったのですか?

江戸時代以来「五戦説」が広まりましたが、研究では異説があります。二戦説、第四次に限る見方、六戦説、8回とする集計などです。実際に川中島で戦闘があったのは第二次と第四次のみとされます。

信玄と謙信の一騎討ちは実際にあったのですか?

『甲陽軍鑑』などの軍記物には描かれますが、確実な史料では確認されておらず、後世に脚色された場面とみられています。

啄木鳥戦法とは何ですか?

別働隊が妻女山の上杉軍を追い落とし、八幡原で待つ本隊と挟み撃ちにする作戦です。ただし、地形から実際に可能だったのか疑問視する見方もあります。

川中島古戦場にはどう行けますか?

長野市の案内によると、長野インターから車で5分です。バスはJR長野駅(善光寺口)3番のりばから「古戦場経由松代行き」に乗り、「川中島古戦場」で降りるとすぐです。駐車場は無料で156台分とされています。