武田信玄 兜 甲冑

結論:信玄の兜・甲冑の「顔」は、実戦の装備というより、後世のイメージと武田家の家宝が作ったもの

武田信玄の兜といえば「諏訪法性(すわほっしょう)の兜」、甲冑といえば武田家伝来の国宝「楯無(たてなし)」、そして武田軍の代名詞「赤備え」が思い浮かびます。ただし、この3つは役割がまったく違います。

諏訪法性の兜は、江戸時代に確立した「法師武者姿」の信玄像を象徴する兜です。楯無は、正式名称を「小桜韋威鎧(こざくらかわおどしよろい)」といい、武田氏の惣領のしるしとして代々伝わった平安時代の鎧で、現在は菅田天神社が所有する国宝です。赤備えは信玄個人の装いではなく、飯富虎昌(おぶ とらまさ)、続いて山県昌景(やまがた まさかげ)が率いた部隊の装備の統一でした。

つまり「信玄が赤い甲冑に白い毛の兜で戦った」という姿は、複数の話が一つに重なってできたイメージです。以下、確かめられる範囲の事実と、伝承にとどまる話を分けて整理します。

基本情報

  • 人物:武田信玄(出家前の名は晴信)
  • 生没年:大永元年(1521年)〜元亀4年(1573年)、享年53
  • 時代:戦国時代(室町時代後期)
  • 立場:甲斐国の戦国大名。永禄2年(1559年)に出家し、「徳栄軒信玄」と号したとされる
  • 兜の代表:諏訪法性の兜(江戸時代に確立した信玄像の象徴)
  • 甲冑の代表:小桜韋威鎧(通称「楯無」)。平安時代、国宝(1952年指定)、所有者は菅田天神社
  • 部隊の装備:赤備え(飯富虎昌、のち山県昌景が率いた)

武田信玄の兜「諏訪法性兜」とは?信玄像と信仰の関係

江戸時代に定着した「法師武者」の信玄像

信玄の同時代の肖像画として知られるのは、和歌山県の持明院が所蔵する『絹本著色武田晴信像』などです。ところが一般に広まった信玄の姿は、これらとは別のところで形づくられました。

江戸時代には、軍配を持ち、赤い法衣をまとった「法師武者」の姿が確立し、歌舞伎や浄瑠璃、役者絵を通じて定着したと説明されています。この姿を象徴するのが「諏訪法性の兜」です。信玄が永禄2年(1559年)に出家したことは確かで、この僧形の武将という姿が、兜とともに描かれ続けました。

つまり、私たちが思い浮かべる「法性兜をかぶった信玄」は、戦国時代そのままの姿というより、江戸時代以降の芝居や絵が作り上げた像の影響が大きいのです。

名前の「諏訪法性」と武田軍の旗

「諏訪法性」の語は、諏訪明神(諏訪大社の神)への信仰と結びついています。有名な「風林火山」の旗と並んで、「南無諏方南宮法性上下大明神」と記した旗が使われたとされ、諏訪明神の加護を頼む姿勢がうかがえます。武田氏の組織でも、旗奉行が「諏訪法性の旗」などを扱ったと記されています。

ここで注意したいのは、確かめられる資料に出てくる「諏訪法性」は、旗の名として現れるという点です。兜の名としての「諏訪法性」は、先に述べた江戸時代以降の信玄像を説明する文脈で語られるものです。

現存する法性兜と、分からないこと

Wikipedia の信玄の項目には、諏訪湖博物館が法性兜の現物と複製品を所蔵すると書かれています。一方で、この実物がいつ作られたか、信玄が実際に戦場でかぶったのかについて、今回確かめた公的な資料やWikipediaには記述がありません。

そのため本記事では、「信玄が愛用した兜」と断定することは避けます。展示や公開の状況は変わることがあるため、見学を考えるなら、館の公式案内で最新の情報を確認してください。

国宝「楯無」とは?小桜韋威鎧に込められた武田家の権威

国宝・小桜韋威鎧の基本データ

武田家に伝わった鎧は、文化庁の「文化遺産オンライン」では「小桜韋威鎧〈兜、大袖付〉」として登録されています。時代は平安、1905年(明治38年)に重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定され、所有者は菅田天神社です。寸法は胴高65.1cm、兜鉢高10.0cm、大袖長42.4cmです。

山梨県の文化財の解説によると、名称は、小桜の文様をびっしりと施した小札(こざね)で大袖と草摺(くさずり)を威(おど)していることに由来します。藤原時代の初期の鎧で、この時代の鎧は現存例が少なく、厳島神社、大山祇神社、御岳神社などにわずか5領あるのみとされています。

「楯無」の名と「御旗楯無」の誓い

通称の「楯無」は、楯が要らないほど堅固だという意味だと説明されています。甲斐源氏の祖・新羅三郎義光から伝わり、日の丸の旗(御旗)とともに「御旗楯無」と呼ばれ、武田氏の惣領のしるしとされてきました。

戦国期の武田家中では、これらは神のように扱われ、出陣の際に「御旗楯無も御照覧あれ」と誓ったとされます。永禄9年(1566年)の生島足島神社の起請文にも楯無に触れたものがあります。『甲陽軍鑑』には、長篠の戦いで勝頼が撤退論に反対し、楯無に誓って戦うことを主張した場面が書かれています。ただし、『甲陽軍鑑』は江戸時代に成立した軍学書なので、話の細部は割り引いて読む必要があります。

家督との結びつきも語られます。『甲陽軍鑑』は、信虎が勝千代(のちの信玄)に御旗と楯無の相続を約束したと記しています。一方、嫡子に代々伝えるという伝承は、武田氏が甲斐を支配する正当性を支えるために成り立ったものだと考えられている、との指摘もあります。

菅田天神社に納められた経緯と、埋められた伝承

楯無は、信玄が鬼門を鎮めるために菅田天神社に納めたとされ、管理は於曽氏が担い、必要なときに持ち出されたと伝わります。文化庁の解説も、信玄の時代に同社へ納められたと説明しています。

武田氏の滅亡にまつわる話は、資料によって伝え方が違います。

  • 文化庁の解説:長篠の戦いでの敗戦のときに家臣が持ち出して埋め、のちに徳川家康の甲府入城の際に掘り出されて、再び同社に納められた
  • 山梨県の解説:天正10年(1582年)に勝頼が自害して武田氏が滅んだ際、家臣が織田方の手に渡ることを恐れて向嶽寺の庭に埋め、のちに入国した家康が聞いて掘り出させ、同社に納めた
  • 悲話として語られる話:勝頼が跡継ぎの信勝に楯無を着せ、父子で自刃した(ただし信勝はすでに元服していたと推定されている)

埋められた時期や状況の細部は、このように資料によって異なります。「家臣が守り、家康の時代に再び社に納められた」という大筋が、共通して伝わっている部分です。

楯無をめぐる誤解と、赤備え・実戦装備の実像

「源氏八領の楯無」と同じ鎧なのか

楯無は「源氏八領」の一つとして語られがちです。源氏八領は、『保元物語』などに見える源氏重代の鎧の総称で、月数・日数・源太が産衣・八龍・沢瀉・薄金・楯無・膝丸の八つが挙げられます。

ただし、武田家に伝わった鎧が、その八領の「楯無」そのものだとは考えにくいとされています。『平治物語』が描く八領の楯無は黒糸威であるのに対し、武田家の鎧は小桜韋黄返威で、特徴が合いません。義朝が平治の乱で脱ぎ捨てた楯無が回収されて武田家に届いたという伝承もありますが、新井白石らは否定的で、これが多数派の見方と説明されています。国宝の楯無は「源氏八領の一つ」という伝承を持つものの、別の鎧と考えられている、というのが現在の整理です。

赤備えは信玄の装いではなく、部隊の装備

赤備えは、甲冑や旗指物を赤や朱で統一した部隊編成です。当時の赤色は高価な辰砂から作られ、戦場で目立つため、武勇に優れた武将が率いる精鋭部隊になることが多かったとされます。

最初に赤備えを率いたのは、武田氏の飯富虎昌とされます。虎昌は後世に「甲山の猛虎」とも称されました。朱色は本来、多くの首を挙げた者に大名から与えられるもので、虎昌は家督を継げない武将の次男たちを朱色の部隊にまとめ、切り込み隊として組織したと説明されています。虎昌は永禄8年(1565年)の義信事件に連座して切腹し、その部隊は弟(甥とする説もある)の山県昌景が引き継ぎました。同書によれば、昌景のほか小幡信貞と浅利信種も赤備えを編成し、合わせて千騎になったとされます。

ここから分かるとおり、赤備えは部隊の話であって、信玄自身が赤い甲冑を着ていたという根拠にはなりません。

武田家は色で部隊を分けていた

元亀3年(1572年)の信玄の朱印状では、装備を朱色で統一することを武田信豊に独占的に認めています。天正2年(1574年)には、勝頼が信豊の一手衆に黒出立ちの使用を許可しました。こうした文書から、武田軍では「一手衆」ごとに色などの兵装の規格を整えていたと考えられています。

赤備えは武田氏滅亡後も受け継がれました。甲斐を平定した家康は武田の遺臣を井伊直政に付け、直政は山県隊の旧臣にあやかって自らの部隊を赤備えとし、「井伊の赤鬼」と恐れられました。大坂夏の陣(1615年)では真田信繁(幸村)も部隊を赤備えにして、家康の本陣を攻めています。

肖像画にまつわる意外な話

もう一つ、信玄の姿をめぐる有名なトリビアがあります。高野山成慶院が所蔵する長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』は、江戸時代の『集古十種』で紹介され、明治には教育用の掛図に採用されて、広く知られる信玄像になりました。ところが歴史学者の藤本正行は、この像の人物は畠山義続である可能性が高いとしています。ただし、美術史家からは反論もあります。

この説を踏まえると、私たちが「信玄の姿」として目にしてきた甲冑姿の肖像でさえ、確かな根拠は意外に揺らいでいることになります。信玄の装いを語るときは、絵や物語と、文書や現物で確かめられる事実を分けて見ることが大切です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 菅田天神社:国宝・小桜韋威鎧(楯無)の所有者
  • 雲峰寺(山梨県甲州市):「御旗」(日章旗)を所蔵するとされる寺
  • 諏訪湖博物館:Wikipedia は、法性兜の現物と複製品を所蔵すると記す。展示状況は公式案内で確認を
  • 高野山の持明院・成慶院(和歌山県):同時代とされる信玄像などを所蔵する

関連する人物

  • 飯富虎昌:最初に赤備えを率いたとされる重臣。義信事件で切腹
  • 山県昌景:虎昌の赤備えを引き継いだ武将
  • 武田勝頼:信玄の子。長篠の戦いで楯無に誓ったと『甲陽軍鑑』が伝える
  • 徳川家康:武田氏滅亡後、楯無を再び菅田天神社に納めたと伝わる
  • 井伊直政・真田信繁:武田の赤備えにならった武将

よくある質問

諏訪法性の兜は、信玄が実際にかぶったものですか?

確かめられた資料では、実物がいつ作られたか、信玄が戦場でかぶったかは分かりません。確かなのは、江戸時代に確立した法師武者姿の信玄像を、この兜が象徴しているという点です。

楯無はどこで見られますか?

所有者は山梨県甲州市の菅田天神社です。国宝として管理されているため、見学や公開の機会は神社の案内で確認してください。

「楯無」とは、どういう意味ですか?

楯が要らないほど堅固な鎧、という意味だと説明されています。正式名称は「小桜韋威鎧」で、小桜の文様をびっしり施した小札で威していることにちなみます。

信玄は赤い甲冑を着ていましたか?

赤備えは飯富虎昌、のち山県昌景らが率いた部隊の装備です。信玄自身が赤い甲冑を着ていたと示す根拠は、今回確かめた資料にはありません。

楯無は源氏八領の楯無ですか?

そうした伝承はありますが、特徴が合わないため、別の鎧と考えられています。新井白石らも、源氏八領の楯無が武田家に伝わったという話には否定的でした。