結論:世阿弥は、父・観阿弥とともに能(猿楽)を大成した室町時代の芸能者
世阿弥は、室町時代初期の大和猿楽・結崎座の猿楽師です。父の観阿弥とともに猿楽を大成しました。12歳ごろに将軍・足利義満の目にとまって庇護を受け、『風姿花伝』などの伝書で「花」や「幽玄」を軸にした芸論を残しています。
晩年の永享6年(1434年)、世阿弥は佐渡へ流されました。公的な記録に流罪の記録はなく、原因は分かっていません。世阿弥自身は、のちに著した『金島書』で無実を主張しています。佐渡で亡くなったとする説が有力ですが、赦されて京へ戻ったとする説もあり、最期は確定していません。
基本情報
- 生没年:貞治2年(1363年)ごろ〜嘉吉3年(1443年)8月8日。いずれも推定を含む
- 時代:室町時代
- 立場:大和猿楽・結崎座(のちの観世座)の猿楽師。観世大夫を継いだ
- 名前:幼名は鬼夜叉、通称は三郎、実名は元清
- 父:観阿弥。長男は元雅
- 代表的な著作:『風姿花伝』『花鏡』『九位』『金島書』『世子六十以後申楽談儀』など。伝書は現在21種が認められている
- 代表的な作品:『高砂』『井筒』『実盛』など、50曲近くが伝わり、現在も上演される
世阿弥の生涯:義満に見いだされた少年から、観世大夫、そして佐渡へ
父・観阿弥のもとで育つ
父の観阿弥は、元弘3年(1333年)の生まれとされます。出身ははっきりせず、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、祖父が伊賀の服部氏の一族から宇陀の中家に養子に入ったという記述があります。観阿弥は大和猿楽四座の一つ、結崎座の一員として、興福寺や春日神社の神事能を勤めていました。
世阿弥は幼いころから父の一座の舞台に出ていました。大和国の補巌寺では、竹窓智厳に師事したとされます。
足利義満との出会い
1374年または1375年、京都の新熊野神社で観阿弥と世阿弥が猿楽を演じました。これを足利義満が見物し、以後、観世一座は将軍や有力な武家・公家の愛顧を受けるようになります。観世一座は幕府のお抱えのような存在になった、と説明されています。このとき世阿弥は12歳ごろでした。
義満の庇護のもと、世阿弥は1378年の祇園会で義満の桟敷に近侍しています。関白・二条良基には連歌を学び、その影響は能の作品や芸論にも及んだとされます。「藤若」という名を二条良基から与えられたとも伝わります。
「世阿弥」という名は、時宗の法名「世阿弥陀仏」の略とされています。ただし、芸名とみる説もあります。「世」の字の濁音化は義満の指示によるという説もあります。
観阿弥の死と観世大夫の継承
至徳元年(1384年)、観阿弥は駿河国の静岡浅間神社で演能した後、その地で亡くなりました。世阿弥が観世大夫を継いだのは、この年です。
義満の死後、義教の時代へ
義満の没後、将軍が義持の代になると、田楽を好む将軍のもとで世阿弥への恩恵は減りました。このころ『風姿花伝』などを書いています。応永29年(1422年)には出家し、観世大夫の座を長男の元雅に譲りました。
永享元年(1429年)に足利義教が将軍になると、状況はさらに変わります。義教は、元雅の従兄弟にあたる音阿弥(観世元重)を重く用い、世阿弥を冷遇しました。同年、世阿弥は仙洞御所への出入りを禁じられ、翌1430年には醍醐清滝宮の楽頭職も罷免されます。1432年には元雅が伊勢の安濃津で亡くなりました。そして1434年、世阿弥は佐渡へ流されます。
『風姿花伝』の内容:「花」「物まね」「幽玄」とは
『風姿花伝』はどんな書物か
『風姿花伝』は、15世紀初めごろに成立した能の伝書です。第一から第五の篇は1400年ごろの成立とされ、残りは約20年かけて書かれ、改訂されたと考えられています。奥書は、観世宗節署名本が応永9年(1402年)とされ、第二次相伝本の「別紙口伝」は応永25年(1419年)の作とされます。
全体は七つの篇から成ります。
- 第一「年来稽古条々」:役者の一生を七つの時期に分け、年齢に応じた稽古のあり方を説く
- 第二「物まね条々」:演じる対象ごとの心得
- 第三「問答条々」
- 第四「神儀に云う」
- 第五「奥儀に云う」
- 第六「花修に云う」
- 第七「別紙口伝」:最奥の秘伝とされる
この書は、奈良の金春宗家などで相伝の秘伝書として伝えられました。1909年(明治42年)に吉田東伍が学会で発表し、『世阿弥十六部集』を出版したことで、一般に知られるようになりました。『十六部集』が発見された1883年以降、世阿弥は能の大成者として高く評価されるようになりました。
「花」:時分の花とまことの花
世阿弥の芸論では、少年期の美しい声や姿を「時分の花」、能の奥義を「まことの花」と呼び分けました。年齢による一時的な魅力と、稽古を積んで得る本物の魅力を区別したことになります。
第七には、その時々の花は種がなければ一度きりで終わり、種があれば再び咲く、という趣旨の説明があり、「初心忘るべからず」という戒めも示されます。同じく第七の「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という一節も、よく知られています。
「物まね」:この道の根本
第二の「物まね条々」で、世阿弥は、物まねの種類は書き尽くせないが、この道の根本なので研究を重ねるべきだと述べています。能は、演じる対象を深く学ぶことを土台にしています。
「幽玄」:よい能の条件
第六の「花修に云う」では、よい能の条件として、本説(拠りどころとなる物語)が正しいこと、新鮮な工夫があること、見どころがあることを挙げ、そのうえで「幽玄」であることを第一に挙げています。「幽玄」の語に、ここで詳しい定義が添えられているわけではありません。
ほかに、世阿弥の芸論には「離見の見」があります。演者が自分を客観的に見る視点を指す言葉です。
佐渡流罪の理由:記録がなく、説が分かれる
何が分かっていて、何が分からないか
世阿弥は永享6年(1434年)に佐渡へ流されました。永享8年(1436年)には佐渡で『金島書』を著しました。しかし公的な記録に流罪の記録はなく、原因は不明とされます。世阿弥は『金島書』で無実を主張しています。
流罪の理由をめぐる説
- 磯部欣三説:足利義勝の誕生に際して日野義資邸へ祝賀に出向いたことと、父・観阿弥の「太子曲舞」を改作したことが、義教の怒りを買ったとする。天野文雄がこの説を支持した
- 今泉淑夫説:祝賀に出向いた確証はなく、身分の面でも無理があるとして、磯部説を否定した
- 西野春雄説:改作の依頼を受け、祝儀用の曲を献上したことが問題になったとし、死罪を避けて佐渡への配流になったと推測する
これらはいずれも研究者の推測であり、決着はついていません。ここでは、記録がないので分からない、と書くのが誠実です。
佐渡での晩年と、その後の説
流罪の間、娘婿の金春禅竹が世阿弥の妻の世話をし、佐渡へ物品を送ったとされます。世阿弥は佐渡で亡くなったとする説が有力です。一方で、赦されて京に戻ったとする説もあります。その根拠として、『金島書』が元雅の子孫に伝わったとされることなどが挙げられています。
赦免説では、幼いころに参学した補巌寺に帰依し、「至翁禅門」「寿椿禅尼」と呼ばれて田地を寄進したことを記す能帳が残るとされます。大徳寺に分骨されたとする説もありますが、確証はありません。「観世小次郎画像賛」は、嘉吉3年(1443年)の没としています。
世阿弥の能の評価と、現代に残るもの
伝書と作品の広がり
世阿弥の作品は50曲近くが伝わり、『高砂』『井筒』『実盛』などは現在も上演されます。伝書は21種が認められ、『花鏡』『九位』『金島書』『世子六十以後申楽談儀』などがあります。
近代の再評価
伝書は秘伝とされ、観世宗家や金春家などが所蔵しました。1883年に『十六部集』が発見され、世阿弥は能の大成者として高く評価されるようになりました。2000年に朝日新聞社が識者5人の選定で行った「日本の顔10人」では、世阿弥は3位に選ばれました。1位は徳川家康、2位は織田信長です。
佐渡に伝わった能
新潟県観光協会の紹介ページ(春日神社能舞台)には、世阿弥によって能が佐渡に伝えられ、慶長10年(1605)に、能楽師出身の佐渡奉行・大久保長安のもとで武士の教養の一つとして定着した、との記述があります。佐渡の能の伝統は、世阿弥の配流と結びつけて語られています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 新熊野神社(京都市):世阿弥が12歳ごろ、観阿弥とともに猿楽を演じ、義満の目にとまった場所
- 静岡浅間神社(静岡市):観阿弥が演能の後に亡くなった地
- 春日神社能舞台(新潟県佐渡市相川下戸村412):佐渡に伝わる能の舞台として、新潟県観光協会が紹介している
- 補巌寺(大和国):幼いころに竹窓智厳に師事した寺
関連する人物
- 観阿弥:父。結崎座の猿楽師で、世阿弥とともに猿楽を大成した
- 足利義満:新熊野の猿楽を見て観世一座を庇護した将軍
- 二条良基:関白。世阿弥に連歌を教え、「藤若」の名を与えたと伝わる
- 元雅:世阿弥の長男。1432年に伊勢の安濃津で亡くなった
- 音阿弥(観世元重):元雅の従兄弟。足利義教に重く用いられた
- 金春禅竹:世阿弥の娘婿。佐渡の世阿弥へ物品を送ったとされる
- 足利義教:永享元年(1429年)に将軍となり、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。嘉吉元年(1441年)に赤松満祐の邸で殺害された
よくある質問
世阿弥はどんな人物ですか
室町時代初期の猿楽師で、父の観阿弥とともに猿楽(能)を大成した人物です。足利義満の庇護を受け、『風姿花伝』などの伝書を残しました。
『風姿花伝』とはどんな書物ですか
15世紀初めごろに成立した、全七篇の能の伝書です。年齢に応じた稽古、物まね、「花」の考え方などを説き、秘伝書として伝えられました。
「花」とはどういう意味ですか
世阿弥の芸論では、少年期の美しい声や姿を「時分の花」、能の奥義を「まことの花」と呼び分けています。
世阿弥はなぜ佐渡に流されたのですか
理由は分かっていません。公的な記録に流罪の記録はなく、足利義教の不興を買った背景について、研究者によって説が分かれています。世阿弥自身は『金島書』で無実を主張しています。
世阿弥は佐渡で亡くなったのですか
佐渡で亡くなったとする説が有力です。ただし、赦されて京へ戻ったとする説もあり、最期は確定していません。




