足利義満 日本史トリビア

結論:足利義満の文化は「北山文化」。公家と武家と禅の文化が重なった、ただし全部が義満の功績ではない

足利義満の文化とは、室町時代前期にあたる14世紀末から15世紀前半の「北山文化」のことです。三代将軍・義満が京都の北山に営んだ山荘を中心に、公家の文化、武家の文化、禅宗の影響、明との交流が混じり合って生まれました。

代表は金閣(鹿苑寺舎利殿)、観阿弥・世阿弥の能、五山文学です。ただし「義満が全部を生み出した」と見るのは正確ではありません。連歌の形式を整えたのは二条良基で、有名な水墨画「瓢鮎図」も義満ではなく次の将軍・義持の時代に描かれたものです。この記事では、よく語られる話を史料で確かめながら整理します。

基本情報

  • 人物:足利義満(1358年〜1408年。延文3年〜応永15年)
  • 時代:室町時代(南北朝期から室町前期)
  • 立場:室町幕府第3代将軍(1369年就任)。1394年12月には太政大臣にも就いた
  • 文化の名前:北山文化(14世紀末〜15世紀前半の文化)
  • 中心地:北山第(北山殿)。のちの鹿苑寺(金閣寺)
  • 主な内容:金閣、能(猿楽)、五山文学、連歌、水墨画
  • 死去:1408年(応永15年)、北山第で死去

足利義満の文化とは何か?北山文化の成り立ちと金閣の実像

北山文化の定義:公家・武家・禅・明の交わり

北山文化は、三代将軍・義満の北山山荘を中心とした文化として説明されます。特徴は、伝統的な公家文化と新しい武家文化の融合です。そこに、禅宗(特に幕府が保護した臨済宗)と、明との勘合貿易で入った大陸文化の影響が加わりました。

義満は1401年(応永8年)に明へ使節を送り、明から日本国王に冊封されています。勘合貿易が始まったのは1404年(応永11年)です。こうした外交の動きが、文化の面でも大陸への視線を強めたと考えられています。

北山第の造営と、金閣の三つの顔

義満は1397年(応永4年)、公家の西園寺家から山荘を譲り受け、北山殿(北山第)として造り替えました。本格的に移り住んだのは1399年春以降とされます。金閣(舎利殿)の完成も1399年ごろとみられています。

金閣は三層で、層ごとに様式が違います。第1層は寝殿造風、第2層は住宅風(武家造とも呼ばれる)、第3層は禅宗仏堂風です。公家・武家・禅という北山文化の三要素が、一つの建物に積み上がっているわけです。金箔は第2層と第3層に押されています。

ここに義満の権威への意識を読む見方もあります。ただし、設計意図そのものを語る史料は確認できなかったので、これは解釈の一つとして受け取るのが安全です。

よく語られる「創建時の金閣」が揺れている理由

現在の金閣は創建当時のものではありません。金閣は、1950年(昭和25年)の放火で焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。再建は、1904年の修理の際に作られた詳しい図面にもとづいています。

再建では第2層にも金箔が押されましたが、創建時にどこまで金箔があったかは研究者の間で議論がある、とされています。「金閣は昔から今の姿だった」と言い切れないのが実情です。

もう一つ、寺名の由来です。義満の死後、北山山荘は禅寺・鹿苑寺となりました(寺名は義満の法号「鹿苑院殿」に由来します)。

金閣の規模でいえば、義満は1399年に相国寺の七重大塔も完成させています。高さ360尺(約109m)で、その後500年以上日本最高記録だったとされますが、4年後に落雷で焼失しました。

能・連歌・五山文学・水墨画:北山文化を担ったのは誰か

観阿弥・世阿弥を見出した義満

能の発展は、北山文化を語るうえで外せません。世阿弥は、1374年または1375年ごろ、12歳で父・観阿弥の猿楽興行(新熊野神社での興行)に出て、義満の目にとまったと伝わります。以後、義満は親子を庇護しました。

世阿弥は二条良基から連歌を学んでおり、その教養が能の作品や理論に生かされたといわれます。1384年に観阿弥が亡くなると、世阿弥が観世大夫を継ぎました。1400年ごろには芸論『風姿花伝』が成立したとされます。

注意したいのは、義満の庇護が永遠には続かなかった点です。次の義持の時代には田楽が好まれ、世阿弥は義満期ほどの恩恵を受けられませんでした。義教の時代には圧迫が強まり、世阿弥は1434年に佐渡へ流されています。流罪の理由は不明で、世阿弥自身は『金島書』で無実を主張しました。能が北山文化の花だったことは確かですが、庇護者が代わると運命も変わりました。

連歌を整えたのは二条良基

連歌は北山文化の文学として挙げられますが、整えた中心人物は二条良基です。良基は1356年に連歌集『菟玖波集』をまとめ、1372年には長連歌のルールを定めました。義満の時代はこの蓄積の上にあり、「義満が連歌を始めた」というわけではありません。

五山文学:義堂周信・絶海中津

五山文学は、禅宗の五山の僧たちによる漢詩文の文学です。北山文化の文学の代表で、義堂周信、絶海中津らが知られます。義満が相国寺を創建したことは、禅宗を保護する幕府の姿勢を示します。

水墨画と「瓢鮎図」:義満の命ではない

北山文化の絵画といえば、如拙の「瓢鮎図」が有名です。これを「義満の問いかけで描かれた」と書く解説もありますが、確かめられた事実とは違います。

瓢鮎図の序文にある「大相公」は、一般に将軍・足利義持を指すと考えられています。制作は1413年ごろで、遅くとも1415年までとされます(賛を寄せた太白真玄が1415年に没したため)。義満は1408年に亡くなっているので、時期も合いません。

この絵は、瓢箪でぬるぬるしたナマズを押さえるという禅の公案を描いたものです。賛(画に添えた文)は31人の禅僧が寄せており、現在は京都・妙心寺の塔頭、退蔵院が所蔵します(京都国立博物館に寄託)。1951年に国宝に指定されました。北山文化の延長として語られることはあっても、「義満の文化」とひとくくりにすると誤解を生みます。

北山文化は東山文化とどう違う?「義満の文化」をめぐる誤解

東山文化との違い

北山文化と並べて習うのが、八代将軍・義政の時代の東山文化です。北山文化が公家的で華やかな文化とされるのに対し、東山文化は幽玄やわび・さびの美意識と結びつけて語られます。

建築で比べると、銀閣(慈照寺)は第1層が書院造、第2層が禅宗仏堂風です。東山文化では、畳・障子・襖・床の間といった現代の和室につながる書院造が整いました。庭園では枯山水が発達し、雪舟が日本風の水墨画を完成させたといわれます。

「北山」と「東山」は本当に別物か

実は、この二分法は見直されています。「東山文化」という呼び名は、茶の世界の言葉から始まり、昭和初期に歴史学者が使うようになったものです。区切りがはっきりしないことや、間にある義持・義教の時代が見落とされることから、現在は両者をまとめて「室町文化」として論じる歴史家も多いとされます。

つまり「義満の文化」は、教科書の一項目としては便利でも、前後の時代と連続して見たほうが実態に近いといえます。

よくある誤解の整理

  • 誤解1:連歌は義満が始めた。→ 整えたのは二条良基で、義満以前に蓄積があった
  • 誤解2:瓢鮎図は義満が命じた。→ 序文の「大相公」は義持とみるのが一般的
  • 誤解3:今の金閣は義満の建物。→ 1950年に焼失し、1955年に再建された
  • 誤解4:能は義満の死後も手厚く守られた。→ 義持・義教の時代に世阿弥の立場は厳しくなった

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 鹿苑寺(金閣寺):義満の北山殿の跡で、1994年に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。池を中心とする庭園は、1956年に特別史跡・特別名勝に指定されている
  • 相国寺:義満が創建した禅寺。鹿苑寺は相国寺の塔頭にあたる
  • 退蔵院(妙心寺の塔頭):瓢鮎図を所蔵する寺
  • 慈照寺(銀閣寺):東山文化を代表する建物の一つ

関連する人物

  • 観阿弥・世阿弥:義満に庇護された猿楽の親子
  • 二条良基:『菟玖波集』を撰し、連歌の形式を定めた人物。世阿弥に連歌を教えた
  • 義堂周信・絶海中津:五山文学を代表する禅僧
  • 如拙:「瓢鮎図」を描いた画僧
  • 足利義持:義満の子。瓢鮎図を命じたとされる将軍
  • 足利義政:東山文化の中心となった八代将軍

よくある質問

Q. 北山文化はいつの文化ですか?

室町時代前期、14世紀末から15世紀前半の文化とされます。三代将軍・足利義満の北山山荘を中心に栄えました。

Q. 金閣はすべて金箔でできているのですか?

金箔が押されているのは第2層と第3層です。第1層は寝殿造風で、金箔は使われていません。現在の建物は1955年の再建です。

Q. 北山文化の特徴を一言でいうと?

公家文化と武家文化の融合です。そこに禅宗と、明との交流で入った大陸文化の影響が加わりました。

Q. 東山文化とはどう違いますか?

東山文化は八代将軍・義政の時代の文化で、書院造や枯山水、わび・さびの美意識と結びつけて語られます。ただし、現在は両者をまとめて「室町文化」として論じる歴史家も多くいます。