結論:確かな名言は少ないが、信玄の「行い」がリーダー論として読める
武田信玄の名言として広く知られる言葉のうち、山梨県の資料で信玄の領国経営の理念として紹介されているのは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」です。「疾きこと風の如く」で知られる風林火山は、中国の兵書『孫子』の一節を旗に記したものです。
一方、名言集に並ぶ言葉の多くは、江戸時代にまとめられた『甲陽軍鑑』などに由来すると説明されることが多く、信玄本人の言葉かどうかを、公的なページやWikipediaで確かめられないものも混じっています。この記事では、確かめられた言葉と、確かめられなかった言葉を分けて書きます。
言葉の真偽が揺れても、信玄が甲斐で行った治水、貨幣、法の整備といった実績は資料に残っています。名言を「本人の発言」としてではなく、「実績と重ねて読む教訓」として使うのが、いちばん安全で実りのある読み方です。
基本情報
- 生没年:大永元年(1521年)11月3日〜元亀4年(1573年)4月12日(旧暦)、享年53
- 時代:室町時代(戦国時代)
- 立場:甲斐の戦国大名。清和源氏の流れをくむ甲斐源氏、武田氏の当主。父は武田信虎
- 主な業績:甲斐の統治体制の整備、分国法「甲州法度之次第」(1547年)の制定、信玄堤などの治水事業、川中島での上杉謙信との戦い、三方ヶ原での徳川家康との戦い
- 生誕地:甲府の要害城の麓にある積翠寺とする説明がある(山梨県の資料)
- 死去:西上の途中、三河街道上で病没。臨終地は信濃国駒場(長野県阿智村)とされるが、浪合・根羽とする説もある
武田信玄の名言と、確かめられた言葉の中身
「人は城、人は石垣、人は堀」――領国経営の理念
山梨県の観光向け冊子は、信玄が「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」を領国経営の理念とし、民のことを考えて国造りをしたと紹介しています。「あだ」は仇、つまり恨みを抱く相手のことで、情けをかければ味方になり、仇をなせば敵になる、という対の形になっています。
よく「信玄は城を築かなかった」と説明されますが、これは言い過ぎです。信玄の本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、父・信虎が永正16年(1519年)に移した居館で、外濠・内濠・空濠の三重構造を持ち、背後に詰城として要害山城が置かれていました。西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を備えた構造だったと、Wikipediaは説明しています。この言葉は「城を軽んじた」という意味ではなく、城や堀と並べて人を挙げた、という読み方になります。
この言葉を現代の組織に重ねるなら、設備や仕組みだけでなく、そこで働く人の信頼関係が守りの土台になる、という教訓になります。続く「情けは味方」は、日ごろの扱いが、いざという時の味方を作るという意味に読めます。
「疾きこと風の如く」――風林火山と孫子の旗
風林火山は、『孫子』軍争篇の一節をもとにしています。旗に書かれた文字は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」です。山梨県の資料も、武田軍の象徴である「孫子の旗」(別名「風林火山」)が、『孫子』軍争篇の言葉を引用したものだと述べています。
ここには、意外な点がいくつかあります。
- 旗は、武田晴信(信玄)が快川紹喜に書かせたものとされる
- 『甲陽軍鑑』は永禄4年(1561年)から使ったと記すが、いつ作られたのかは確かな記録がなく、よくわかっていない
- 古くは「孫子の旗」「孫子四如の旗」と呼ばれ、「風林火山」という呼び名は後のもの。旗指物の研究者・高橋賢一は、この語が文献にはなく現代の創作だと考えている
- 旗を調べた鈴木眞哉は、井上靖の小説『風林火山』が呼称の最初ではないかと考えている
- 旗は雲峰寺や武田神社などで数旗の現存が確認されている
風林火山という四文字は後世の呼び名でも、旗に『孫子』の文が記されていたこと自体は、現存する旗から確かめられます。風・林・火・山にたとえて動き方を使い分ける内容は、状況に応じて動き方を変える判断力の教訓として読めます。
「為せば成る」――信玄の句とされる歌
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」という歌は、信玄の言葉として紹介されることがあります。ただし、Wikipediaの「上杉鷹山」の記事でも信玄の作とは断定されておらず、「信玄が残したとされる」という扱いです。
よく似た「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は、米沢藩主・上杉鷹山の歌として、国宝『上杉家文書』に含まれる書状に見えると、Wikipediaは説明しています。語の由来は中国の『書経』とされます。信玄の句は、やればできることを諦めてしまう人を戒める内容で、鷹山の歌とは少しニュアンスが違うとも書かれています。
信玄の言葉と決めつけず、「似た歌が複数あり、誰の作かは断定できない」と知った上で使うほうが、正確です。
名言だけでなく、信玄の実績を重ねて読むリーダー論
水害を抑える長期の事業――信玄堤
山梨県の資料によると、釜無川と御勅使川が合流する付近は、しばしば大洪水に見舞われました。信玄は釜無川沿いに堤を築き、御勅使川の流れを変えて「高岩」と呼ばれる自然の崖にぶつけ、勢いを弱める治水事業を、約20年かけて行ったとされます。県の資料では年譜に、1542年に釜無川が大氾濫して信玄堤の建設を始め、1560年に完成とあります。
この資料で歴史学者の平山優氏は、信玄が10〜20年先ではなく、50〜100年という期間で物事を見ていたのだろうと語っています。信玄堤は現在も使われているとされます。目の前の勝ち負けより、領民の暮らしを守る基盤づくりに時間をかけた点は、「民力を高める=国力を高める」というモットーと重なります。
貨幣と秤を整える――甲州金と守隨秤
同じ資料は、信玄が領国の経済発展のために金山開発に力を入れ、「甲州金」という貨幣を作ったと説明しています。金は重さで流通する貨幣なので、秤が正確でないと安定した流通は望めません。そこで職人を甲斐に呼んで精密な秤を作らせたのが「守隨秤」で、武田家滅亡後は徳川家康が江戸で認めて江戸秤座となり、江戸時代には東日本33カ国の共通の秤として幕府が認定した、とされています。
「太鼓判を押す」「お金に糸目は付けない」の語源を甲州金に求める説もありますが、資料も「説がある」「といわれる」と書いており、確定した話ではありません。
ルールを文字にする――甲州法度之次第
1547年(天文16年)に制定された分国法が「甲州法度之次第」です。Wikipediaは、寄親寄子制を基幹とする裁判の仕組みを定めていたと説明しています。たとえば寄子は、まず寄親に訴え出るという形です。家臣団を御一門衆、譜代家老衆、外様家臣団などに分け、軍事面では寄親寄子制を取っていた点とあわせて、人の配置と手順を整えた統治だったことがわかります。
「人は城」を、気持ちの問題だけでなく、役割と手続きを決めて人を生かす仕組みの話として読むと、現代の組織運営にも置き換えやすくなります。
学びを土台にした将――孫子と詩歌
山梨県の資料は、信玄が青年時代から詩歌や文学に親しみ、孫子の兵法にも精通していたと述べています。平山優氏は、守護家の出身で教養ある環境に育った信玄が、中国の書物を読破し、よく理解していたと語っています。風林火山の旗に『孫子』の文を使ったことも、この背景から説明がつきます。
『甲陽軍鑑』と名言の出どころ――どこまで信用できるか
名言集の多くは『甲陽軍鑑』に行き着く
『甲陽軍鑑』は、天正3年(1575年)から天正5年にかけて書かれ、天正14年(1586年)の日付で終わるとされる書物です。高坂弾正昌信(春日虎綱)の口述をもとに、春日惣次郎や大蔵彦十郎らが書き継いだ体裁を取っています。原本は残っておらず、最古の写本は元和7年(1621年)頃の小幡景憲のもの、刊行は明暦2年(1656年)です。
Wikipediaの「武田信玄」では、信玄の逸話について、出典が示されていないか不十分であるとの注意書きがあり、『甲陽軍鑑』由来の話の信頼性に疑問が示されています。また、Wikipediaは信玄の幼名を「太郎」としています。
評価は割れてきたが、見直しも進んでいる
『甲陽軍鑑』は江戸時代から、『武功雑記』『常山紀談』などに誤りや虚構を指摘されてきました。明治時代の田中義成は、年紀や事実の誤りから、高坂弾正の著作ではなく小幡景憲による記録物語だと論じました。
一方、酒井憲二の研究(1990年代)以降は再評価が進み、平山優、小和田哲男らも史料的価値を見直しています。誤りは口述筆記という性質によるもので、収録された文書の多くは他の史料で裏づけられる、とWikipediaは紹介しています。つまり「全部が嘘」でも「全部が真実」でもなく、一つずつ確かめる必要がある史料です。
この記事で取り上げなかった言葉
名言集には、「戦いは五分の勝利をもって上となす」「渋柿は渋柿として使え」「勝算なきは戦わず」といった言葉もよく並びます。しかし今回、Wikipediaや公的機関のページでは、これらの言葉が信玄のものだと確かめられませんでした。確かめられないことは書かない方針なので、この記事では内容の紹介と、教訓としての解釈を行いません。気になる方は、『甲陽軍鑑』の校注本などの原典にあたって確かめてください。
もう一つ注意したいのは、「風林火山」を信玄の名言として語る場合です。言葉の出典は『孫子』で、信玄の独創ではありません。「孫子の言葉を旗に掲げた」ことが事実で、その選び方に信玄の考え方が出ている、と整理できます。
ゆかりの地と関連する人物
- 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡、武田神社):山梨県甲府市古府中町。1940年に国の史跡、2006年に日本100名城(24番)に選ばれた。跡地には大正8年(1919年)創建の武田神社がある
- 積翠寺(要害山城のふもと):山梨県の資料が信玄の誕生地とする場所
- 恵林寺(山梨県甲州市塩山):信玄が生前に菩提寺と定めた寺で、墓所がある。信玄は遺言どおり、死を3年間秘した後に快川国師が本葬儀を行ったと伝わる
- 信玄堤(山梨県甲斐市竜王):釜無川沿いの治水施設
- 雲峰寺(山梨県甲州市):「孫子の旗」が現存する寺として知られる
- 甲斐善光寺(山梨県甲府市):川中島の戦いの際、信玄が信州善光寺の如来や寺の機能を甲斐に移して永禄元年(1558年)に創建。信玄の死の前年に完成した
- 関連する人物:上杉謙信(川中島で戦った相手)、徳川家康(三方ヶ原で戦った相手。武田家滅亡後は信玄の秤を江戸で認めた)、快川紹喜(孫子の旗を書いた人物とされる。本葬儀を行ったと伝わる)、上杉鷹山(類似の「なせば成る」の歌が伝わる)
よくある質問
「人は城、人は石垣、人は堀」は、本当に信玄の言葉ですか?
山梨県の資料は、信玄の領国経営の理念として紹介しています。ただし、原典のどの箇所かまでは、今回確かめられませんでした。「信玄が城を築かなかった」という話は不正確で、躑躅ヶ崎館には堀や虎口などの防御施設がありました。
風林火山は信玄が考えた言葉ですか?
いいえ。『孫子』軍争篇の一節です。信玄は、その文を旗に記しました。旗は古くは「孫子の旗」などと呼ばれ、「風林火山」という呼称は後のものだとされます。
「為せば成る」は信玄の作ですか?
信玄が残したとされる歌が伝わっていますが、作者は断定されていません。似た歌は上杉鷹山のものとして『上杉家文書』にも見え、別人の類似の歌もあるとされます。
信玄の死因は何ですか?
野田城の陥落後に喀血などで持病が悪化し、甲斐へ戻る途中、三河街道上で亡くなったと、Wikipediaは説明しています。病名についてWikipediaは記していません。
名言の元になる史料は何ですか?
多くは江戸時代に広まった『甲陽軍鑑』です。誤りも指摘される一方、再評価も進んでいる史料で、一つずつ他の史料で裏づけを確かめるのが基本です。





