武田信玄

結論:風林火山は『孫子』軍争篇の一節で、信玄の時代は「孫子の旗」と呼ばれた

風林火山とは、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という『孫子』軍争篇の句を、武田信玄が旗指物に記したものの通称です。動くときは風のように速く、待つときは林のように静かに、攻めるときは火のように、守るときは山のように構える、という状況に応じた動き方を説いています。

ただし「風林火山」という呼び名は、当時の記録には見えません。古くは「孫子の旗」「孫子四如の旗」と呼ばれ、この名が広まったのは近現代のことだと考えられています。

『孫子』の原文には、この4句に「難知如陰、動如雷霆」などの句が続いています。旗に書かれなかったこの続きが、「幻の続き」として語られます。

基本情報

  • 人物:武田信玄(晴信)。大永元年11月3日(1521年12月1日)生まれ、元亀4年4月12日(1573年5月13日)没、享年53
  • 時代:戦国時代(甲斐の戦国大名)
  • 官位:従五位下、左京大夫、従四位下、大膳大夫、信濃守など
  • 出典:『孫子』軍争篇(原文は「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」)
  • 旗の所蔵:山梨県甲州市の雲峰寺に孫子の旗が伝わり、県指定の文化財になっている

風林火山の本当の意味と由来『孫子』軍争篇

疾きこと風の如くなど4つの教え

4句の読み下しは「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」です。急ぐべきときは風のように速く、待機するときは林のように静かに、攻めるときは火のように激しく、守るときは山のように動かない。時機と情勢に合わせて動き方を切り替えよ、という戒めとして読まれています。

現代では、物事への対処で時機を見極める意味の熟語として、ビジネスの場面でも使われます。

『孫子』と軍争篇

『孫子』は中国の兵法書で、全13篇です。篇の名は、計、作戦、謀攻、形、勢、虚実、軍争、九変、行軍、地形、九地、火攻、用間です。著者は紀元前500年ごろの孫武とされますが、戦国時代の孫臏の作とする説もありました。1972年に山東省の銀雀山の前漢の墳墓から『竹簡孫子』と『孫臏兵法』が見つかって以降は、孫武が著者であることがほぼ確定的と説明されています。

風林火山の4句は、このうち第7篇の軍争篇に出てきます。信玄はこの兵法書の「兵は詭道なり」という序文の考えに通じる、外交や調略を重んじる方針をとっていたと説明されることもあります。

当時は「風林火山」と呼ばれていなかった

旗の記録は、古くは「孫子の旗」「孫子四如の旗」と書かれ、江戸時代の記録も信玄の軍旗とだけ記しています。旗指物を研究した研究者は、「風林火山」という語は文献になく現代の創作だと考えています。戦国史の研究者には、井上靖の歴史小説『風林火山』が最初ではないかとする見方があります。

黒澤明の映画『影武者』で広く知られるようになった、という指摘もあります。つまり、信玄が「風林火山」と唱えて戦ったわけではなく、後世に定着した呼び名です。

幻の続き「難知如陰、動如雷霆」と軍旗の謎

旗に書かれなかった続き

風林火山の4句には、『孫子』の原文では「難知如陰、動如雷霆」などの句が続きます。読み下しは「知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」です。「陰」は暗闇のように手の内を知られないこと、「雷霆」は激しい雷のように動くことを指します。これらは、一般にそう解釈されています。

旗に4句だけが記された理由について、確かな史料は見当たりません。旗の大きさの都合、手の内を表に出さない考え方、美意識など、理由を推測する話は多くありますが、いずれも推測です。ここで断定できるのは、現存する旗の文句が4句であること、原文にはその続きがあることの2点です。

旗はいつ、誰が作ったのか

『甲陽軍鑑』には、この旗を永禄4年(1561年)から使い始めたと書かれているとされます。一方、作成時期については確かな記録がなく、はっきりしていません。

文字を書いたのは、僧の快川紹喜と伝えられます。快川は、1564年に信玄に招かれて恵林寺に入ったと説明されています。旗の使用開始とされる年と入寺の年にずれがあるため、作成の経緯は、今も慎重に扱う必要があります。

北畠顕家の旗という説

信玄より前に、南北朝時代の公家武将、北畠顕家が同じ文句の旗を使っていたという話があります。顕家は1338年、石津の戦いで戦死しました。

この説は、阿部野神社に伝わる顕家の旗に同じ文言がある、というものです。ただし、北畠親房が用いたとする別の記述もあり、確定していません。顕家の項の風林火山に関する記述にも、出典が示されていません。信玄がそれに倣ったのかどうかは、史料の上では分かっていません。

北畠氏が『六韜』を奉じていたのに対抗して『孫子』を掲げた、という説もありますが、解説でも推測の域を出ないとされています。

ゆかりの地と関連する人物

雲峰寺(山梨県甲州市)

孫子の旗で最も知られる所蔵先が、甲州市塩山にある臨済宗の雲峰寺(裂石山)です。198段の石段を登った先にあり、武田家代々の祈願寺とされます。日の丸の御旗、孫子の旗、諏訪神号旗、馬標旗が県指定の文化財です。寺には、天正10年(1582年)に武田家が滅んだとき、旗が運び込まれたという言い伝えがあります。宝物館の拝観は9時〜12時、13時〜17時で、月曜が休館です。拝観料は一般300円です。

諏訪神号旗と日の丸の御旗

信玄は諏訪明神を信仰し、「南無諏方南宮法性上下大明神」と記した旗を本陣旗にしました。映像作品では、風林火山の旗と並んで登場することが多い旗です。日の丸の御旗も、雲峰寺に孫子の旗と一緒に伝わっています。

恵林寺と快川紹喜

恵林寺は甲州市にある寺で、信玄の菩提寺です。快川紹喜は、信玄の死後の1576年に、ここで営まれた葬儀の大導師を務めています。天正10年に織田氏の攻撃で寺が焼き討ちにあい、快川は焼死したとされます。辞世とされる「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」は、同時代の文献になく、快川の逸話ではなかった可能性が指摘されています。

川中島の戦い

信玄は長尾景虎(上杉謙信)と、善光寺平の主導権をめぐって川中島で戦いました。第4次(1561年)が最大規模で、武田信繁や山本勘助らを失い、信玄も負傷したとされます。孫子の旗の使用開始とされる年と同じです。

よくある質問

風林火山の4つの文字は、それぞれ何を表しますか?

風は速く動くこと、林は静かに待つこと、火は激しく攻めること、山は動かず守ることを表します。『孫子』軍争篇の一節に由来します。

信玄は「風林火山」と呼んでいましたか?

当時の記録では「孫子の旗」「孫子四如の旗」と書かれ、「風林火山」という語は文献にないとする研究があります。広まったのは近現代の小説や映画の影響とされます。

風林火山の続きは何ですか?

『孫子』の原文では「難知如陰、動如雷霆」などの句が続きます。陰のように知られにくく、雷霆のように動く、という意味に解されています。

風林火山の旗は今も見られますか?

甲州市の雲峰寺に孫子の旗が伝わり、県指定の文化財です。宝物館は月曜が休館で、拝観料は一般300円です。武田神社などにも数旗が現存すると説明されています。

風林火山を最初に使ったのは信玄ですか?

北畠顕家の旗に同じ文言があったという説がありますが、確定していません。信玄が倣ったのかどうかも、史料からは分かっていません。