結論:徳川光圀は、諸国を旅した正義の老人ではなく、歴史書の編纂に打ち込んだ水戸藩2代藩主
徳川光圀は、徳川家康の孫にあたる水戸藩の第2代藩主です。「水戸黄門」の「水戸」は藩名、「黄門」は中納言を中国風に呼んだ言い方で、光圀は権中納言の官位にありました。テレビや講談で知られる諸国漫遊の話は創作で、実際の光圀が訪れた先は日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東が中心だったとされています。
素顔は、若いころに乱行を重ね、18歳で『史記』の「伯夷伝」を読んで学問に向かい、のちに『大日本史』の編纂を始めた人物です。この記事では、Wikipedia と文化庁の文化遺産オンラインで確かめられた事実だけを、順にたどります。
基本情報
- 生没年:寛永5年6月10日(1628年7月11日)生まれ、元禄13年12月6日(1701年1月14日)没。満72歳
- 時代:江戸時代前期
- 立場:常陸国水戸藩の第2代藩主(1661年に就任、1690年に隠居)。権中納言
- 家族:父は初代藩主の徳川頼房、祖父は徳川家康。頼房の三男
- 主な業績:『大日本史』編纂事業の開始、彰考館の運営、笠原水道の整備、寺社の整理
- 墓所:常陸太田市の瑞龍山(水戸徳川家墓所)
徳川光圀とは?「水戸黄門」の由来と生涯
「黄門」とは何か:7人いた水戸の中納言
「黄門」は、中納言や権中納言を指す中国風の呼び名です。水戸藩では、光圀を含めて7人の藩主がその位に就きました。それでも「水戸黄門」といえば光圀を指すのは、光圀の人物像が物語として広まり、その名が代表になったためと整理できます。
三男で生まれ、藩主になるまで
光圀は水戸藩初代藩主・頼房の三男です。生母は頼房の側室の久子で、光圀には兄の松平頼重がいました。藩主になったのは1661年(寛文元年)、父の頼房が亡くなったあとです。父の死に際しては、家臣の殉死を止めたと伝わります。
生涯の流れ
- 1657年:江戸の駒込の屋敷で、『大日本史』の編纂に着手する
- 1661年:藩主になる
- 1672年:編纂の拠点が「彰考館」と名付けられる
- 1690年:養子の綱條に藩主の座を譲り、隠居する
- 1691年:久慈郡の西山荘に移る
- 1701年1月14日:西山荘で亡くなる
若き日のかぶき者から学者へ:転機は『史記』「伯夷伝」
数え13歳ごろから続いた乱行
光圀は数え13歳の1640年ごろから、素行の悪い振る舞いが目立つ少年期を送ったと伝わります。のちの学者らしい姿とは正反対で、このころの光圀は、藩を継ぐ立場でありながら周囲を困らせる若者でした。
18歳で読んだ「伯夷伝」
転機は18歳のときです。司馬遷の『史記』にある「伯夷伝」を読み、深く心を動かされて、学問に打ち込むようになったと伝わります。光圀は三男でしたが、世子に決まっています。
兄の家系と養子の取り方
光圀は、兄・頼重の子を自分の養子に迎え、自分の実子は頼重の家に出しました。具体的には次のとおりです。
- 1663年12月:頼重の長男・綱方を養子にする(襲封の前に早世)
- 1664年2月:光圀の実子・頼常が頼重の養子になる
- 1671年:頼重の次男・綱條が光圀の養子になる(のちに第3代藩主)
跡を継いだ綱條は、兄の血筋の人物でした。
光圀の功績と素顔:大日本史、藩政、そして食の逸話
『大日本史』と彰考館
1657年に始まった『大日本史』の編纂は、光圀が生涯をかけた事業です。1672年に拠点が彰考館と名付けられ、1683年には104巻の草稿が完成しました。1697年には後小松天皇までの「百王本紀」が完成し、光圀の死の前後に本紀は一応完成したとされます。ただし事業は光圀の没後も続き、全体の完成は1906年です。約250年にわたる事業でした。
編纂のために、家臣の学者たちは各地へ史料の調査に出ました。たとえば佐々宗淳は、那須国造碑や侍塚の調査に派遣され、湊川では楠木正成の墓の建立にも関わりました。安積澹泊は光圀の伝記『義公行実』の編者の一人です。諸国を巡る家臣の姿が、のちの漫遊記の背景の一つになったと考えられています。
藩政の改革:水道・寺社・殉死
- 笠原水道:1662年に命じ、約1年半で完成した、約10kmの上水道
- 寺社の整理:1665〜66年に実施。記録された2,377の寺のうち1,098が廃止または移転となり、そのうち713が取り壊された
- 殉死の抑止:父・頼房の死の際に家臣の殉死を止めた。幕府の殉死禁止はその2年後とされる
このほか光圀は、1688年から船の快風丸を蝦夷地へ3度送りました。1688年の3度目の航海で石狩に達し、塩鮭一万本などを持ち帰ったと伝わります。
朱舜水との出会いと、ラーメンの逸話
光圀は1665年に、明の遺臣である朱舜水を招きました。朱舜水は実理を重んじる実学の学者で、1682年に亡くなり、瑞龍山に葬られました。
この朱舜水から教わった中華麺を使った「後楽うどん」が、今のラーメンにあたるとされ、光圀は「日本で初めてラーメンを食べた人」と紹介されることがあります。ただ、Wikipedia によると、2017年に『蔭涼軒日録』に、光圀より200年以上前の麺料理の記述が見つかっています。この逸話の元になった著作は出典のページ番号が示されておらず、「初めて」とは言い切れません。餃子やチーズを日本で最初に食べたという話も、Wikipedia には出典が付いていません。この類いの話は、確かな史実としてではなく、伝承として受け取るのが安全です。
生類憐みの令との関係
光圀は、将軍・綱吉の生類憐みの令に従わず、牛や豚、羊の肉を食べたと伝わります。野犬を捕らえて毛皮を将軍に献上したという話は、Wikipedia でも俗説とされています。
一方、『桃源遺事』には、飼っていた鶴を殺された光圀が、犯人を斬らずに追放し、更生のための銭と米を与えたという話が載ります。作家の仁科邦男は、これを生類を憐れむ名君の姿として紹介しています。
諸国漫遊は創作:実際の光圀はどこへ行ったのか
漫遊記はいつ作られたか
白いひげと頭巾の隠居が諸国を巡り、民を助ける物語は、江戸後期から近代にかけて作られた創作とされます。講談や歌舞伎を経て、昭和には映画やテレビの題材になりました。
記録に残る行き先
光圀が実際に訪れたことが確かな場所は、日光、鎌倉、金沢八景、房総などです。関東を出た記録は、勿来と熱海を除いて見つからないとされています。隠居後は領内を巡視しましたが、それは物語の旅とは別のものです。
最期:病名は推定
光圀は72歳ごろから食欲が落ち、元禄13年12月6日に西山荘で亡くなりました。死因は、この食欲不振の経過から、胃がんか食道がんだったと推定されていますが、確定はしていません。
ゆかりの地と関連する人物
瑞龍山(水戸徳川家墓所)
常陸太田市にある水戸徳川家の墓所で、光圀の墓もここにあります。文化遺産オンラインによると、2007年7月26日に国の史跡に指定され、管理団体は徳川ミュージアムです。造営は1661年の頼房の埋葬から始まり、1677年には光圀の生母・久子らが水戸から改葬されました。墓の形式は光圀が儒教の考えに基づいて定めたもので、葬儀は無宗教で行われ、墓所に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りも禁じられていました。Wikipedia は「日本最大の儒式墓所」と記しています。
その他のゆかりの地
- 西山荘:隠居所。光圀が亡くなった場所
- 常磐神社(水戸市):光圀を祀る神社
- 久昌寺:母の菩提寺で、光圀を祀る義公廟がある
- 笠石神社:那須国造碑で知られる神社。家臣の佐々宗淳が調査に派遣された
- 湊川神社:光圀が楠木正成の墓を建立した地
関連する人物
- 徳川頼房:父。水戸藩の初代藩主
- 松平頼重:兄。その子の綱條が光圀の養子となり、水戸藩を継いだ
- 朱舜水:明の遺臣で、光圀が招いた学者
- 佐々宗淳・安積澹泊:彰考館で働いた学者
よくある質問
水戸黄門の「黄門」とはどういう意味ですか?
中納言(権中納言を含む)を中国風に呼んだ言い方です。「水戸」の「黄門」で、水戸藩の藩主で中納言の位にある人を指します。水戸藩では7人の藩主がこの位に就きました。
光圀は本当に諸国を旅したのですか?
いいえ。確かな記録に残る行き先は日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東が中心で、関東の外は勿来と熱海を除いて見つからないとされます。史料を集めるために旅をしたのは家臣の学者たちです。
光圀は日本で初めてラーメンを食べたのですか?
「後楽うどん」という中華麺を朱舜水から教わったとされますが、2017年に、光圀より200年以上前の麺料理の記述が『蔭涼軒日録』で見つかっています。「初めて」とは言えません。
『大日本史』はいつ完成したのですか?
編纂は1657年に始まり、光圀の没後も続いて、1906年に完成しました。光圀自身は完成を見ていません。
水戸徳川家は今も続いていますか?
光圀の跡を継いだのは、養子になった綱條(兄・頼重の子)でした。水戸藩は光圀の実子ではなく、兄の血筋の当主に受け継がれました。





