結論:芭蕉忍者説を裏づける史料はなく、研究者の検証では否定されている
松尾芭蕉が忍者(幕府の隠密)だったことを示す史料は見つかっていません。Wikipedia によると、この説の初出は1966年(昭和41年)の松本清張・樋口清之の共著『東京の旅』で、江戸時代の記録ではなく、昭和の後半に生まれた説です。
三重大学の吉丸雄哉准教授は、芭蕉の父の代には農民だったこと、『曾良旅日記』から計算した歩行距離は当時の平均的な男性より3割ほど多い程度で、特別な健脚ではないことを挙げて、説を否定しています。
ただし、伊賀国の出身であること、『おくのほそ道』の長い旅をしたこと、同行者がいたことは事実です。この記事では、説の根拠とされる点を一つずつ取り上げ、史料の上でどこまで言えるかを確かめます。
基本情報
- 生没年:寛永21年(1644年)〜元禄7年10月12日(1694年11月28日)。享年50
- 時代:江戸時代前期
- 立場:俳諧師。若いころは伊賀上野の藤堂良忠(俳号は蝉吟)に仕えたとされる
- 出身地:伊賀国阿拝郡。上野城下の赤坂町(現・伊賀市上野赤坂町)とする説と、上柘植村(現・伊賀市柘植町)とする説がある
- 代表作:『おくのほそ道』(旅は元禄2年、1689年に江戸を出発。刊行は没後の1702年)
- 忍者説の初出:1966年、松本清張・樋口清之『東京の旅』
松尾芭蕉は忍者だったのか?伊賀出身と無足人をめぐる説の検証
忍者説はいつ、どう広まったのか
忍者説は、芭蕉が『おくのほそ道』で約450里(1,768km)を歩いたことに注目するものでした。45歳での踏破は同年代としては並外れた健脚だとされ、さらに出自から、藤堂家に仕えた無足人(準士分)の伊賀者だった、母が伊賀忍者の百地氏と関係がある、といった説が重ねられました。
その後、作家の尾崎秀樹が母の血筋にも触れながらこの説を繰り返し唱えています。1970年には斎藤栄の推理小説『奧の細道殺人事件』、1988〜1989年にはテレビ東京の時代劇『隠密・奥の細道』が世に出ました。フィクションが後押しして、昭和の戦後に起きた忍者ブームと結びつき、広く知られるようになったと Wikipedia は整理しています。
「伊賀の生まれだから忍者」は成り立つか
芭蕉が伊賀国の生まれであることは確かです。生誕地は、上野城下の赤坂町とする説と上柘植村とする説に分かれていて、松尾家の転居と芭蕉の誕生の前後関係が分からないため、今も二つの説が残っています。
ただ、伊賀の生まれであることと忍者であることは別の話です。吉丸准教授は、芭蕉の父の代にはすでに農民になっていたとして、伊賀者(藤堂家に仕えた忍びの役)だったという説を退けています。母が百地氏と関係するという説も否定しています。出身地は忍者説の出発点ですが、それだけでは根拠になりません。
藤堂家での奉公と若いころの足取り
芭蕉は寛文2年(1662年)ごろ、伊賀上野の侍大将・藤堂良勝の嗣子である藤堂良忠に仕えたとされます。Wikipedia は、厨房役や料理人を務めたとされる一方、異説も多いと書いています。良忠は寛文6年(1666年)に亡くなり、芭蕉は仕官を退きました。
江戸へ下ったのは延宝3年(1675年)初頭とされ、これには諸説があります。延宝8年(1680年)には深川に移り、天和2年(1682年)の大火で庵を失いました。江戸に出る前後の事情には不明な点がありますが、記録が少ないことと、隠密として働いていたことの間には距離があります。不明な部分を「秘密の任務」で埋めても、それは史料ではなく想像です。
『おくのほそ道』の旅は隠密調査だったのか?曾良の同行と日記の食い違い
旅の概要:約150日、約2,400km
芭蕉は元禄2年3月27日(1689年5月16日)、弟子の河合曾良を連れて江戸を発ちました。下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前などをめぐり、美濃国大垣に着いています。Wikipedia の『おくのほそ道』の項では、行程は約2,400km、期間は約150日とされ、平安時代の歌人・西行の没後500年にあたる年に、歌枕や名所旧跡を訪ねることが主な目的だったと説明されています。
距離の数え方は資料によって違い、前述の忍者説の紹介では約450里(1,768km)とされています。いずれにせよ、大変な長旅だったことに変わりはありません。
隠密説の言い分:東北諸藩を調べる「裏の目的」
隠密説は、幕府の命を受けた芭蕉が東北諸藩の様子を調べていた、という「裏の目的」を読み取るものです。
これに対して、この説を検証した吉丸准教授は、結論が先にあり、反証もできない説だと評しています。「幕府が命じた」ことを示す記録が出てこない以上、どんな事実も「隠していたからだ」と説明できてしまうためです。そうした説は、証明も否定もできないという意味で、史料に基づく議論にはなりません。
同行者・河合曾良は何者か
曾良は信濃国高島城下の下桑原村(現・長野県諏訪市)の出身で、のちに江戸に出て吉川神道を学び、貞享年間(1684〜1688年)に芭蕉の弟子になりました。芭蕉の『鹿島紀行』(1687年)と『おくのほそ道』の旅に同行しています。Wikipedia は、穏やかで誠実、芭蕉に尽くした人物で、神道に通じていたと描き、俳人としては約130句が伝わるのみで抽象的な句が多いとしています。
曾良は宝永6年(1709年)、将軍徳川家宣の代に幕府の巡見使の一行に加わって九州をまわり、翌年、壱岐島で病没しました(享年62)。この巡見使の仕事は芭蕉の死から15年後のことで、旅の直後に始まったわけではありません。「幕府の仕事をした人物が同行した」ことを、旅が幕府の調査だった証拠と見る向きもありますが、時期が離れているので、そのままでは結びつきません。
吉丸准教授は、曾良が忍者だったとする説については、証拠はないものの蓋然性はあるという立場です。一方で、芭蕉本人が忍者だったとする説は否定しています。
『曾良旅日記』と本文のずれ
曾良は旅の記録として『曾良旅日記』を残しました。この日記は、旅の行程を知るうえで重要な資料です。『おくのほそ道』の本文と日記を比べると、出発日などに違いがあり、議論されています。Wikipedia の『おくのほそ道』の項は、出発日が日記では「巳三月廿日」で7日以上ずれていること、松島で芭蕉自身が句を詠んだかどうかなどに触れています。
これらは隠密の証拠ではなく、作品として仕上げるときに内容が整えられた点を調べる、文学研究の問題として扱われています。松島の句の有無も同じで、芭蕉が松島で何を詠んだかをめぐる議論は、旅の目的とは別の話です。
忍者説はなぜ生き残るのか:健脚・資金・体調の謎を整理する
「健脚」の中身:平均の約3割増し
忍者説でよく語られる健脚について、吉丸准教授は『曾良旅日記』から芭蕉の1日の歩行距離を分析しています。結果は、長くても当時の平均的な男性より3割増し程度で、一般の人と変わらないというものです。大変な健脚だから忍者だという見方は成り立たない、と結論づけています。
比べているのは同時代の平均的な男性です。芭蕉が3割ほど多く歩いた日がある、という程度の話で、人並み外れた記録ではありません。
忍術の逸話が見当たらない
吉丸准教授によると、芭蕉の死後半世紀ほどで神格化が進み、多くの逸話が作られました。それでも、速歩や隠形(姿を隠す術)といった忍術にまつわる逸話は見当たらないといいます。もし生前の芭蕉に忍者らしい行いがあったなら、神格化の過程で語られていてもよいはずですが、そうした話は伝わっていません。
最期まで旅の人だった
芭蕉は元禄7年(1694年)、大坂で門人どうしの不和(之道と珍碩)の仲裁に努めたことが心労となって体調を崩したともいわれます。発熱と頭痛を訴え、29日夜には下痢がひどくなって伏し、病床で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を詠みました。10月12日(新暦11月28日)の午後4時ごろ、50歳で亡くなっています。Wikipedia に確定的な死因の記載はありません。
旅の途中で病んで亡くなった俳諧師という姿は、史料から確かめられる芭蕉の像です。忍者説は、この像に合う資料を新たに示したわけではなく、後から別の物語を重ねたものです。
私の見方
私は、この説が長く語られる理由は、証拠が出るからではなく、「確かめられない部分」が魅力的だからだと考えます。伊賀の出身、長い旅、同行者、日記との違いという個々の事実は本物ですが、それらを一本の線でつなぐ資料がありません。史料の外でつなげた物語として楽しむのは自由ですが、史実と同じ扱いにはできません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 伊賀市(三重県):生誕地とされる地域
- 義仲寺(滋賀県大津市):芭蕉は木曾義仲の墓の隣に葬られている。墓石の「芭蕉翁」の字は門人・丈艸の筆とされる
- 大阪市:終焉の地は御堂筋の拡幅で取り壊され、近くに石碑が立つ。南御堂(真宗大谷派難波別院)の境内に辞世の句碑がある
- 江東区(東京都):深川の芭蕉庵跡に江東区芭蕉記念館などがある
- 文京区(東京都):関口芭蕉庵がある
- 大垣市(岐阜県):『おくのほそ道』結びの地とされる
関連する人物
- 河合曾良:『おくのほそ道』の旅の同行者。壱岐島で病没し、壱岐の能満寺に葬られている
- 藤堂良忠(蝉吟):若い芭蕉が仕えた、伊賀上野の侍大将・藤堂良勝の嗣子。寛文6年に亡くなった
- 吉丸雄哉:芭蕉忍者説を検証した三重大学准教授
よくある質問
松尾芭蕉は本当に忍者だったのですか?
忍者だったことを示す史料はなく、研究者の検証でも否定されています。忍者説が世に出たのは1966年の『東京の旅』が最初で、江戸時代の記録には根拠がありません。
芭蕉の出身地の伊賀は忍者の里ですよね。それは根拠にならないのですか?
芭蕉が伊賀国の出身であることは事実ですが、父の代には農民だったとして、吉丸准教授は伊賀者だったことを否定しています。出身地だけでは忍者の証拠にはなりません。
『おくのほそ道』の旅で、芭蕉は驚くほど速く歩いたのですか?
『曾良旅日記』の分析では、1日の歩行距離は長くても当時の平均的な男性より3割増し程度で、特別な健脚とはいえないと検証されています。
同行した曾良は隠密だったのですか?
曾良が忍者だったとする説に、証拠はありません。吉丸准教授は蓋然性はあるとしていますが、確認はされていません。曾良が幕府の巡見使の一行に加わったのは1709年で、芭蕉の没後です。
芭蕉の墓はどこにありますか?
滋賀県大津市の義仲寺にあり、木曾義仲の墓の隣に葬られています。





