武田信玄公之像の魅力を徹底解説!その歴史・見どころ・豆知識を網羅

結論:武田信玄公之像は、信玄の命日に完成した駅前のシンボル

武田信玄公之像は、JR甲府駅の南口広場に立つ銅像です。1969年(昭和44年)4月12日、信玄の命日にあたる日に完成し、甲府市に寄付されました。高さは3.1メートル、重さは5,000キログラムです。彫刻者は日展評議員だった宮地寅彦で、姿は川中島の戦いの陣中を模したものとされています。

「なぜ座っているのか」「誰が作ったのか」「いつからここにあるのか」。この記事では、こうした疑問を甲府市と山梨県の資料、国立国会図書館のレファレンス事例、Wikipedia で確かめられた範囲で整理します。確かめられなかったことは書いていません。

基本情報

  • 名称:武田信玄公之像(武田信玄公像、武田信玄公の銅像)
  • 場所:山梨県甲府市、JR甲府駅南口の駅前広場
  • 完成:1969年(昭和44年)4月12日。信玄の命日にあたる
  • 高さ・重さ:高さ3.1メートル、重さ5,000キログラム(約5トン)
  • 台座:塩山御影石
  • 彫刻者:宮地寅彦(日展評議員)
  • 建設主体:武田信玄公奉賛会。県内外の有志1,080人の浄財で建設し、甲府市に寄付
  • 移設:1985年(昭和60年)11月、駅前広場の整備に伴い現在地へ
  • 人物:武田信玄(1521年12月1日〜1573年5月13日、享年53)。戦国時代の甲斐の戦国大名

武田信玄公之像とは?建立の経緯と制作者

信玄の遺徳をしのぶ事業として、1,080人の寄付で建った

甲府市の公式ページによると、像を建設したのは武田信玄公奉賛会です。目的は「信玄公の遺徳をしのび、県民の気運を高める」ことでした。費用は県内外の有志1,080人から集めた浄財でまかなわれ、完成した像は甲府市に寄付されました。

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載る山梨県立図書館の回答では、建立の主体は「武田信玄公銅像建立奉賀会」と書かれています。「奉賛会」か「奉賀会」かで資料の表記が分かれていますが、民間の有志が資金を集めて建て、市に寄付した点はどちらも同じです。

完成の日は、信玄の命日だった

像の完成は1969年4月12日です。信玄が亡くなったのは元亀4年4月12日(グレゴリオ暦で1573年5月13日)で、命日に合わせて完成したことになります。山梨県立図書館の回答は、1969年4月13日付の山梨日日新聞の除幕式の記事を典拠のひとつに挙げています。

甲府市のページには、この日に信玄公祭りが開かれ、県内外から15万人の観光客が訪れたと書かれています。なお、Wikipedia の「武田神社」の項では、信玄公祭りは「甲府信玄祭り」として1966年に始まったとされています。像の完成より3年早く祭りが始まっていたわけです。

彫刻者は宮地寅彦。モデルは高野山の信玄画像

彫刻者は、甲府市のページも山梨県立図書館の回答も宮地寅彦としています。山梨県立図書館の回答では、日展評議員の肩書きで紹介されています。

顔つきのもとになった資料についても記録があります。同じ回答によると、1969年4月13日の山梨日日新聞は、高野山成慶院が所蔵する信玄公の画像をもとに原型が作られたと伝えています。斎藤芳弘『細面だった武田信玄』にも、成慶院蔵の画像が銅像に生かされたという趣旨の記述があるとされています。ただ、回答自体が新聞と書籍に基づく事例で、甲府市のページにはモデルへの言及がありません。「成慶院の画像を参考にした」と伝えられている、という程度に受け止めるのが安全です。

武田信玄公之像の見どころ:大きさ・ポーズ・場所

高さ3.1メートル、重さ約5トン

山梨県観光情報サイトは、駅前の信玄公像の高さを3.1メートルとし、台座は御影石だと紹介しています。Wikipedia の「甲府駅」の項も、高さ3.1メートル、重さ約5トンとしています。甲府市のページは重さを5,000キログラム、台座を塩山御影石と書いています。複数の資料の数字が合っています。

台座を含めた総高については、確かめられた資料がありませんでした。ネットには台座込みの数字を載せたものもありますが、ここでは書きません。

姿は「川中島の陣中」:軍配と数珠、床几に腰かける

甲府市のページによると、像は川中島の戦いの陣中の姿を模しています。右手に軍配、左手に数珠を持ち、床几(足の交差した腰掛け)に腰を下ろした姿です。

武将の銅像というと馬上や抜刀の姿を思い浮かべがちですが、この像は陣中で采配を握る姿です。持ち物にどんな意図が込められたかを述べた資料は見つかっていないので、その意味は、見る人それぞれが考える余地として残しておきます。

川中島の戦いは、Wikipedia では上杉謙信(当時は長尾景虎)との一連の戦いで、「五次にわたる」と言われるものです。最大規模だったのは1561年の第4次で、信玄は武田信繁や山本勘助らを失い、信玄自身も負傷したとされます。像が選んだ場面は、この戦いのどこかの陣中ということになります。

像のある場所は動いている

甲府市のページによると、像は当初、甲府駅前の噴水の南側にありました。1985年11月、駅前広場の整備に伴って現在の場所へ移されています。Wikipedia の「甲府駅」の項では、噴水は1960年に設置され、1985年の駅舎改築工事で撤去されたとあります。つまり、今の駅前の景色は、像が建った当時とは違います。

同じ項には、駅の反対側の北口に、2018年に「武田信虎公之銅像」が設置されたとも書かれています。信虎は信玄の父です。信玄公之像は南口、信虎公之像は北口なので、探すときは出口を間違えないようにしてください。

よくある誤解と諸説:像をめぐる話を確かめる

像は北口にある?

信玄公之像があるのは南口です。山梨県観光情報サイトも Wikipedia も南口の駅前広場としています。北口にあるのは、2018年に設置された信虎公の像です。

作者は有名な彫刻家?

作者を別の著名な彫刻家とする説明を見かけることがありますが、甲府市のページも山梨県立図書館の回答も、彫刻者を宮地寅彦としています。この記事では公的な資料に従い、宮地寅彦と書きます。

信玄は何で亡くなったのか

像の完成が命日と重なる以上、信玄の最期も触れておきます。Wikipedia によると、信玄は野田城の攻略後に喀血を繰り返すなど持病が悪化し、甲斐への帰路で亡くなったとされます。亡くなった場所は三河街道上とされ、御宿監物の書状写では信濃国駒場(現在の阿智村)とされています。浪合や根羽とする説もあり、場所は一つに決まっていません。享年は53です。

『甲陽軍鑑』は、遺言で死を3年間伏せるよう求めたと伝えています。一方、遺骸を諏訪湖に沈めたという話は誤りだと Wikipedia は書いています。

墓所はひとつではない

Wikipedia では、墓所が現存するのは恵林寺(甲州市)、甲府市岩窪町にも墓所があるとされ、ほかに武田神社、大泉寺、長岳寺、高野山などにも伝承地があるとされています。円光院では1779年の発掘で、戒名と年月の銘がある棺が見つかったと記録されています。像を見たあと、ゆかりの場所を訪ねるときの手がかりになります。

ゆかりの地と関連する人物

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)

Wikipedia の「武田神社」の項によると、祭神は武田信玄で、戦国時代の居館「躑躅ヶ崎館」の跡地(武田氏館跡)に建てられています。所在地は甲府市古府中町です。甲府駅北口2番のりばから山梨交通バスの「武田神社」行きまたは「積翠寺」行きに乗り、「武田神社」バス停で降ります。宝物殿(有料)には、重要文化財の太刀「吉岡一文字」、信玄公の軍扇、武田二十四将図などが収められています。

創建年は、同項の中で1919年(大正8年)とする記述と、1913年とする記述が食い違っています。訪れる前に、神社の公式案内で確認すると確実です。

信玄公祭り

Wikipedia では、信玄公祭り(甲府信玄祭り)は1966年に始まった行政主導の都市祭礼で、4月12日前の土日に開かれ、4月12日の例祭とも共存しているとされています。日程の詳細は年ごとに変わるので、出かける前に山梨県や甲府市の最新の案内を確認してください。

長野市の八幡原史跡公園

Wikipedia によると、長野市の八幡原史跡公園には、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちを表した像があります。駅前の像が陣中の姿なのに対し、こちらは一騎討ちの場面です。像の表現の違いを見比べるとおもしろいと思います。

関連する人物

  • 武田信虎:信玄の父。北口に2018年設置の銅像がある
  • 上杉謙信:川中島の戦いで争った相手
  • 宮地寅彦:駅前の信玄公之像の彫刻者

よくある質問

武田信玄公之像はどこにありますか?

JR甲府駅南口の駅前広場です。1985年11月に現在の位置へ移されました。北口にあるのは父・信虎の像です。

像の大きさと重さは?

高さは3.1メートル、重さは5,000キログラム(約5トン)です。台座は塩山御影石で作られています。

誰が作りましたか?

彫刻者は日展評議員の宮地寅彦です。武田信玄公奉賛会が県内外の有志1,080人の寄付で建設し、完成後に甲府市へ寄付されました。

なぜ座った姿なのですか?

甲府市のページによると、川中島の戦いの陣中の姿を模しており、右手に軍配、左手に数珠を持ち、床几に腰を下ろしています。座らせた理由そのものを述べた資料は確認できませんでした。

いつ完成しましたか?

1969年4月12日です。信玄の命日にあたる日で、この日に開かれた信玄公祭りには15万人の観光客が訪れたとされています。