結論:足利義満は、南北朝の合一・守護大名の抑え込み・明との国交で室町幕府の土台を固めた3代将軍
足利義満(1358〜1408年)は、室町幕府の3代将軍です。1392年に約56年続いた南北朝の分裂を終わらせ、土岐氏・山名氏・大内氏といった有力な守護を相次いで討伐して、幕府の力を大きく高めました。
対外面では、明に使者を送って国交を開き、1404年からは勘合を使った貿易が始まります。文化面では北山第(のちの金閣)を営み、観阿弥・世阿弥の猿楽を庇護しました。将軍職を子の義持に譲った後も、太政大臣になり、出家してもなお政治の中心にいた人物です。
基本情報
- 生没年:延文3年(1358年)〜応永15年(1408年)。死去は応永15年5月6日(西暦1408年5月31日)で、享年51(満49)
- 時代:南北朝時代〜室町時代
- 立場:室町幕府3代将軍(応安元年12月30日、西暦1369年2月7日就任)、のち太政大臣
- 父母:父は2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子
- 主な子:足利義持(4代将軍)、足利義教(6代将軍)、足利義嗣など
- 主な業績:南北朝合一、守護大名の討伐、日明貿易の開始、北山第の造営、北山文化の庇護
- 法名:鹿苑院天山道義
足利義満は何をした人?南北朝の統一と幕府の権力強化
11歳で将軍になり、細川頼之が支えた
義満が家督を継いだのは、父の義詮が亡くなった貞治6年(1367年)12月です。数えで10歳でした。翌年には細川頼之を烏帽子親として元服し、応安元年12月30日(西暦1369年2月7日)に征夷大将軍となります。数え11歳での就任でした。
幼い将軍に代わって幕政を主導したのは、管領の細川頼之です。頼之は応安大法の実施や、今川了俊・大内義弘の九州への派遣などを行いました。しかし康暦元年(1379年)の康暦の政変で、頼之は罷免されます。ただし翌年には赦免され、幕政に復帰しました。
花の御所に政庁を置く
永和4年(1378年)、義満は邸宅を北小路室町へ移しました。この邸は「花の御所」と呼ばれ、幕府の政庁となります。
永徳3年(1383年)には、武家として初めて源氏長者にもなっています。武家の頭領であると同時に、公家社会の中でも高い地位を占めていく動きの一つです。
明徳の和約で南北朝を合一
南北朝を終わらせたのは、明徳3年(1392年)の「明徳の和約」です。1391年の明徳の乱で山名氏を弱体化させた義満は、大内義弘の仲介で南朝との交渉に入りました。和約が成立したのは10月27日(西暦1392年11月12日)です。
閏10月5日(西暦1392年11月19日)、後亀山天皇が吉野から京都へ戻り、後小松天皇に三種の神器を渡しました。これで南北朝の分裂は終わります。和約には、皇位を両統が交代で継ぐ「両統迭立」も盛り込まれていました。ところがこの約束は、1412年に後小松天皇が称光天皇へ譲位したことで守られず、のちの後南朝の抵抗につながったとされます。合一は義満の大きな成果ですが、約束が果たされなかった点まで含めて見る必要があります。
守護大名を一つずつ抑える
義満は、力を持つ守護の家に内紛や対立が起きる機会をとらえて、討伐を重ねました。
- 土岐康行の乱:土岐頼康の死後の内紛に乗じて、土岐康行を討伐した
- 明徳の乱(1391年):山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐した
- 応永の乱(1399年):大内義弘が堺で挙兵し、これも討伐した
南北朝合一の交渉を仲介した大内義弘ですら、のちには討伐の対象になっています。幕府に従う守護と従わない守護を、軍事力で分けていったのが義満の方針でした。
足利義満は何をした人?明との勘合貿易と「日本国王」
博多商人の話から始まった対明外交
日明貿易は、博多商人の肥富が「明との貿易は莫大な利益を生む」と義満に伝えたことが発端だったとされます。応永8年(1401年)、義満は肥富と僧の祖阿を使者として明へ送り、翌年、明の国書が持ち帰られました。その後、明では靖難の変を経て永楽帝が即位し、改めて国書が送られたことで、国交と通商の合意が成立します。
「日本国王」という名を受け入れた理由
明は朝貢の形での貿易しか認めませんでした。そのため幕府の将軍は、明の皇帝から「日本国王」として冊封を受ける形をとります。義満は建文帝により冊封されたとされます。この点は、後世にさまざまな評価を生みました。ただ、名分よりも実利を選んだ判断といえる、という評価があります。
勘合貿易の開始と、その後
応永11年(1404年)以降は、勘合を持つ者に限って貿易が許されるようになりました。これが「勘合貿易」です。勘合は本来、外交使節の通行証でした。日本側はこれを貿易の許可証とみなしていたとする説もあります。
前期倭寇は、勘合貿易が行われるようになると一時的に衰えたとされます。
義満の死後、4代将軍の義持らは応永18年(1411年)に貿易を一時停止します。再開は、6代将軍義教の時代の永享4年(1432年)です。義満の対明外交は、将軍が代わると方針も変わる、個人の判断が大きいものでした。
金閣と北山文化:義満が残した文化の遺産
北山第と金閣の成り立ち
応永4年(1397年)、義満は西園寺家から北山の地を譲り受け、北山山荘(北山第)を造営しました。鹿苑寺(金閣寺)は、この北山の山荘が元になっています。寺名は、義満の法名「鹿苑院」に由来します。
舎利殿(金閣)は三層の建物で、各層の様式が違います。初層は寝殿造、二層は武家造、三層は禅宗様です。上の二層には金箔が貼られ、屋根の上には銅の鳳凰が載ります。完成はおよそ1399年と推定されています。公家の様式と武家の様式、禅の様式を一つの建物に重ねたところに、北山文化の特徴が見て取れます。
金閣は昭和25年(1950年)7月に放火で焼失し、昭和30年(1955年)に再建されました。1994年には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。
相国寺と七重塔
義満は永徳2年(1382年)に相国寺の建立を始めました。境内に建てた七重塔は1399年に完成したとされ、高さは360尺(約109m)と伝わります。ただし完成から4年後に落雷で焼失しました。
観阿弥・世阿弥を庇護する
世阿弥が12歳のころ、父の観阿弥とともに京都の新熊野神社で猿楽を演じました。それを見た義満が目をとめ、以後、父子を庇護したとされます(時期は1374年か1375年)。
永和4年(1378年)の祇園祭では、世阿弥が義満の桟敷に同席しました。これを公家が批判したことが、『後愚昧記』に記されています。観阿弥は1384年に亡くなり、世阿弥が観世大夫を継ぎます。世阿弥の『風姿花伝』は1400年ごろの成立と考えられています。義満の後を継いだ義持は田楽を好み、世阿弥への扱いは義満の時代より薄くなったとされます。
将軍職を譲ってからの義満と最期
太政大臣になり、出家する
応永元年(1394年)12月、義満は将軍職を嫡男の義持に譲りました。同じ月に太政大臣にも任じられています。武家では平清盛に次ぐ2人目で、征夷大将軍の経験者としては初めてでした。足利将軍家で太政大臣になったのは義満だけです。
応永2年(1395年)6月、太政大臣を辞して出家し、道有と号しました。のちに道義と改めています。出家後も北山第で暮らし、政治と外交の中心にい続けました。
北山第での死去
応永15年4月25日、義満は子の義嗣を親王に準じた形で元服させ、参議・従三位に昇進させました。その直後の4月27日、流行り病の咳気をこじらせて発病します。一時は快方に向かったものの悪化し、5月6日に北山第で亡くなりました。服部敏良は、急性肺炎のような症状だったと推測しています。
墓所は相国寺塔頭の鹿苑院とされますが、廃仏毀釈で場所が分からなくなりました。位牌は臨川寺にあります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 鹿苑寺(金閣寺):京都市北区。北山第の跡にあたり、世界遺産「古都京都の文化財」の一部。金閣は1955年の再建
- 相国寺:義満が1382年に建立を始めた寺。墓所とされる塔頭の鹿苑院はここにあった
- 臨川寺:義満の位牌が伝わる寺
- 新熊野神社:義満が若い世阿弥を見いだしたとされる場所
関連する人物
- 足利義詮:父。2代将軍で、1367年に死去した
- 細川頼之:管領として幼い義満を支えた。康暦の政変で一度罷免された
- 足利義持・足利義教:義満の子。それぞれ4代・6代将軍になった
- 観阿弥・世阿弥:義満が庇護した猿楽の父子
- 山名氏清・大内義弘:義満が討伐した守護大名
よくある質問
足利義満は何をした人ですか?
室町幕府3代将軍として、1392年に南北朝を合一し、有力守護を討伐して幕府の力を固めました。明との国交を開いて勘合貿易を始め、北山第を営んで北山文化を育てた人物です。
足利義満は何歳で将軍になりましたか?
応安元年12月30日(西暦1369年2月7日)に征夷大将軍となり、数えで11歳でした。それ以前の幕政は、管領の細川頼之が主導しました。
金閣はいつ、何のために建てられましたか?
義満は1397年に西園寺家から北山の地を譲り受けて北山山荘(北山第)を造営し、舎利殿(金閣)はおよそ1399年に完成したと推定されています。義満の死後に寺となり、法名にちなんで鹿苑寺と呼ばれます。現在の金閣は1950年の焼失後、1955年に再建されたものです。
足利義満はなぜ「日本国王」と呼ばれたのですか?
明は朝貢の形での貿易しか認めなかったため、義満は明の皇帝から「日本国王」として冊封を受ける形で国交を結びました。名分より実利を選んだ判断といえる、という評価があります。
足利義満はどのように亡くなりましたか?
応永15年(1408年)4月27日に流行り病の咳気をこじらせて発病し、5月6日に北山第で亡くなりました。急性肺炎のような症状だったとする推測があります。





