結論:金閣は、義満が北山の山荘に建てた舎利殿。三層の様式の違いに権勢が表れている
金閣寺の正式名は鹿苑寺で、「金閣」と呼ばれる建物はその舎利殿です。建てたのは室町幕府3代将軍の足利義満で、1397年(応永4年)に西園寺家から北山の土地を譲り受けて山荘を造営し、金閣は1399年ごろに完成したとされます。
三層は上から禅宗様、武家造、寝殿造と、すべて別の様式です。上の二層には金箔が張られています。義満の死後、山荘は遺志により1420年に寺となり、義満の法号「鹿苑院殿」にちなんで鹿苑寺と名づけられました。
現在の金閣は1950年の火災で焼失したのち、1955年に再建されたものです。この記事では、義満がなぜ北山に山荘を築けたのかという背景から、建築の特徴、のちの文化への影響までを順に見ていきます。
基本情報
- 人物:足利義満(延文3年8月22日〔1358年9月25日〕生まれ、応永15年5月6日〔1408年5月31日〕没。享年51)
- 時代:室町時代(南北朝時代から室町時代前期)
- 立場:室町幕府の3代将軍。のちに太政大臣となり、出家した
- 建物:鹿苑寺舎利殿(金閣)。京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院の中心的な建物
- 造営:1397年に山荘の造営を始め、金閣は1399年ごろに完成したとされる
- 文化との関係:義満の時代の文化は「北山文化」と呼ばれる
- 世界遺産:「古都京都の文化財」の一つとして1994年に登録
足利義満と金閣寺の歴史的背景:北山山荘ができるまで
3代将軍として幕府の権力を固める
義満は2代将軍・足利義詮の子として京都に生まれ、応安元年12月30日(1369年2月7日)に3代将軍となりました。若い義満を支えたのは管領の細川頼之です。ところが1379年の康暦の政変で斯波義将らが義満の邸を囲み、頼之の罷免を求めました。頼之は罷免され、後任には義将が就いています。
その後の義満は、有力な守護大名の力を削いでいきます。土岐氏の内紛につけ込んで土岐康行を討ち、1391年の明徳の乱では山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討ちました。1399年の応永の乱でも、大内義弘を挑発して堺で挙兵させ、これを討ったと伝えられます。いずれも義満の側から仕掛けた面があると、Wikipediaの記述では説明されています。
1378年には、邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、幕府の政庁としました。この邸は後に「花の御所」と呼ばれます。
南北朝合一と太政大臣、そして出家
義満の大きな実績が、1392年(明徳3年)の南北朝合一です。南朝の後亀山天皇との交渉で「明徳の和約」を成立させ、南朝と北朝が一つになりました。
1394年(応永元年)12月、義満は将軍職を嫡男の義持に譲ります。同じ月に従一位・太政大臣にも昇りました。武家で太政大臣になったのは、平清盛に次いで2人目です。翌1395年(応永2年)6月には太政大臣を辞して出家し、道義と号しました。出家のあとも「大御所」として政治の実権は手放していません。
北山の土地を得て、山荘を築く
1397年(応永4年)、義満は西園寺家から北山の土地を譲り受け、山荘の造営を始めます。1399年(応永6年)の春以降は本格的に北山へ移り住み、ここを活動の拠点としました。この山荘が北山殿(北山第)です。
北山殿は義満の拠点でした。1408年3月には後小松天皇が北山第に行幸しています。義満はそれから約2か月後の5月6日に、この北山第で亡くなりました。
日明貿易が支えた財力
義満は明との国交にも力を入れました。1401年(応永8年)に使節を送り、明の建文帝から「日本国王」に冊封されたとされます。1404年(応永11年)には勘合貿易が始まりました。
ただし、貿易の利益が金閣の建築費にどれだけ回ったのか、金額を示す資料は今回確認できていません。「貿易の富で金閣を建てた」と言い切るのではなく、義満の権力と財力が山荘造営の背景にあった、という範囲で捉えておくのが安全です。
金閣寺の建築の秘密:三層で様式がちがう舎利殿
下から寝殿造・武家造・禅宗様
金閣は三層で、各層の様式が異なります。1階は寝殿造、2階は武家造、3階は中国の禅宗の仏殿にならった禅宗様です。各層には名前があり、英語版Wikipediaによれば、1階が法水院、2階が潮音洞、3階が究竟頂です。
寝殿造の層と武家造の層の上に、禅宗の仏殿風の層を重ねています。公家・武家・仏教という、義満が関わった三つの世界を一つの建物に積んだ形です。
この構成を「義満が自分の権威を示すため」と読む解説は多くあります。ただ、設計の意図を義満自身が語った資料を、今回は確認できていません。私は、三つの世界を一棟に重ねた構成は、公家社会にも武家社会にも仏門にも立場を持った義満の姿と重なると考えます。これはあくまで読み解きであり、確定した事実ではありません。
金箔は上の二層、頂には鳳凰
金箔が張られているのは、上の二層です。最下層の1階は金箔を張らない造りで、金色の層との対比が目に入ります。屋根の頂には銅製の鳳凰が据えられています。
金閣の正式な呼び名は「舎利殿」です。舎利殿とは、釈迦の遺骨とされる仏舎利を安置する建物のことで、金閣の上層にも仏舎利が納められています。
鏡湖池に映る姿
金閣は、鏡湖池という池に面して建っています。池の水面に建物が映り、池には小さな島がいくつも浮かびます。この池を中心とした庭園は、1956年に特別史跡・特別名勝に指定されました。
庭園を「極楽浄土を表したもの」と説明する文章はよく見かけます。英語版Wikipediaには、庭園は阿弥陀仏の西方極楽浄土の描写にもとづいて造られたとする記述があります。ただし、日本語版の鹿苑寺の項にはこの点の記述がないため、この記事では「そう伝えられる」という範囲にとどめます。
金閣寺が後世に与えた影響と、焼失・再建
北山文化の象徴として
北山文化は、14世紀末から15世紀前半にかけて栄えた文化です。南北朝の動乱を経て、公家文化と新興の武家文化が融合しました。勘合貿易や禅宗を通じて、大陸の文化も入ってきています。金閣は、この文化を代表する建物とされます。
芸能では、能が観阿弥・世阿弥の親子によって大成されたとされ、五山文学では義堂周信や絶海中津が代表的な作家に挙げられます。同じ時代の文化として、金閣と並べて覚えておくとよいでしょう。
銀閣への影響
東山文化を代表する慈照寺の観音殿、いわゆる銀閣は、8代将軍・足利義政が建てました。東山山荘の造営は1482年(文明14年)に始まり、観音殿は1489年(長享3年)3月に上棟しています。義満の孫にあたる義政は、祖父が建てた金閣にならって銀閣を建てたとされます。
ただ、両者の姿は同じではありません。金閣は三層の柱間装置が東西南北とも同じです。一方、銀閣は二層で、上層は東西面と南北面で形式が異なります。さらに、銀箔は創建時から貼られていなかったとされ、「銀閣」の名も金閣に準えて江戸時代以降に広まったものです。
1950年の焼失と再建
1950年7月、金閣は学僧の放火により焼失しました。足利義満坐像などの木像もあわせて失われています。再建は1952年から1955年にかけて行われ、1904〜1906年の修理の際に作られた図面などをもとにしたと説明されています。
その後、1986年から1987年に大規模な修復が行われ、金箔も張り替えられました。英語版Wikipediaによれば、再建後に張った金箔が剥がれていたことが分かり、新しい金箔に替えられ、厚さは元の約5倍になったとされます。
ゆかりの地と関連する人物
鹿苑寺(金閣寺)
京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院です。義満の山荘を、没後の1420年に寺にしました。夢窓疎石が名目上の開山とされます。鹿苑寺の見どころは、舎利殿と鏡湖池を中心とした庭園です。
慈照寺(銀閣寺)
東山にある、義政の山荘を寺にしたものです。金閣と見比べると、義満の北山殿と義政の東山山荘で、それぞれの時代の美意識の違いが見えてきます。
関連する人物
- 足利義持:義満の嫡男。1394年に義満から将軍職を譲られた
- 細川頼之:若い義満を支えた管領。康暦の政変で罷免された
- 足利義政:義満の孫。銀閣を建てた8代将軍
- 観阿弥・世阿弥:能を大成させたとされる親子
よくある質問
金閣寺を建てたのは誰ですか?
3代将軍・足利義満です。1397年に北山の土地を譲り受けて山荘を造営し、舎利殿(金閣)は1399年ごろに完成したとされます。
金閣は3階すべてが金色ですか?
いいえ。金箔が張られているのは上の二層で、1階は金箔のない造りです。
金閣はいつ焼けましたか?今の建物は当時のものですか?
1950年に放火で焼失しました。今の建物は1955年までに再建されたものです。1986〜1987年に大規模な修復があり、金箔も張り替えられています。
金閣寺と銀閣寺は関係がありますか?
銀閣を建てた足利義政は義満の孫で、銀閣は金閣にならって建てられたとされます。ただし、銀箔は創建時から貼られていなかったと説明されています。



