結論:藤堂高虎は「築城三名人」の一人で、代表作は今治城・宇和島城・伊賀上野城・津城
藤堂高虎(1556〜1630年)は、黒田孝高、加藤清正と並んで「築城三名人」の一人とされる武将です。縄張り(城の設計)を数多く手がけ、城の天守を、矩形の天守台の上に同じ形の階を積み重ねる層塔型にした人物として知られています。
高虎の城として挙げられるのは、水を引き込んだ堀で知られる今治城、梯郭式の山城である宇和島城、約29.7メートルの高石垣が残る伊賀上野城、そして居城として整えた津城です。この記事では、それぞれの城で高虎が何をしたかを、確かめられた範囲で整理します。
基本情報
- 生没年:弘治2年(1556年)〜寛永7年(1630年)、享年75
- 時代:安土桃山時代から江戸時代初期
- 立場:浅井長政に始まり、豊臣秀長、秀吉、徳川家康らに仕えた武将。後に伊勢津藩の初代藩主となる
- 評価:黒田孝高、加藤清正と並ぶ「築城三名人」の一人とされる
- 主な城:今治城、宇和島城、伊賀上野城、津城。ほかに丹波亀山城や江戸城の築城・改築にも関わった
藤堂高虎の城の特徴:高石垣と層塔型天守
最初の築城は豊臣秀長のもとで
高虎の最初の築城は、天正13年(1585年)ごろ、紀州征伐の後に豊臣秀長のもとで普請奉行として関わった和歌山城(猿岡山城)とされます。1589年には、北山一揆を鎮める拠点として三重県熊野市の赤木城を築きました。早い時期から、合戦と城づくりの両方を任されていたことがわかります。
実戦で試された城
慶長の役では、朝鮮で順天倭城の築城を指揮しました。この城は明・朝鮮軍の陸海からの攻撃を退け、堅固さが実戦で示されたとされます。高虎の城づくりは、机上の設計ではなく、戦場での経験の上に成り立っていました。
高石垣と多聞櫓
高虎は高石垣の技術に優れ、石垣の上に多聞櫓を巡らせる築城が巧みだったとされます。今治城でも、鉄御門とともに多聞櫓が復元されています。
層塔型天守の考案
それまでの望楼型天守は、構造が安定しにくく、屋根裏にあたる階が使いにくいという弱点がありました。これに対し層塔型は、矩形の天守台の上に規格化された部材を積み上げる方式で、構造上の欠点が解消され、階ごとに作業を進められるため工期も短縮できたと説明されます。高虎が考案したとされるこの様式は、江戸城などにも採られ、近世天守の主流になったと伝えられています。
藤堂高虎の城として名高い代表作
今治城:海水を引き込む水城
今治城(愛媛県今治市)は、関ヶ原の戦いの後に加増を受けた高虎が新しい居城として、慶長7年(1602年)に築城を始め、慶長9年(1604年)に完成させました。三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、敷地内の池に船が停泊できたとされ、日本三大水城の一つに数えられます。
天守については注意が必要です。高虎が今治城に層塔型天守を新たに創建したと説明されることがありますが、築城当時に天守があったかどうかは確定しておらず、天守台の遺構も見つかっていません。江戸時代には北隅櫓が天守の代わりとされ、天守を慶長15年(1610年)ごろに丹波の亀山城へ移したとする説もあります。
現在の五層六階の天守は、昭和55年(1980年)に北隅櫓跡に建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守で、史実に基づく復元ではありません。一方、本丸・二の丸の石垣と内堀は江戸時代のものが残っています。平成19年(2007年)には鉄御門と多聞櫓が木造で復元されました。愛媛県の史跡で、日本100名城にも選ばれています。
宇和島城:五角形の縄張りと現存天守
宇和島城(愛媛県宇和島市)は、中世の板島丸串城の跡に、慶長元年(1596年)から工事を始め、慶長6年(1601年)に完成した城です。山上の本丸を中心に曲輪を配した梯郭式の平山城で、外郭の堀や塁線が五角形をなし、一辺が死角になる「空角」の工夫があったと伝えられます。西側は海に接していました。
よく混同されるのが現存天守です。いま残る天守は、高虎の時代のものではなく、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)にかけて伊達宗利が改修したときに建てられた、独立式層塔型の三重三階です。国の重要文化財で、城跡は国の史跡に指定されています。高虎の縄張りの上に、のちの藩主の天守が建つ城だと言えます。
伊賀上野城:高さ約29.7メートルの石垣
上野城(三重県伊賀市)は、天正13年(1585年)に筒井定次が築いた城です。慶長13年(1608年)に定次が領地を没収された後、高虎が伊賀・伊勢の22万石で入り、慶長16年(1611年)正月から大規模な改修に着手しました。西に深い堀を掘って高い石塁を築き、本丸を拡張し、大手は南側に移しています。
この高石垣は、打込はぎの技法で築かれ、根石から天端まで約29.7メートル、延長約368メートルです。かつては日本一の高さといわれましたが、実際には大坂城の石垣が最も高いとされています。筒井時代の上野城は大坂城を守る出城でしたが、高虎の改修で、大坂城を攻めるための城という性格に変わり、西側の守りが重視されたと説明されます。
天守は、今治城の天守を移す案が実現せず、新たに五層の天守を建てましたが、慶長17年(1612年)9月2日の大嵐で完成間近に倒壊しました。大坂の陣の後に豊臣氏が滅んだため、再建されませんでした。現在の三層三階の天守は、昭和10年(1935年)に地元選出の代議士、川崎克が私財を投じて建てた木造の模擬天守です。
津城:居城を輪郭式に変えた
慶長13年(1608年)、高虎は伊勢・伊賀22万石で津城(三重県津市)に入りました。城を大改修して輪郭式の城郭に変え、城下町も整えました。輪郭式とは、中央の本丸を内堀で囲み、東丸・西丸を付属させ、その外側を二の丸が取り囲む形です。
現在残る遺構は石垣と堀です。丑寅櫓跡の隣には昭和33年(1958年)に建てられた三重櫓がありますが、旧来の櫓とは場所も形も異なる、観光用の模擬櫓です。本丸跡の日本庭園入口に移築された藩校有造館の正門、入徳門は現存します。続日本100名城に選ばれています。
築城名人の城が残したもの:評価と、築城の背景
江戸城・丹波亀山城など幕府の普請
高虎は徳川家康の側近として、外様大名でありながら幕閣に匹敵する立場だったと記されます。丹波亀山城は幕府の天下普請として築き、江戸城では改築に功があったとされ、以後の城郭普請にも新型の天守が採用されたと伝えられます。二条城については、秀忠の改修にあたり設計図2枚を提出したとされますが、高虎が築いたと書かれているわけではありません。
城づくりの政治的な意味
伊賀上野城などの築城は、大坂城の豊臣秀頼や、西国の豊臣恩顧の大名を包囲する目的とも解釈されています。高虎の城は、美しさだけでなく、徳川政権の安全を守る役割も負っていました。
よくある誤解:城の細部は確かめにくい
「高虎の城は堀が広く、石垣が高い」といった説明をよく見かけますが、堀や縄張りの細部、個々の城の石垣の詳細まで、史料で確かめられるものは限られています。今治城の天守のように、通説と遺構の調査結果が一致しない点もあります。築城名人という呼び名は、高虎の人物像を伝える評価であり、すべての城の細部が高虎の設計だと確定しているわけではありません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 今治城(愛媛県今治市通町):海水の堀と、江戸時代の石垣・内堀が残る。復元された鉄御門と多聞櫓、二の丸の高虎像も見どころ
- 宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内):重要文化財の現存天守と、国の史跡の城跡
- 上野城(三重県伊賀市上野丸之内):高さ約29.7メートルの高石垣と、模擬天守
- 津城(三重県津市丸之内):石垣と堀、入徳門が残る
関連する人物
- 豊臣秀長:高虎が最初の築城に関わった頃の主君
- 徳川家康:関ヶ原後の高虎が仕え、側近として重く用いられた
- 筒井定次:上野城の最初の城主。慶長13年に領地を没収された
- 伊達宗利:現存する宇和島城天守を建てた藩主
- 藤堂高吉・藤堂良勝:高虎の養子と従弟で、それぞれ今治城、宇和島城の城代を務めた
よくある質問
藤堂高虎が築いた城には何がありますか?
今治城、宇和島城、津城、上野城(伊賀上野城)が代表です。そのほか、紀伊の和歌山城、熊野の赤木城、丹波亀山城にも関わり、江戸城では改築に功があったとされます。
築城三名人とは誰ですか?
藤堂高虎、黒田孝高、加藤清正の三人です。いずれも城づくりの腕に優れたとされる武将です。
宇和島城の天守は高虎が建てたものですか?
いいえ。現存する天守は、伊達宗利が寛文2年から寛文11年にかけて改修したときのもので、高虎期の天守は残っていません。
今治城の天守は復元されたものですか?
いいえ。昭和55年に建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守で、史実に基づく復元ではありません。築城当時に天守があったかどうかも確定していません。
伊賀上野城の天守はなぜ模擬天守なのですか?
高虎が建てた五層の天守は、完成間近の慶長17年の大嵐で倒壊し、その後再建されませんでした。現在の天守は昭和10年に川崎克が私財で建てたものです。






