結論:藤堂高虎は、主君を渡り歩いて家康の信頼を得た「築城の名手」
藤堂高虎(とうどう たかとら)は、1556年(弘治2年)に近江の土豪の次男として生まれ、浅井長政から徳川家康まで、生涯に7回主君を変えたとされる武将です。豊臣秀長のもとで頭角を現し、のちに家康に仕えて伊予今治、伊勢津の大名となりました。
築城の名手としても知られ、今治城で層塔型天守を初めて築いたとされます。1630年(寛永7年)、江戸の藩邸で75歳で亡くなりました。
主君を変え続けた経歴は、江戸時代の封建道徳のもとでは評価されにくかったと説明されています。ここでは、仕えた先ごとの働きと築いた城を、確かめられる範囲でたどります。
基本情報
- 生没年:1556年(弘治2年)〜1630年11月9日(寛永7年10月5日)、享年75
- 時代:戦国時代から江戸時代初期(安土桃山時代を中心に活躍)
- 立場:武将・大名。伊予今治藩主、のち伊勢津藩の初代藩主。外様大名
- 出身:近江国犬上郡の土豪・藤堂虎高の次男
- 主な業績:今治城での層塔型天守の創建、伊賀上野城・津城の整備、津藩の基礎づくり
- 墓所:上野の寒松院、伊賀市の上行寺、津市の寒松院、比叡山延暦寺に墓所がある
藤堂高虎の生涯:7人の主君を渡り歩いた経歴
浅井長政から豊臣秀長へ:若手時代
高虎が最初に仕えたのは北近江の浅井長政です。1570年の姉川の戦いで初陣を飾り、武功を挙げたとされます。その後は阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄と主君を変えました。
転機は1576年です。羽柴秀吉の弟・秀長に仕え、300石を与えられました。秀長に従って但馬平定、三木合戦、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐などに加わっています。1587年の九州征伐では宮部継潤の救援で活躍し、赤木城も築いています。
秀長の死後:出家と大名への道
秀長の跡を継いだ秀保が1595年に早世すると、高虎は一度出家しました。しかし還俗し、伊予板島(宇和島)7万石の大名となります。慶長の役では水軍を率いて朝鮮水軍との海戦で武功を挙げたとされ、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石になりました。
板島丸串城は大規模に改修され、宇和島城と改称されたとされます。
関ヶ原から徳川家へ
関ヶ原の戦いでは家康方につきました。伊予での一揆の鎮圧や、東軍への内応工作を行ったとされます。戦後は今治12万石を加増され、合計20万石になりました。
1608年には、伊賀上野の筒井定次の改易に伴い、伊賀・伊勢などに加増移封されて津藩22万石の藩主となります。1614年の大坂冬の陣、1615年の夏の陣にも参戦しました。夏の陣の八尾の戦いでは長宗我部盛親の隊と戦い、一族の藤堂良勝、藤堂高刑らを含む多数の死傷者を出しています。戦後は加増されて計27万石、1617年には田丸城5万石が加わり、津藩の石高は32万3000石になりました。
「7回の主君替え」をどう見るか
高虎は、一生に7回主君を変えたことから「渡り奉公人」の代表格とされます。江戸時代の封建道徳のもとでは、これが高く評価されなかったと説明されています。
一方で、仕えた相手は浅井長政、豊臣秀長、秀吉、家康と、その時代の中心にいた人物ばかりです。私は、仕える先を自分で選び続けた結果、最後に徳川家で32万石余の大名に至ったと考えます。ただしこれは筆者の見方で、資料が高虎の意図を述べているわけではありません。
築城の名手・藤堂高虎が手がけた城
今治城:海水を引き込んだ水城と層塔型天守
今治城は、1602年(慶長7年)に高虎が築城を始め、1604年に完成しました。伊予国越智郡今治(現在の愛媛県今治市通町)にあった海城で、三重の堀に海水を引き入れた点が特徴です。海から船で堀に直接入れ、敷地内には船が停泊できる池もありました。日本三大水城の一つに数えられています。
天守は、望楼型が主流だった時代に、規格化した部材を階ごとに組む層塔型を採用したとされ、この方式が後の城造りに広まったといわれます。ただし、築城当時に天守が実在したかは確定していません。天守台の遺構は見つかっておらず、一次資料による裏づけも不足しています。慶長14〜15年頃に丹波亀山城へ天守を移築したという説もありますが、資料により年代の記述が異なります。
現在の5重6階の天守は1980年に建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守で、史実に基づくものではありません。本丸と二之丸の石垣と内堀は現存し、1953年に愛媛県史跡に指定されました。2006年には日本100名城に選ばれています。
伊賀上野城:大坂に備えた高石垣
1611年(慶長16年)の正月、高虎は家康の命を受けて伊賀上野城の大規模な改修に着手しました。大坂方に備えて、特に西側の防備を強化しています。城域は筒井定次の時代の約3倍、約7千坪に広がり、南に二ノ丸が置かれました。
高石垣は「打込はぎ」の技法で築かれ、根石から天端まで約29.7メートル、長さは約368メートルです。長く日本一の高さといわれてきましたが、実際には大坂城の石垣が最も高いと注記されています。筒井時代には大坂城を守る出城だった上野城が、藤堂時代には大坂城を攻める立場の城になったとされます。
藤堂時代に建てた5層の天守は、1612年9月2日の大嵐で完成間近に倒壊し、約180名が死亡したとされます。その後は再建されませんでした。現在の3層の天守は1935年(昭和10年)に衆議院議員の川崎克が私財で建てた木造の模擬天守で、本来の位置とも異なります。城は1967年に国の史跡に指定されています。
そのほかの城:宇和島・津・江戸・二条
津城では、1608年に高虎が入城して大改修を行い、輪郭式の城郭に変え、城下町も整備しました。藤堂氏はその後、明治維新まで津を居城としました。
天下普請では、伊賀上野城と丹波亀山城を築き、江戸城の改築にも功があったとされます。秀忠による二条城の改修では、設計図を2案提出したと伝えられます。順天倭城では築城の指揮をとったとされます。
掘り下げ:家康との関係、人物像、よくある誤解
家康の臨終と改宗の話
家康が亡くなるとき、高虎は枕元に侍ることを許されたとされます。1616年(元和2年)4月1日には、家康が堀直寄に、有事の際は高虎を先鋒、井伊家を二陣とするよう遺言したと伝えられます。
また、家康が死の10日前に「来世で会えないのが残念だ」という趣旨の嘆きを漏らしたのに対し、高虎は家康の宗旨である天台宗に改宗して来世でも仕えると答えたとされます。この話は『西嶋八兵衛留書』に拠るもので、高虎自身は日蓮宗でした。
体格・傷・晩年の失明
身長は約190センチと伝えられ、幼少期から体が大きかったといいます。『平尾留書』によると、亡くなった後の遺骸は全身に傷があり、右の薬指と小指はちぎれて爪がなく、左の中指は一寸ほど短く、右足の親指の爪もなかったとされます。
晩年は眼病を患い、1630年に失明したとされます。同年10月5日、江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。戒名は寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都で、天海が寒松院と命名したとされます。
よくある誤解:白餅の出世譚
高虎が餅を多く食べたという逸話は伝わっています。餅にまつわる出世譚は講談や浪曲に取り上げられてきましたが、史料による裏づけは限られています。恩返しの話や旗印の由来として語られることもありますが、史実としては確かめられていません。藤堂家の家紋は、藤堂蔦が定紋、酢漿草が裏紋・替紋とされます。
もう一つ、「高虎の城は天守がみな層塔型」という理解にも注意が必要です。今治城の天守の実在と移築をめぐっては、上で見たとおり説が分かれています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 今治城(愛媛県今治市):海水を引いた堀と石垣が残る。二之丸には藤堂高虎の像がある。JR今治駅からバスで約10分
- 伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内):高石垣が見どころ。国の史跡、日本100名城
- 津城跡(三重県津市丸之内):現在は「お城公園」。三重県指定史跡で、続日本100名城
- 上野東照宮:1627年(寛永4年)に高虎が自分の敷地内に建立したとされる
関連する人物
- 豊臣秀長:高虎が1576年に仕えた羽柴秀吉の弟
- 徳川家康:関ヶ原で高虎が味方した主君。臨終の際に枕元に侍ることを許されたとされる
- 藤堂高次:嫡男。1630年に津藩の2代藩主を継いだ
- 藤堂高吉:養子。名張藤堂家の祖
- 加藤嘉明:唐島海戦の論功行賞以来、高虎と対立したが、のちに和解したとされる
藤堂家は、高虎のあと高次、高久と続き、全12代を経て、廃藩置県によって津藩が廃されました。
よくある質問
藤堂高虎はなぜ主君を何度も変えたのですか?
資料には本人の動機を述べた文はなく、理由は確かめられません。確かなのは、7回主君を変えたとされること、浅井長政、豊臣秀長、秀吉、家康と有力者に仕えたことです。
藤堂高虎が仕えた主君は誰ですか?
浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄、豊臣秀長、秀保、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠、家光と、資料には多くの名が挙がります。数え方によって「7人」にならない点に注意が必要です。
藤堂高虎の最期はどのようなものでしたか?
1630年11月9日(寛永7年10月5日)、江戸の藤堂藩邸で75歳で亡くなりました。晩年は眼病で失明したとされます。臨終の具体的な様子は、参照した資料に記述がありません。
藤堂高虎が築いた城で現存するものは?
今治城は石垣と内堀が現存し、伊賀上野城は高石垣が残ります。ただし、どちらの現在の天守も、後に建てた模擬天守です。





