結論:セツは「語り部」として八雲の再話文学を支えた妻
小泉セツ(節子)は、慶応4年(1868年)に松江藩士の家に生まれ、昭和7年(1932年)に64歳で亡くなった女性です。ラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲と1891年に結婚し、八雲の死まで連れ添いました。
八雲は日本語の書物を自力で読みこなせたわけではなく、日本の昔話や怪談は、セツが語って聞かせた話から作品になっていきました。小泉八雲記念館は、セツを八雲の再話文学創作における最大の功労者と紹介しています。
八雲の死後は、八雲との思い出をまとめた『思い出の記』を残しました。
基本情報
- 名前:小泉セツ(節子)
- 生年:慶応4年2月4日(1868年2月26日)、松江藩士・小泉家の二女
- 没年:昭和7年(1932年)2月18日、動脈硬化により64歳
- 時代:江戸末期に生まれ、明治・大正・昭和初期を生きた
- 立場:小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻。八雲との生活は13年8か月
- 主な業績:八雲に日本の物語を語って創作を支えたこと、『思い出の記』
- 墓所:雑司ヶ谷霊園(東京)
小泉八雲の妻セツの生い立ちと出会い
松江藩士の娘、没落した養家での少女時代
セツは松江藩士・小泉家の二女として生まれ、生後7日で親類の稲垣家の養女になりました。明治維新のあと稲垣家は没落し、セツは11歳から実父・小泉湊が興した機織会社で織子として働いています。小泉八雲記念館の展示には、セツの織見本帳が出ています。
最初の結婚と離婚
セツは18歳のとき、稲垣家の婿養子として前田為二を迎えました。しかし為二は1年足らずで大阪へ出奔します。セツは明治23年(1890年)に離婚して小泉家に復籍しました。八雲と出会う前に、すでに結婚と離婚を経験していたことになります。
住み込み女中から妻へ
八雲は1890年4月に横浜へ着き、同年8月30日に松江に到着しました。島根県尋常中学校などの英語教師として赴任したのです。セツは1891年の初めごろ、八雲の家に住み込みの女中として働き始めました。始まった時期については、セツ自身の語りにある1890年12月という説にも触れる文献があり、資料によって差があります。
同年8月11日付の八雲の手紙には、友人へ結婚を報じた記述があります。八雲と同僚の西田千太郎が、二人の間をつないだ人物として知られます。小泉八雲記念館は、西田千太郎を「ヘルンとセツの架け橋」と位置づけた講座も開いています。
展示にはセツのルーペも含まれています。セツは、幼いころ西洋人の下士官からルーペを贈られた体験を語り、生涯そのルーペを大切にしたとされます。
セツが八雲の怪談を支えた方法:語り部と「ヘルンさん言葉」
日本語が読めない夫のために語った物語
八雲は日本語の書物を読むことができず、セツは日本の民話・伝説・怪談を語って聞かせました。素材は、セツが幼いころ大人たちから聞いた昔話や伝説、本屋を回って集めた資料などです。『怪談』は1904年に刊行されました。
東京の時代には、セツは書物を読み、その内容を八雲に伝えて執筆を助けました。八雲はセツに、本を見ながら読み上げるのではなく、自分の言葉で語る「語り部」であることを求めたとされます。『思い出の記』第一章にある言葉として、記念館は次の一節を紹介しています。
「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません。」
この一節は、八雲がセツの語りを大切にした様子をよく示しています。
夫婦の共通語「ヘルンさん言葉」
セツは熊本で英語を学びましたが、習得には至りませんでした。代わりに、八雲の片言の日本語、いわゆる「ヘルンさん言葉」を正確に理解して意思を通じ合わせました。二人の会話は、英語でも標準的な日本語でもない、夫婦だけの言葉だったのです。
協力者はセツ一人ではなかった
八雲の著作の中には、セツの学歴では理解しにくい原典に基づくものがあるとされます。そのため、フェノロサの妻メアリー、三成重敬、雨森信成といった他の協力者の存在も指摘されています。セツの貢献は大きいものの、八雲の作品がすべてセツ一人の語りだけから生まれたとまでは言えません。
各地での暮らしと夫の最期:松江・熊本・神戸・東京
松江から熊本へ、長男の誕生
二人は松江で結婚しましたが、八雲は1891年11月に熊本の第五高等中学校の英語教師となり、夫婦で熊本へ移りました。1893年には熊本で長男の一雄が生まれています。
神戸、そして帰化と東京へ
1894年、八雲は神戸でジャパンクロニクル社に就職し、同じ年に『知られぬ日本の面影』を刊行しました。同書が好評だったことを受け、八雲は著述に専念するようになり、セツはこの時期以降の主な作品に素材を提供しました。
1896年、八雲は日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗りました。セツの小泉家に入夫する形での結婚でした。同年に東京帝国大学文科大学の英文学講師となり、一家は牛込区市谷へ移ります。八雲は1903年に大学を退職しました。
西大久保での最期
のちに一家は西大久保へ転居します。八雲は1904年9月26日、狭心症のため54歳で亡くなりました。夫妻の子は三男一女で、一雄、稲垣巌、画家の小泉清、長女の寿々子です。
八雲の死後のセツ
八雲は遺言で、遺産のすべてを妻に譲ると明言していました。セツは西大久保の家や書斎を残したまま、敷地に貸家を建てて暮らしました。大正3年(1914年)には、八雲との思い出を語った『思い出の記』が、田部隆次著『小泉八雲』に収められて出版されます。セツは昭和7年(1932年)2月18日に亡くなり、墓所は雑司ヶ谷霊園です。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 小泉八雲記念館(島根県松江市奥谷町):セツの生涯を扱う企画展を開いた施設で、セツの織見本帳やルーペなどが所蔵されています
- 小泉八雲旧居(松江市):1940年に国の史跡に指定されました
- 小泉八雲熊本旧居(熊本市)、焼津小泉八雲記念館(静岡県焼津市)
- 新宿区大久保の旧居跡:「終焉の地」の碑があり、近くに小泉八雲記念公園があります
- 雑司ヶ谷霊園(東京):セツと八雲の墓所とされる霊園です
関連する人物
- 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン):夫。作家・英語教師
- 西田千太郎:八雲の松江での同僚で、二人の橋渡しをした人物
- メアリー・フェノロサ:八雲の著作に協力した一人として指摘される人物
よくある質問
セツは何歳で亡くなりましたか?
昭和7年(1932年)2月18日、動脈硬化により64歳で亡くなりました。墓所は東京の雑司ヶ谷霊園です。
セツは八雲と再婚だったのですか?
セツにとって八雲との結婚は、2度目の結婚でした。最初は18歳のとき、婿養子の前田為二を迎えましたが、為二が1年足らずで出奔し、1890年に離婚しています。
怪談はセツが作ったのですか?
セツは日本語が読めない八雲に物語を語って聞かせ、再話の素材を提供しました。作品として英語で書いたのは八雲です。ほかにも協力者がいたことが指摘されています。
八雲が小泉姓になったのはなぜですか?
1896年に日本国籍を取得した際、セツの小泉家に入夫する形をとり、「小泉八雲」と改名しました。
『思い出の記』とは何ですか?
セツが八雲との思い出を語ってまとめた記録です。大正3年(1914年)、田部隆次著『小泉八雲』に収められて出版されました。




