結論:左目は10代半ばの学校での事故で失明した
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の左目は、イギリス・ダラム近郊のセント・カスバーツ・カレッジ(ユショー)に在学中、16歳前後のときに失明しました。日本語版Wikipediaは、回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たったと記しています。
失明後、左目の色は右目と違って見えるようになりました。八雲はこれを生涯気にし、写真は右側からしか撮らせず、顔を向けるかうつむくかして左目が写らないようにしたとされています。
残った右目も強い近視でした。つまり八雲は、弱い視力を道具と工夫で補いながら、『怪談』などの作品を書いた人です。この記事では、事故の経緯、写真の撮り方、執筆の姿勢、そして「オッドアイだった」という話の扱いを、確かめられる範囲で整理します。
基本情報
- 生没年:1850年6月27日生まれ、1904年(明治37年)9月26日没。享年54
- 生まれ:当時イギリスの保護領だったレフカダ島(現ギリシャ)。父はアイルランド出身のイギリス軍医、母はギリシャ人
- 時代:明治時代(1890年に来日)
- 立場:作家・英語教師・大学講師。1896年に日本に帰化して「小泉八雲」と名乗った
- 左目:英国の神学校在学中の事故で失明(日本語版Wikipediaは1865年、英語版Wikipediaは16歳のときと記す)
- 代表作:『知られぬ日本の面影』(1894年)、『怪談』(1904年)
- 墓所:雑司ヶ谷霊園(東京)
小泉八雲の左目が失明した原因と経緯
事故が起きた場所と時期
八雲は幼いころに両親が離婚し、大叔母の手に育てられました。大叔母から厳格なカトリックの教育を受け、のちにキリスト教を嫌うようになったと日本語版Wikipediaにあります。フランスの神学校を経て、イギリスのダラム大学セント・カスバーツ・カレッジで学んでいたときに、左目の事故が起きました。
時期は資料で表現が分かれます。日本語版Wikipediaは年譜に「1865年」と書き、英語版Wikipediaは「16歳のとき」と書いています。1850年6月生まれですから、年と年齢の書き方がそろわない部分があります。この記事では、10代半ば(16歳前後)とだけ述べ、月日までは特定しません。
回転ブランコとロープの結び目
事故の原因について具体的に書いているのは日本語版Wikipediaです。回転ブランコで遊んでいたとき、ロープの結び目が左目に当たって失明した、という記述です。
一方、英語版Wikipediaは、学生時代に左目を負傷して視力を失ったことは書いていますが、何で負傷したかまでは書いていません。ネットでは遊具の名称や、八雲自身がロープを握っていたのか、そばで見ていたのかといった細部が語られることがありますが、この記事で確認できた資料にはありません。分かるのは「学校の遊具のロープの結び目が左目に当たった」というところまでです。
治療の経過
英語版Wikipediaによると、負傷した目は感染を起こしました。ダブリンとロンドンの専門医にもかかり、約1年間は学校を離れて療養しましたが、その目の視力は戻りませんでした。
学業にも影響が出たかどうかは、別の事情が絡みます。日本語版Wikipediaによると、八雲は1867年、大叔母が破産したためダラム大学を退学しています。事故と退学を直接結びつける記述は見当たらないため、両者は別々の出来事として押さえておくのが安全です。
小泉八雲の左目と写真のアングル:隠し続けた理由
右側からしか撮らせなかった
失明した左目は、色が右目と違って見えるようになりました。日本語版Wikipediaには、その左目に白い膜がかかっているように見えたという趣旨の同時代の描写が引用されています。八雲はこれを気にして、写真を撮らせるときは右側からだけにし、左目が写らないよう顔を向けるか、うつむくかしていました。
英語版Wikipediaも、目の虹彩の変色は消えず、八雲は自意識を持ち続け、話すときに左目をおおい、写真は左目が写らない横向きで撮らせたと書いています。
残った右目も強い近視だった
残った右目は、事故の前から強い近視でした。英語版Wikipediaによれば、細かい作業には拡大鏡を使い、遠くを見るときは携帯用の小さな望遠鏡を使いました。眼鏡は、かけると視力がかえって弱まると考えて避けていたとされます。
日本語版Wikipediaには、作家の松本健一の著作を引いて、八雲が胸のポケットから虫眼鏡のような近眼用のレンズを取り出し、見える側の目に当てて対象を見る様子が紹介されています。
高い机と紙に顔を近づける執筆
日本語版Wikipediaは、八雲が高さ約98cmの机を使い、紙を目に近づけ、ランプを明るくして執筆したと記しています。島根県の公式の紹介ページも、松江市の小泉八雲記念館に「左目を失明した八雲のために特別に高く作られた机」が展示されていると書いています。
強い近視の右目だけで書くために、机の高さそのものを自分に合わせて作らせた、ということになります。
小泉八雲の隻眼と作家人生:確かな事実と、言い切れない話
目の負担と仕事の選択
英語版Wikipediaには、八雲がアメリカのニューオーリンズで新聞の挿絵として木版画を彫っていたものの、約半年で続けるのをやめたとあります。目への負担が大きすぎたためです。シンシナティで新聞記者になった八雲は、文章で身を立てる道を進みました。細かい視覚作業が難しい以上、書くこと、聞くことが仕事の中心になったことは確かです。
日本での歩みとセツ
八雲は1890年に来日し、島根の松江で英語教師になりました。1891年には熊本の第五高等中学校に移り、1894年に神戸のジャパン・クロニクル社に就職、1896年には東京帝国大学の英文学講師となり、日本に帰化して小泉八雲と名乗ります。
妻の小泉セツは松江の士族の娘で、1891年に八雲宅の住み込み女中となり、のちに結婚しました。日本語版Wikipediaによれば、怪談や民話を語る才能があり、八雲の執筆を支えたとされています。回想録『思ひ出の記』も残しました。ただし、このセツの回想録に八雲の目のことが書かれているかどうかは、確かめられた資料からは分かりません。
「オッドアイ」や「視覚が聴覚を研ぎ澄ませた」という話
左右の目の色が違って見えたのは事実ですが、それは事故のあとに起きた変化です。生まれつきの特徴だったとする資料は確認できません。また、日本語版Wikipediaにも「オッドアイ」という言葉は出てきません。
「片目が不自由だったから聴覚が鋭くなり、怪談に向かった」という説明も、よく見かけます。しかし、これは八雲本人や同時代の証言で裏付けられた話ではなく、後の読み手の解釈です。事実として言えるのは、八雲が日本の怪談や民話に強い関心を持ち、セツの語りにのめりこみ、セツが執筆の最大の協力者になったこと、そして視力の弱さに悩み続けたこと、の二つです。この二つの間に因果関係があるかどうかは、資料からは断定できません。
ゆかりの地と関連する人物
小泉八雲記念館・小泉八雲旧居(島根県松江市)
松江には、八雲の遺品や直筆原稿約200点が展示されている小泉八雲記念館があります。島根県の紹介ページによれば、展示の中に、左目を失明した八雲のために高く作られた机が含まれています。
近くの小泉八雲旧居は、旧松江藩の武家屋敷を借りて、セツと過ごした家です。八雲は部屋の中央から三方の庭を眺めることを好み、その様子を『知られぬ日本の面影』に描いたと、同じページにあります。英語版Wikipediaによれば、東京・新宿にある八雲の旧居跡とともに、国の史跡に指定されています。
小泉八雲熊本旧宅(熊本市)
熊本では第五高等中学校に勤めました。熊本時代の家は、「小泉八雲熊本旧宅」として復原され、熊本市の文化財に指定されています(日本語版Wikipedia)。
雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)
八雲は1904年9月26日、東京の自宅で狭心症により亡くなりました。墓所は雑司ヶ谷霊園です。
関連する人物
- 小泉セツ:妻。怪談や民話を語り、八雲の執筆を支えた
- 大叔母:幼い八雲を引き取って育て、カトリックの教育を受けさせた。のちに破産し、八雲はダラム大学を退学した
よくある質問
小泉八雲の左目は何が原因で失明したのですか?
日本語版Wikipediaによれば、学生時代に回転ブランコで遊んでいて、ロープの結び目が左目に当たったことが原因です。英語版Wikipediaは、負傷した目が感染を起こし、専門医にかかっても視力が戻らなかったと記しています。
失明したのは何歳のときですか?
英語版Wikipediaは16歳のとき、日本語版Wikipediaは年譜で1865年としています。資料によって年と年齢の表し方が少し異なります。
なぜ八雲の写真は横顔やうつむいたものが多いのですか?
失明した左目の色が右目と違って見えるのを気にして、写真は右側からしか撮らせず、顔を向けるかうつむくかして左目を隠したためです。
右目の視力はどうだったのですか?
もともと強い近視で、晩年にはさらに衰えたとされます。拡大鏡を使い、高い机で紙を目に近づけ、明るいランプの下で書いていました。
八雲は生まれつきのオッドアイだったのですか?
資料から確かめられるのは、事故の後に左目の色が右目と違って見えるようになったことです。生まれつきだったとする記述は確認できません。





