小泉八雲

結論:小泉八雲の死因は狭心症。54歳で、東京・西大久保の自宅で亡くなった

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治37年(1904年)9月26日、東京の西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)の自宅で亡くなりました。満54歳でした。日本語版Wikipediaは死因を狭心症としています。

最期の様子は、妻セツが書いた『思ひ出の記』に残っています。八雲は「ママさん、先日の病気また参りました」と小さな声で告げ、寝床に横になって、静かに息を引き取りました。

この記事では、最期の経過、晩年の暮らし、墓所や家族のその後を、確かめられた事実の範囲でまとめます。

基本情報

  • 名前:小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。明治29年(1896年)に帰化して改名
  • 生まれ:嘉永3年(1850年)、ギリシャのレフカス島
  • 没年月日:明治37年(1904年)9月26日。満54歳
  • 時代:明治時代
  • 立場:作家、英文学者。東京帝国大学文科大学の英文学講師(1896〜1903年)、のち早稲田大学の講師
  • 死因:狭心症(英語版Wikipediaは「心不全」と記す)
  • 没した場所:東京・西大久保の自宅(新宿区大久保1-1)
  • 墓所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)
  • 代表作:『怪談』(1904年)、『日本―一つの試論』(1904年)

小泉八雲の死因と最期の様子:狭心症の発作から息を引き取るまで

死因は狭心症、資料により書き方が違う

日本語版Wikipediaは、八雲が1904年9月26日に東京の自宅で狭心症により死去したと記しています。一方、英語版Wikipediaは「heart failure(心不全)」と書いています。どちらも心臓の病気で亡くなったという点では一致しています。

当時の診断の詳しい経過を伝える公的なページは見つかりませんでした。そのため、この記事では「狭心症とされる」という範囲にとどめ、発作の起こり方を細かく描くことはしません。

セツの『思ひ出の記』に残る最期の言葉

最期の様子の主な出どころは、妻セツの回想『思ひ出の記』です。この回想は1914年に出版されました。

小泉八雲記念館(松江市)の紹介によると、八雲は小さな声でセツに「ママさん、先日の病気また参りました」と言い、寝床に横になって静かに息を引き取ったということです。夫婦は互いを「パパさん」「ママさん」と呼び合っていました。

長男の一雄は、著書で父の最期の言葉を「ああ、病気のため…」と書き残しています。セツの回想とは言葉が少し違いますが、どちらも自分の体の異変を、取り乱さずに家族へ伝えようとした場面です。

亡くなったとき、子どもたちはまだ幼かった

八雲の死去時、子どもは長男一雄が10歳、次男巌が6歳、三男清が4歳、長女寿々子が1歳でした。

亡くなった日に絶筆の手紙を出していた

日本語版Wikipediaによれば、八雲は亡くなった同じ日に、教え子の藤崎八三郎に宛てた手紙と数冊の本を送りました。その数時間後に亡くなったとされています。この絶筆の手紙は戦災で焼失し、写真の原版が小泉八雲記念館に収蔵されています。

晩年の八雲:左目の失明と東京帝国大学の退職

16歳で左目を失い、強度の近視だった

八雲は16歳のころ、遊びの事故で左目を負傷し、感染症のため左目の視力を失いました。晩年は右目の視力も衰えたと伝えられます。

日本語版Wikipediaには、高さ約98センチの机を使い、紙を目に近づけて書いたとあります。左目を失ってからは、写真は右側からだけ撮らせました。英語版も、写真では横顔で写ってこの目を隠したと書いています。

これらの事実は、八雲が視力のハンディを抱えながら書き続けたことを示します。ただし、目の負担が狭心症の原因になったという医学的な裏づけは、確かめた資料にはありません。

1903年に東京帝国大学を退職、後任は夏目漱石

八雲は1896年に東京帝国大学文科大学の英文学講師となり、1903年に退職しました。後任は夏目漱石です。日本語版Wikipediaには、退職の際に学生による激しい留任運動が起きたという記述もあります。

1904年には早稲田大学の講師を務めました。東京帝国大学の退職が心臓の病気に影響したかどうかは、資料に書かれていません。時期が重なることと、原因になったことは別の話です。

亡くなった1904年は『怪談』が出た年

英語版Wikipediaによると、八雲は1904年に『怪談』(Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things)と『日本―一つの試論』(Japan: An Attempt at Interpretation)を出版しています。代表作が世に出たのは、亡くなる年のことでした。

小泉八雲の墓所と家族のその後:雑司ヶ谷霊園、セツと子どもたち

墓所は雑司ヶ谷霊園、のちに贈従四位

八雲の墓は、東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にあります。八雲は没後の1915年に、贈従四位を受けています。

セツが守った西大久保の家

日本語版Wikipediaの小泉セツの項によると、八雲の没後、セツは西大久保の家を引き継ぎ、敷地の一部を貸しました。日本語版Wikipediaの八雲の項には、西大久保の家や書斎は生前のまま残されたとあります。セツは1932年に64歳で亡くなっています。

三男一女、それぞれの道

子どもは三男一女でした。長男の一雄(1893〜1965)はエッセイストで、父に関する著作を多く残しました。次男の巌(1897年生)は稲垣家を継ぎ、三男の清(1899〜1962)は画家になりました。長女の寿々子(1903〜1944)は、父の死去時に1歳でした。

戒名は「正覚院殿浄華八雲居士」です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 終焉の地(新宿区大久保1丁目付近):文京区の「文京ゆかりの文人」のページは、八雲が明治37年9月26日に西大久保(新宿区大久保1-1)で没したと記しています
  • 市谷富久町:明治29年9月に移り住んだ町です(文京区の年譜による)。同じ年の8月には、本郷赤門前の三好屋、本郷龍岡町の龍岡楼にも住んでいます
  • 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区):八雲の墓所です
  • 小泉八雲記念館(島根県松江市):絶筆の手紙の写真の原版を収蔵しています

関連する人物

  • 小泉セツ:妻。『思ひ出の記』で八雲の最期を伝えました
  • 小泉一雄:長男。父の素顔を著書に残しました
  • 夏目漱石:東京帝国大学で八雲の後任となった人物です
  • 藤崎八三郎:教え子。亡くなった日の絶筆の手紙の宛先です

よくある質問

小泉八雲の死因は何ですか?

日本語版Wikipediaなどでは狭心症とされています。英語版Wikipediaは心不全と記しており、いずれも心臓の病気です。1904年9月26日、54歳で亡くなりました。

小泉八雲はどこで亡くなりましたか?

東京の西大久保にあった自宅です。現在の新宿区大久保1丁目にあたります。

小泉八雲の最期の言葉は何ですか?

妻セツの『思ひ出の記』では「ママさん、先日の病気また参りました」です。長男一雄は「ああ、病気のため…」と書いています。

小泉八雲の墓はどこにありますか?

東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にあります。

小泉八雲が亡くなった年に出た本は?

英語版Wikipediaによると、1904年に『怪談』と『日本―一つの試論』が出版されています。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。