結論:子規は結核のため、1902年に満34歳で亡くなった
正岡子規が亡くなったのは1902年(明治35年)9月19日の午前1時頃で、満34歳でした。病名は結核です。1889年に肺結核と診断され、1896年には結核菌が背骨を冒す脊椎カリエスと診断されました。数度の手術を受けても好転せず、臀部や背中に穴があいて膿が流れ出るようになります。
それでも子規は、麻痺剤で痛みをしのぎながら俳句・短歌・随筆を書き続けました。最期には、糸瓜(へちま)を詠んだ3句が辞世の句として残されています。この記事では、最初の喀血から最期までの経過と、病床で書かれた作品、看病にあたった家族の話を順に見ていきます。
基本情報
- 生年:1867年10月14日(慶応3年)、伊予国松山(現在の愛媛県松山市)
- 没年:1902年9月19日(明治35年)、東京。満34歳
- 時代:明治時代
- 立場:俳人・歌人。俳句・短歌の革新を進め、随筆も多く残した
- 死因:結核(1889年に肺結核、1896年に脊椎カリエスと診断)
- 病床での主な著作:『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』
- 戒名:子規居士。墓所は東京都北区田端の大龍寺
正岡子規の病気と死因:肺結核から脊椎カリエスへの経過
最初の喀血と「子規」の号
最初の喀血は1888年8月、鎌倉への旅行中のことでした。翌1889年4月には水戸まで徒歩で旅をしており、子規は後に、この旅が病気の原因になったと書いています。同年5月に大喀血を起こし、医師から肺結核と診断されました。
「子規」の号を初めて使ったのはこのときです。子規はホトトギスの異称で、「鳴いて血を吐く」といわれる鳥です。喀血した自分をその鳥に重ねた号でした。
日清戦争の従軍と神戸での入院
1895年4月、子規は日清戦争の従軍記者として遼東半島へ渡ります。到着の2日後に下関条約が調印され、子規は帰国の途につきました。その船中で喀血して重態となり、神戸病院に入院します。
7月には須磨保養院で療養し、その後は松山に帰郷して、夏目漱石の下宿で静養しました。
脊椎カリエスの診断と手術
1896年、腰痛の原因が結核菌による脊椎カリエスだと診断されました。脊椎カリエスは、結核菌が脊椎(背骨)を冒す病気です。
手術は数度受けましたが、好転しませんでした。臀部や背中に穴があき、そこから膿が流れ出るようになったことが、年譜に記されています。
寝たきりの日々と最後の大喀血
1899年夏頃からは座ることも難しくなり、約3年間はほぼ寝たきりでした。その状態でも、麻痺剤で苦痛を和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続けています。一部は口述だったとされます。また、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らの指導も続けました。碧梧桐は、手動の扇風機を作ったと伝えられています。
1900年8月には、再び大量に喀血しました。
なお、英語版 Wikipedia は1897年には寝たきりだったとしており、資料によって書き方に差があります。ここでは日本語版の年譜に沿って書きました。
痛みと病床の記録:『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』
新聞に連載された『墨汁一滴』
『墨汁一滴』は、新聞『日本』に1901年1月16日から7月2日まで、164回にわたって連載されました。病床にありながら、子規は長い期間、紙面に文章を送り続けたことになります。
『仰臥漫録』
『仰臥漫録』の最後の日付のある記述は、1902年9月3日です。亡くなる16日前になります。
高浜虚子は『ホトトギス』への掲載を望みましたが、子規は断ったとされます。最初の公刊は1905年(明治38年)1月1日発行の『ホトトギス』の付録で、一部は省かれていました。
1902年6月20日から7月29日までの部分は「麻痺剤服用日記」の形で、モルヒネを服用した時刻だけが記されています。痛みを薬で抑えながら暮らしていた様子が、数字として残っている部分です。
帳面には、長歌1首、短歌42首、300余の俳句が含まれています。
原本が行方不明になった話
『仰臥漫録』の原本には、後年のエピソードがあります。1949年頃に子規庵の土蔵から見えなくなり、2001年に土蔵の掃除の中で見つかりました。2002年には芦屋の虚子記念文学館へ寄贈されています。
『病牀六尺』
『病牀六尺』は、病床で書かれた作品です。少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自分の肉体と精神を客観的に見つめた記録とされます。
子規の最期と絶筆3句:辞世の句に詠まれた糸瓜
亡くなった日と葬儀
1902年9月19日の午前1時頃、子規は息を引き取りました。葬儀は21日に行われ、150名以上が参列しています。生前の希望は「静かな寺に葬ってほしい」というもので、これに沿って東京都北区田端の大龍寺に埋葬されました。戒名は子規居士で、墓所は現在も残っています。
絶筆3句の内容
年譜には、糸瓜を詠んだ3句が辞世の句として挙げられています。そのうちの1句が「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」で、別の1句が「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」です。どちらも自分の苦しみを、突き放すような目で句にしています。
3句すべてに糸瓜が詠み込まれているため、9月19日は「糸瓜忌」と呼ばれます。子規の雅号の一つにちなんで「獺祭忌」ともいいます。
最後まで衰えなかった食欲
子規は大食漢だったとされ、柿が好きで、病床でも食べていました。作家の山田風太郎は、その食事を迫りくる死に抵抗するものと評しています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 大龍寺(東京都北区田端):子規の墓所。遺言の「静かな寺に葬ってほしい」という願いに沿って埋葬された
- 子規庵(東京):『仰臥漫録』の原本が、戦後に土蔵から見えなくなり、のちに見つかった場所。妹・律は、ここで裁縫教室を開いて生計を立てた
- 虚子記念文学館(兵庫県芦屋市):『仰臥漫録』の原本が寄贈された
関連する人物
- 妹・律:1870年生まれ、1941年没。明治25年11月、母の八重とともに東京へ移り、子規と同居して看病にあたった。子規の死後は正岡家の家督を継ぎ、1903年に共立女子職業学校へ入学。卒業後は同校の事務員、のちに和裁の教師となる。1914年には母方の叔父の三男・忠三郎を養子に迎えた。1921年に教職を離れて母の世話をしながら、子規庵で裁縫教室を開き、1928年には子規庵保存会の初代理事長になった
- 母・八重:松山藩の儒者・大原観山の長女
- 夏目漱石:1895年、松山に帰った子規が静養した下宿の主
- 高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤左千夫・長塚節:晩年の子規が指導を続けた門人たち
子規の没後は、律が養子を迎えて正岡家を継がせました。
よくある質問
正岡子規の死因は何ですか?
結核です。1889年に肺結核と診断され、1896年に脊椎カリエスと診断されました。1902年9月19日に満34歳で亡くなりました。
脊椎カリエスとはどんな病気ですか?
結核菌が脊椎(背骨)を冒す病気です。子規の場合は手術を数度受けても好転せず、臀部や背中に穴があいて膿が流れ出るようになりました。
子規の俳号は、病気と関係がありますか?
関係があります。子規はホトトギスの異称で、「鳴いて血を吐く」といわれる鳥です。1889年に大喀血したとき、子規はこの号を初めて使いました。
絶筆3句とは何ですか?
糸瓜を詠んだ3句で、辞世の句とされています。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」はその1句です。9月19日が「糸瓜忌」と呼ばれる由来でもあります。
子規は最期まで文章を書いていましたか?
書いていました。『仰臥漫録』の最後の日付のある記述は、亡くなる16日前の1902年9月3日です。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。






