結論:福沢諭吉は、西洋の知識を日本に紹介し、教育と言論で「独立」を説いた啓蒙思想家
福沢諭吉(福澤諭吉)は、幕末から明治にかけて活躍した人物です。咸臨丸での渡米やヨーロッパ訪問で見聞を広げ、『西洋事情』で西洋社会を紹介しました。1868年(慶応4年)には蘭学塾を「慶應義塾」と名づけ、1872年(明治5年)に『学問のすゝめ』の刊行を始め、1882年(明治15年)には新聞『時事新報』を創刊しています。
中津藩の下級武士の家に生まれ、封建制度に疑問を抱いていた人物でもあります。学問で身を立てる生き方を自分でも実行し、書物と学校と新聞を通じて世に広めたのが、福澤の「何をした人か」への答えです。1984年(昭和59年)から2024年(令和6年)に新紙幣が発行されるまで、一万円札の肖像でもありました。
基本情報
- 生没年:天保5年12月12日(1835年1月10日)生まれ、明治34年(1901年)2月3日没。66歳(数え67)
- 時代:江戸時代末期から明治時代
- 身分・立場:中津藩(現・大分県)の下級武士の家の出身。のちに啓蒙思想家、洋学者、教育者、新聞の創刊者
- 生誕地:大坂堂島新地の中津藩蔵屋敷
- 代表作:『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』
- 主な業績:慶應義塾の創立、『時事新報』の創刊、東京学士会院の初代会長
- 死因:脳溢血(脳出血)の再発
- 墓所:麻布山善福寺(戒名は「大観院独立自尊居士」)
福沢諭吉は何した人?大坂生まれの下級武士が蘭学・英語へ進むまで
大坂の蔵屋敷に生まれ、中津で育つ
福澤は1835年、大坂堂島新地にあった中津藩の蔵屋敷で、福澤百助と於順の次男(末子)として生まれました。翌1836年に父が亡くなり、一家は中津(大分県)に帰ります。5歳ごろから漢学と一刀流を学んだと伝えられています。
中津藩では身分の格差が激しく、父は下級武士のまま名をなせませんでした。福澤は後年、『福翁自伝』で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と述べています。
長崎、そして大坂の適塾へ
1854年、19歳の福澤は蘭学を学ぶために長崎へ出ます。翌1855年には、大坂の緒方洪庵が開いた適塾に入りました。この年、奥平家と不和になって中津へ戻るよう知らせが届きましたが、福澤は帰るつもりがなく、大坂で兄に蘭学を学ぶよう説得されて適塾で学ぶことになりました。
適塾では腸チフスにかかり、洪庵は「病は診てやるが執匙は外の医者に頼む」と述べ、朋友の内藤数馬が処置にあたりました。奥平壱岐から借りて筆写した築城書を翻訳するという名目で、適塾の食客として学んだといいます。また、色の黒い硫酸を作った際には、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったという話も残っています。1857年には22歳で塾頭になりました。
江戸の蘭学塾と、横浜での衝撃
1858年、福澤は中津藩から江戸出府を命じられ、藩邸で蘭学を教えました。この蘭学塾が慶應義塾の基礎となり、この年が創立の年とされています。
翌1859年、横浜を訪れた福澤は、英語が通じず、オランダ語が役に立たないことを知りました。これを機に英学を重視するようになります。
福沢諭吉は何した人?渡米・渡欧から『西洋事情』と慶應義塾へ
咸臨丸で渡米(1860年)
安政7年1月13日(旧暦、1860年)、使節団は品川を出帆し、福澤は咸臨丸でアメリカへ向かいました。同じ船には中浜万次郎(ジョン万次郎)も乗っています。出港直後からひどい嵐に遭いました。日本への帰国は万延元年5月5日(1860年6月23日)です。
アメリカ滞在中、福澤は万次郎とともに『ウェブスター大辞書』の簡約版を買い、日本に持ち帰って学びに使いました。
文久遣欧使節に随行(1861〜62年)
1861年12月23日、福澤は幕府の使節団に加わって品川を出港し、ヨーロッパを回りました。帰国は1862年(文久2年)12月11日です。この旅の見聞は、『西洋事情』と『西航記』にまとめられました。
『西洋事情』の刊行
『西洋事情』の初編(3冊)は1866年(慶応2年)10月に刊行されました。巻之一では、政治、税制、国債、紙幣、学校、新聞、病院、蒸気機関、電信、瓦斯灯など23項目が簡潔に紹介されています。巻之二と巻之三は、アメリカ、オランダ、イギリスの歴史、政治、軍備、財政を扱います。のちに外編と、1870年(明治3年)の二編が加わり、全体は10冊になりました。
刊行前から写本(『稿本西洋事情』)が出回り、刊行時には偽版も出ました。福澤は慶応4年4月10日(新暦5月10日)の『中外新聞』に広告を出し、版権(著作権)の考え方を訴えて争っています。
慶應義塾の命名(1868年)
1868年(慶応4年)、福澤は自分の蘭学塾を「慶應義塾」と命名しました。
福沢諭吉の代表作と活動:『学問のすゝめ』と時事新報
『学問のすゝめ』(1872年〜)
初編は1872年(明治5年)2月に出ました。全17編で、初編のみ小幡篤次郎との共著です。1876年(明治9年)11月の十七編で一応の完成となり、1880年には前書きを加えて合本されました。最終的に300万部以上売れたとされます(福澤自身の見積もりによる数字です)。当時の人口が約3000万人だったことから、国民の約10人に1人が買った計算になります。
冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」は有名ですが、「といへり」は「と言われている」という意味で、この一文で言い切る形ではありません。福澤の独創ではなく、アメリカ独立宣言を翻案したとする説が最も有力とされています。続く部分では、賢い人と愚かな人、豊かな人と貧しい人の差は生まれつきではなく、学問に励むかどうかで生まれると述べています。
内容は、自由・独立・平等の価値観を掲げ、封建的な身分観や儒教的な上下関係を否定して、市民としての自覚を促すものでした。一方で、第6編の赤穂浪士の討ち入りを論じた部分や、第7編の忠義をめぐる「楠公権助論」は批判を受け、福澤は『学問のすすめ之評』で弁明しています。
『文明論之概略』
『文明論之概略』は福澤の代表作の一つです。孔子や孟子を「古来稀有の思想家」としつつ、儒教の「政教一致」の問題点を指摘しています。
『時事新報』の創刊(1882年)
1882年(明治15年)3月、福澤は日刊紙『時事新報』を創刊しました。創刊の趣旨には、個人や家の独立を、国全体に広げることが目的だという考えが示されています。
1879年(明治12年)には、東京学士会院の初代会長にもなりました。この団体は、のちに日本学士院となっています。
独立自尊のことば
福澤の考えを表す言葉として、「独立自尊」が知られています。戒名の「大観院独立自尊居士」にもこの語が入っています。1900年の世紀送迎会では、「独立自尊迎新世紀」の大書が披露されたとされます。
福沢諭吉の最期とゆかりの地
最期
福澤は1898年と1899年にも倒れており、1901年2月3日、脳溢血の再発で亡くなりました。場所は東京府東京市芝区三田二丁目(現・東京都港区三田二丁目)です。
ゆかりの地
- 生誕地の碑:大阪市福島区福島一丁目。中津藩蔵屋敷があった場所に、誕生地の碑が立っています。
- 福澤諭吉旧居:大分県中津市。少年期を過ごした家です。
- 慶應義塾大学三田キャンパス:終焉の地を示す石碑があります。
- 麻布山善福寺:福澤の墓があります。
関連する人物
- 緒方洪庵:適塾を開いた蘭学者。福澤の師にあたります。
- 中浜万次郎(ジョン万次郎):咸臨丸に同乗し、ウェブスターの辞書を福澤と買いました。
- 小幡篤次郎:『学問のすゝめ』初編の共著者です。
- 長与専斎:福澤が適塾の塾頭を譲った人物として、Wikipedia に名前があります。
よくある質問
福沢諭吉は結局、何をした人ですか?
西洋の知識を『西洋事情』で紹介し、慶應義塾を開き、『学問のすゝめ』や『時事新報』で独立の考え方を広めた人物です。
慶應義塾はいつ創立されましたか?
1858年に江戸で開いた蘭学塾が起源とされ、1868年(慶応4年)に「慶應義塾」と命名されました。
『学問のすゝめ』はいつ、どれくらい売れましたか?
初編は1872年(明治5年)2月に出て、1876年の十七編まで続きました。最終的に300万部以上売れたとされています。
福沢諭吉の死因は何ですか?
1901年2月3日、脳溢血(脳出血)の再発で亡くなりました。1898年と1899年にも倒れています。
一万円札の肖像だったのはいつまでですか?
1984年(昭和59年)11月1日発行分から採用され、2024年7月3日発行の新紙幣から渋沢栄一に変わりました。






