小泉節子とは?ハーンの妻の生涯と「思ひ出の記」

結論:小泉節子は、小泉八雲の創作を語りで支え、夫との暮らしを『思ひ出の記』に残した人

小泉節子(セツ)は、松江藩士の娘として1868年に生まれ、1891年ごろにラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)の住み込み女中となり、やがて妻になりました。片言の日本語で暮らす夫のために、民話や伝説を語り聞かせ、書物を読んで内容を伝えたことで、『怪談』などの執筆を支えた最大の協力者と位置づけられています。夫の死から10年後の1914年には、思い出をつづった『思ひ出の記』が出版され、八雲との暮らしを知る重要な資料になっています。

著作で名を残した「作家」というより、作家の仕事場にいて、その言葉の源になった人です。ここでは、生い立ちから結婚、語りの協力、『思ひ出の記』、没後までを順に整理します。

基本情報

  • 生没年:慶応4年2月4日(1868年2月26日)〜昭和7年(1932年)2月18日
  • 時代:幕末生まれ。主な活動は明治時代
  • 出身・身分:出雲国松江、松江藩士・小泉湊の二女。生後7日で親類の稲垣家の養女となる
  • 夫:ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850〜1904年)
  • 子:三男一女(一雄、巌、清、寿々子)
  • 代表的な文章:『思ひ出の記』(1914年、田部隆次『小泉八雲』に収録)
  • 墓所:雑司ヶ谷霊園(東京)

小泉節子の生涯と八雲との結婚

士族の娘として生まれ、11歳で機織りに出る

節子は松江藩士・小泉湊の二女として生まれ、生後7日で親類の稲垣家の養女になりました。幼いころから昔話や伝説に親しんだとされます。ところが明治維新のあと、稲垣家は没落します。11歳のとき、父の機織り会社で働くことになり、上級の学校へ進む道は開かれませんでした。

18歳の結婚と、22歳での離婚

18歳のとき、稲垣家は婿養子として前田為二を迎えます。しかし為二は1年足らずで大阪へ去り、節子は1890年に22歳で正式に離婚して、小泉家に戻りました。小泉家も困窮しており、節子は働き口を求める立場にありました。

1891年、ハーンの家の住み込み女中に

1891年、節子は松江で一人暮らしをしていたハーンの家に、住み込みの女中として入ります。ハーンは松江で英語教師をしていました。ふたりはほどなく惹かれ合い、結婚します。結婚の時期は資料によって揺れがあり、同年7月の滞在先で二人の関係が変わり、8月11日付のハーンの手紙で結婚が報じられているとされる一方、節子自身の話として、1890年12月に嫁いだとする説も紹介されています。結婚時、ハーンは41歳、節子は23歳でした。

ふたりには「怪談話が好き」という共通点もありました。節子が民話や伝説を語り、ハーンがそれに聞き入ったと伝えられます。

怪談の語りと『思ひ出の記』、八雲の死後を掘り下げる

「ヘルンさん言葉」と、語って聞かせる役割

松江のあと、夫妻は熊本、神戸、東京へと移り住みます。節子は英語の習得をあきらめた一方、ハーンの片言の日本語を正確に聞き取りました。夫婦の間で使われたこの言葉は「ヘルンさん言葉」と呼ばれます。ハーンは1896年に日本に帰化し、「小泉八雲」と名乗りました。

節子は書物を読んで内容を八雲に伝え、八雲は本を見ずに話を聞く「語り部」であることを妻に求めたといいます。節子は家族、使用人、近所の人々からも話を聞き取り、何軒もの本屋を回って資料を集めました。

1904年刊行の『怪談』には、「耳なし芳一のはなし」「雪女」「ろくろ首」などが収められています。ただし、収録された個々の話が、節子の語りのどれに当たるのかまでは確認できません。確認できるのは、節子が八雲の執筆活動の最大の協力者だったという点です。研究者の間では、ほかにも協力者がいたことが指摘されています。

東京での暮らしと、八雲の本音

1896年秋、一家は牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居し、1902年春まで住みました。1902年3月19日には西大久保の家へ移り、ここが終の住処になります。八雲は東京を好まず、節子に「3年以上の我慢は難しい」と語ったと伝わります。節子は東京の暮らしを好み、田舎への再移住には反対しました。八雲が気に入りそうな住まいを探し出した経緯は、『思ひ出の記』に記されています。

1904年9月26日、八雲の死と遺された家

1904年9月26日、八雲は東京の自宅で狭心症のため亡くなりました。満54歳でした。死の数時間前に藤崎八三郎宛ての手紙を書き、数冊の本とともに発送しており、これが絶筆になりました。原本は戦災で焼失しましたが、写真の原版が小泉八雲記念館に収蔵されています。

八雲は遺言状に全財産を節子に譲ると書き残していました。生前の浪費もあって、遺産はあまり多くなかったとされます。親友のミッチェル・マクドナルドが資産管理人となって一家を支え、節子は西大久保の家と書斎を生前のままに残しました。のちに貸家を建てて暮らしたとされ、著作の版権や印税も一家の生活を支えました。

1914年、『思ひ出の記』の出版と節子の最期

1914年、節子が八雲との日々をまとめた『思ひ出の記』が、田部隆次の『小泉八雲』に収められて出版されました。八雲の人柄や生活を伝える、数少ない身近な人の記録です。長男の一雄も、のちに随筆家として父の回想を著しました。三男の清は画家になっています。

節子は1932年2月18日に亡くなり、雑司ヶ谷霊園に葬られました。晩年は動脈硬化に苦しんだとされています。八雲の墓所も同じ雑司ヶ谷霊園です。

ゆかりの地と関連する人物

  • 小泉八雲記念館(島根県松江市):遺品や直筆原稿約200点を展示しています。左目を失明した八雲のために特別に高く作られた机などが見どころです。
  • 小泉八雲旧居(松江市):旧松江藩の武家屋敷を借りて、八雲がセツ夫人と過ごした家で、国の史跡に指定されています。八雲は中央の部屋から見える三方の庭の眺めを好み、『知られぬ日本の面影』に描きました。
  • 普門院(松江市):『怪談』に登場する寺で、門前の橋「小豆とぎ橋」で謡曲「杜若」を謡うと怪異が起こるとされます。境内には、八雲が茶の手ほどきを受けたという茶席「観月庵」があります。
  • 小泉八雲記念公園(東京都新宿区大久保):終の住処になった西大久保の旧居跡にあります。市谷富久町にも旧居跡があります。
  • 雑司ヶ谷霊園(東京):八雲と節子の墓所です。

1903年に八雲が東京帝国大学を退職した際、後任になったのは夏目漱石でした。同じ明治の文学者として、島崎藤村「初恋」を味わう背景と解釈や、島崎藤村「夜明け前」のあらすじと歴史背景もあわせて読むと、明治から昭和へ続く文学の流れがつかめます。語りや聞き書きが作品を形づくるという点では、川端康成「伊豆の踊り子」のあらすじ・人物・読みどころとは別の角度の読み比べもできます。

よくある質問

小泉節子は何をした人ですか?

小泉八雲の妻として、民話や伝説を語り、書物を読んで内容を伝えることで、八雲の執筆を支えました。八雲の死後は、夫との暮らしを『思ひ出の記』にまとめています。

小泉節子は何歳で亡くなりましたか?

1868年2月26日生まれで、1932年2月18日に亡くなりました。生没年月日で覚えておくと確実です。

「ヘルンさん言葉」とは何ですか?

ハーンの片言の日本語を節子が正確に理解して交わした、夫婦だけで通じる言葉です。節子は英語を覚える代わりに、この言葉で意思疎通を図りました。

『思ひ出の記』はいつ出版されましたか?

1914年に、田部隆次の『小泉八雲』に収められて出版されました。八雲の死から10年後のことです。

『怪談』の話はすべて節子の語りですか?

そうとは確認できません。節子が最大の協力者だったことは確かですが、収録された個々の話がどの語りに当たるのかまでは分かっていません。ほかにも協力者がいたことが指摘されています。