結論:大隈重信は、円や鉄道の整備に関わった政治家で、早稲田大学の創設者でもある
大隈重信(1838〜1922)は、明治政府の財政の実力者として通貨単位「円」の採用や鉄道敷設、官営富岡製糸場の設立に関わり、のちに立憲改進党を結成して早稲田大学の前身となる東京専門学校を開きました。1898年には日本初の政党内閣とされる内閣を率い、1914年には76歳で再び首相になっています。
一方で、「太陽暦を導入した人」といった話は、今回確かめた資料(改暦を扱うWikipediaの項目)に大隈の名前が出てこないため、大隈の功績として書くことはできません。この記事では、資料で確かめられる功績と、確かめられない話を分けて整理します。
基本情報
- 生没年:天保9年2月16日(1838年3月11日)〜大正11年(1922年)1月10日、83歳
- 出身:肥前国佐賀城下(現在の佐賀市水ヶ江)の佐賀藩士の家
- 時代:幕末〜明治・大正時代
- 立場:政治家。大蔵省の実力者、外務大臣、内閣総理大臣(2回)、東京専門学校(現・早稲田大学)の創設者で初代総長
- 主な業績:円の採用の提案、鉄道・殖産興業への関与、立憲改進党の結成、早稲田大学の創設、日本女子大学の創立への協力
- 没した場所:東京・早稲田の私邸。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された
大隈重信は何した人?インフラと経済の基盤づくり
通貨単位「円」を提案した人物
明治政府は1871年6月27日(明治4年5月10日)に新貨条例を布告し、通貨の基準単位を「両」から「圓(円)」に改めました。旧1両が新1円にあたり、補助単位の「銭」「厘」と合わせて十進法を採っています。
大隈は1869年に、円の単位、十進法、円形の貨幣を提案しました。その後、会計官副知事や大蔵大輔となり、新貨条例の制定にも携わっています。ただし、金本位制の採用は、当時アメリカにいた伊藤博文が1871年2月に大蔵卿へ送った建言を受けたものです。大隈は金銀複本位制を考えていたとされ、「円」の単位は大隈の提案、金本位制は伊藤の建言、と役割が分かれています。
鉄道の敷設と開業
1869年12月12日(明治2年11月10日)、鉄道の敷設が廟議で正式に決まりました。大隈は伊藤博文とともに、この計画に関わりました。日本の鉄道史を扱うWikipediaの項目によると、新政府は新橋と横浜を結ぶ路線を自国の管理で建設する方針をとり、技術と資金の面でイギリスの援助を受けています。1870年にはイギリス人技師のエドモンド・モレルが建築師長として着任し、本格的な工事が始まりました。
品川と横浜の間で仮営業が始まったのは1872年6月12日、新橋と横浜の間で正式に開業したのは同年10月14日です。なお、日本側で「鉄道の父」と呼ばれるのは井上勝で、この項目に大隈の名前は出てきません。大隈の役割は、現場の指揮ではなく、政府内で計画を押し進める側にあったと考えるのが資料に沿った見方です。
富岡製糸場と殖産興業
大隈は大蔵省で殖産興業を推進し、官営の富岡製糸場の設立にも関わりました。円の採用、鉄道、製糸場はいずれも、1870年前後の新政府が進めた近代化の事業にあたります。
「太陽暦を導入した」という話は確かめられない
1872年(明治5年)12月2日までの日本は太陰太陽暦を使い、翌1873年1月1日からグレゴリオ暦に切り替えて、この日を明治6年1月1日としました。改暦の布告は明治5年11月9日に出され、詔では、太陰暦だと2〜3年ごとに閏月を入れる必要があるのに対し、太陽暦は4年ごとに1日加えるだけでよいことが理由に挙げられています。
改暦を扱うWikipediaの項目で、布告に関わる人物として名前が出てくるのは明治天皇と三条実美です。大隈の名前は出てきません。大隈の伝記の項目にも、太陽暦への関与は見つかりませんでした。したがって「大隈が太陽暦を導入した」とは書けず、関与があったかどうかは、この記事では確かめられない、という扱いになります。
大隈重信は何した人?政党政治と不屈の政治家人生
明治十四年の政変で政府を去る
1881年(明治14年)3月、大隈は2年後の国会開設と政党内閣を求める急進的な意見書を出しました。7月には、北海道開拓使の官有物払い下げが新聞で報じられ、大隈が情報を漏らしたのではないかという観測が広がって、大隈は孤立します。10月11日に罷免が決まり、翌12日に辞任が公表されました。
立憲改進党の結成と東京専門学校の開設
下野した大隈は、1882年4月に立憲改進党を結成して党首になりました。同じ年の10月21日には、東京専門学校を早稲田に開設しています。これが現在の早稲田大学の前身で、大隈は創設者として初代総長を務めました。政党の結成と学校の開設が同じ年に重なっている点は、政府の外に出た大隈が、政治と教育の両方で足場を築いたことを示しています。
爆弾襲撃で右脚を失う
大隈は1888年2月に外務大臣に就任し、条約改正の交渉を進めました。ところが、外国人判事を任用する案が憲法に違反するという批判が起き、交渉は行き詰まります。1889年10月18日、大隈は来島恒喜による爆弾襲撃を受け、命は助かったものの、右脚を大腿の下3分の1のところで切断しました。同年12月14日付で辞表を出し、24日に裁可されて、枢密顧問官に任ぜられました。
早稲田大学の構内にある大隈の立像は、朝倉文夫が制作して1932年10月17日に建てられた高さ289cmの像で、右足を失った後の姿として杖をついているのが特徴です。
日本初の政党内閣と、2度目の組閣
1898年6月30日、大隈は内閣総理大臣兼外務大臣として内閣を発足させました。板垣退助の自由党と合同した憲政党を基盤とする、日本初の政党内閣とされます。この内閣は同年11月8日に総辞職しました。
1914年4月16日には76歳で再び組閣し、内閣は1916年10月9日まで続きました。退任時の78歳6か月は、歴代首相のなかで最高齢の記録です。また、佐賀出身で首相になったのは大隈が初めてで、現在も他に例がないとされます。
教育への支援と「人生125歳説」
「学問の独立」を掲げた早稲田大学
東京専門学校は、1882年の開設後に発展し、のちに早稲田大学となりました。大隈は創設者であり、初代総長でもあります。政府の外に立つ大隈が、政党と並んで学校をつくったことは、その後の早稲田の特色を考えるうえでも欠かせません。
日本女子大学の創立に協力
大隈は、成瀬仁蔵とともに日本女子大学の創設にも関わりました。1896年5月に成瀬の訪問を受けて協力を求められ、大学の創立委員会では委員長を務めています。1901年に大学が設立された後は、終身評議員になりました。
南極探検の後援
大隈は、日本南極探検隊の後援会長に就任しています。また、1912年6月公開の記録映画『日本南極探検』には、帽子を取ってカメラに挨拶する大隈の姿が記録されています。政治家の枠にとどまらず、新しい試みを後押しする人物だったことが分かる事例です。
「人生125歳説」と時計台の高さ
大隈は、人間は25年を5回、つまり125年生きられるという「人生125歳説」を唱えました。早稲田大学の大隈講堂の時計台は、この説にちなんで125尺(約37.9m)の高さになっているとされます。この説を医学的に裏づける資料は確かめられていませんが、大隈自身は83歳で世を去りました。
同時代人が語る大隈の人柄
渋沢栄一は、実際に会った大隈は想像と違い、書生らしく親しみやすく堅苦しさがなかったと語っています。話し方については、途中から横道に話を引き込み、自分の話を聞かせようとするクセがあったと語っています。一方で、池辺三山は大隈の弁舌の面白さと記憶のよさに感心しており、伊藤痴遊は弁舌を一番の長所として、快活で豪放だったと評しています。
ゆかりの地と関連する人物
墓所と葬儀
大隈は1922年(大正11年)1月10日午前4時38分、早稲田の私邸で亡くなりました。83歳でした。1月17日には日比谷公園で「国民葬」が行われ、約30万人が参列したとされます。埋葬されたのは文京区の護国寺にある大隈家墓所で、佐賀市の龍泰寺にも墓所があります。
像と記念施設
- 早稲田大学の立像:1932年10月17日、朝倉文夫の制作。右足を失った後の姿で杖をつく
- 大隈講堂内の大礼服像:1907年、小倉惣次郎の制作
- 国会議事堂の像:1938年2月、朝倉文夫の作。板垣退助、伊藤博文の像とともに中央広間に飾られている
- 佐賀市の大隈記念館の像:1988年4月に建てられた、小倉惣次郎作の複製
関係の深い人物
- 伊藤博文:鉄道の計画で大隈とともに関わり、金本位制の採用を建言した
- 板垣退助:自由党の党首で、第1次大隈内閣の基盤となった憲政党の一方の中心
- 成瀬仁蔵:日本女子大学の創立者で、大隈に協力を求めた
- 来島恒喜:1889年に大隈へ爆弾を投げた人物
よくある質問
大隈重信は一言でいうと何をした人ですか?
円の採用を提案し、鉄道や殖産興業を進め、政府を去った後は立憲改進党と早稲田大学の前身を立ち上げました。首相を2度務め、1898年の内閣は日本初の政党内閣とされます。
大隈重信が太陽暦を導入したというのは本当ですか?
改暦の経緯を扱う資料で、布告に関わった人物として名前が挙がるのは明治天皇と三条実美で、大隈の名前は確かめられませんでした。大隈の功績として断定するのは避けたほうがよい話です。
大隈重信の死因は何ですか?
1922年1月10日に83歳で亡くなり、死因は腹部の癌と萎縮腎と発表されました。1月17日に日比谷公園で国民葬が行われています。
なぜ大隈は右脚がなかったのですか?
1889年10月18日、外務大臣として条約改正に取り組んでいた際に爆弾の襲撃を受け、右脚を大腿の下3分の1のところで切断したためです。
「人生125歳説」とは何ですか?
人間は25年を5回生きられるとする大隈の説です。大隈講堂の時計台の高さが125尺(約37.9m)なのは、この説にちなむとされます。






