結論:「学問のすすめ」は、身分ではなく学問が人の差をつくると説いた明治初期のベストセラー
『学問のすゝめ』は、1872年(明治5年)2月に初編が出版され、1876年(明治9年)11月の十七編で一応の完成をみた福沢諭吉の代表作です。初編だけは小幡篤次郎との共著でした。
有名な冒頭の一節は「人間は生まれながらに平等」と読まれがちですが、本文はその先で、賢い人と愚かな人、貧しい人と富める人の差は学ぶか学ばないかで生まれると続けます。生まれによる身分差は否定し、学問による差ははっきり認める。ここが、この本の核心です。
300万部以上売れたとされる、近代の啓発書として最も著名な一冊です。この記事では、書かれた時代、各編の内容、論争になった編、現代に読み継がれる理由を、順に見ていきます。
基本情報
- 人物:福沢諭吉(福澤諭吉)。1835年(天保5年)12月12日(西暦では1835年1月10日)、大坂堂島新地の中津藩蔵屋敷で生まれる。1901年(明治34年)2月3日、東京・三田で死去
- 時代:江戸時代後期から明治時代
- 立場:中津藩士の家の出身。適塾(緒方洪庵の蘭学塾)で学び、慶應義塾を興した啓蒙思想家
- 代表作:『学問のすゝめ』(1872年初編刊行)のほか、『西洋事情』『文明論之概略』など
- 『学問のすゝめ』の刊行期間:1872年(明治5年)2月〜1876年(明治9年)11月。全十七編
- 合本:1880年(明治13年)、前書き「合本學問之勸序」を加えて一冊にまとめられた
学問のすすめが書かれた背景と全十七編の流れ
1872年に初編、慶應義塾との関わり
福沢の学塾は、1858年(安政5年)に江戸の中津藩邸で開いた蘭学塾が起源とされ、1868年(慶應4年)に「慶應義塾」と命名されました。『学問のすゝめ』の初編が出たのは、その4年後の1872年です。
五編は、慶應義塾の新年会での挨拶を文章にしたものです。著者が塾の仲間に向けて語った言葉が、そのまま一般の読者にも届けられたことになります。
数年がかりで少しずつ出た本
この本は、一冊をまとめて書き下ろしたものではありません。初編のあと、二編は1873年11月、三編は同年12月、四編と五編は1874年1月、六編は2月、七編は3月、八編は4月、九編は5月、十編は6月、十一編は7月と、1874年には毎月のように新しい編が出ました。その後は十四編が1875年3月、十五編が1876年7月、十六編が同年8月、十七編が同年11月です。
書き継がれる間に、話題は「独立と平等」という大きな理念から、学者の責任、政府と国民の関係、物事の疑い方、人望の得方といった具体的な問題へ広がっていきました。
各編が扱った主なテーマ
- 初編:自由・独立・平等という新しい価値観を示し、身分は生まれではなく学問と個人の見識で決まると説く
- 二編・三編:権利と平等の意味を説明し、国どうしの権利の平等や、国民が義務を負う自由な市民であることを論じる。三編の主題は「一身独立して一国独立す」という言葉で知られる
- 四編:学術・産業・法律の発展を独立の条件とし、民間を導く責任は知識人にあると述べて、福沢自身が在野で先導する決意を示す
- 六編・七編:政府を市民のための政府として論じ、武力による抵抗ではなく非暴力を唱える
- 八編:儒教的な主従・男女・親子の上下関係を不合理な旧思想として退け、男女同権を論じる
- 九編・十編:学問には、生活を自立させる個人的な目的と、社会の進歩に貢献する社会的な目的があると説く
- 十二編:弁論の重要性を説く
- 十五編:物事を疑い、慎重に取捨選択することを勧め、西洋文明さえ盲信しないよう戒める
- 十六編:物理的な独立と精神的な独立という二つの独立を論じる
- 十七編:人望の重要性を説き、評価を得るための実践的な助言を述べる
学問のすすめが説く思想:冒頭の一節と「実学」
「天は人の上に人を造らず」の本当の意味
冒頭は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」です。「云ヘリ」は「言われている」という意味で、福沢が自分の主張として断言した文ではなく、この一文だけで完結してもいません。また、福沢の独創ではなく、アメリカ独立宣言からの翻案とする説が最有力とされています。
続く部分で福沢は、世の中には賢い人と愚かな人、貧しい人と富める人がいるのはなぜかと問い、その差は学ぶか学ばないかで生じると答えます。つまり、人は生まれの上では平等だが、実際の暮らしの差は学問で決まるという論の運びです。「学問のすすめ」という題名は、この答えにそのままつながっています。
古い学問より「実学」を勧めた
福沢は、古文や漢文の価値そのものを否定したわけではありません。ただ、それ自体を重視しすぎることは批判し、読み書き・計算・基本的な道徳といった、暮らしに役立つ「実学」を勧めました。
当時としては先進的な主張も多く、攘夷(外国勢力を排除する考え)を否定し、政治は国民の質に左右されると論じています。
平易な文体と比喩
文体は平易で、難しい政治思想を説明するのに比喩を多く使っています。数章を除いて、小学校の教科書として、また高等教育を受けていない一般の国民が読むことを想定して書かれました。広く読まれた理由の一つは、この読みやすさにあります。
一身の独立が一国の独立につながる
三編の主題として知られる「一身独立して一国独立す」は、個人が権威に頼らず自立することが、国の独立の土台になるという考え方です。国民が権威から独立した自由な市民として義務を負うことも、あわせて説かれました。
福沢の晩年にも、同じ精神は形を変えて現れます。1900年(明治33年)の世紀送迎会で披露された「独立自尊迎新世紀」が知られ、戒名も「大観院独立自尊居士」です。1882年(明治15年)3月に創刊された『時事新報』の創刊趣旨も、「一身一家の独立」から「一国の独立」へという精神を掲げました。
学問のすすめをめぐる論争と、現代への影響力
赤穂浪士と楠公権助論:批判を呼んだ二つの編
広く読まれた分、批判も受けました。批判が集まったのは主に六編と七編です。
六編は、赤穂浪士の討ち入りを、法治を破る私的制裁として取り上げました。一方で、国家の独立のためには命を惜しまないという「報国」の論調もあり、全体として軍国主義的だと見られたと解説されています。
七編は、忠臣の死と、主人の金を落として首をくくった権助の死を同じ性質のものとして論じたため、「楠公権助論争」の発端になりました。これが楠木正成の討死を無益とする論だと受け取られて批判されましたが、福沢は楠木正成には言及していません。
福沢は「慶應義塾 五九樓仙萬」の筆名で『学問のすすめ之評』という弁明文を発表し、複数の新聞に掲載されました。その後、世間の攻撃の声は収まったとされています。
300万部、10人に1人という規模
発行部数は300万部以上とされています。当時の人口が約3000万人だったことから、国民の約10人に1人が買った計算になる、という説明も添えられています。近代の啓発書として最も著名で、最も売れた書籍ともされます。
明治初期の日本人に、封建社会や儒教的な価値観からの意識の転換を促したと評価され、後世まで読み継がれるロングセラーになりました。題名を借りた作品や商品も生まれており、「学問のすすめ」という言葉自体が広く知られています。
国家体制との食い違い
福沢の国民主権的な構想は、明治政府が天皇主権の国家体制を形づくる中で、食い違いを生んでいきました。1889年の大日本帝国憲法の発布を経て天皇制国家が確立していきます。福沢は政府の方針が明確になった1882年前後から、『時事新報』で政府を批判しました。
現代の読者にとっての読みどころ
現代の読者にとって見逃せないのは、十五編の「疑うこと」です。福沢は、物事を疑って慎重に選ぶことの重要性を説き、尊敬の対象であるはずの西洋文明でさえ盲信しないよう戒めています。情報があふれる今の時代に通じる部分です。
また、九編が学問の目的を「生活の独立」と「社会の進歩への貢献」の二つに分けている点も、学ぶ理由を考える手がかりになります。十七編の人望の話は、外見や愛想、交友の広げ方まで具体的に助言しており、現代の仕事術の本のような一面があります。
なお、現代の感覚で読むと、八編が男女同権を論じていることは目を引きます。儒教的な上下関係を旧思想として退けた内容は、当時としては先進的なものでした。
ゆかりの地と関連する人物
福沢諭吉ゆかりの地
- 大阪・福島区福島一丁目付近:生誕地。大坂堂島新地の中津藩蔵屋敷があった場所とされる
- 大分県中津市:福沢が育った郷里。福澤諭吉旧居がある
- 大阪の適塾:緒方洪庵の蘭学塾で、福沢が学んだ
- 東京・三田(慶應義塾大学三田キャンパス):慶應義塾の所在地で、福沢の終焉の地
- 東京都港区の麻布山善福寺:墓所。1977年(昭和52年)に、最初の埋葬地だった品川区の常光寺から改葬された
関連する人物
- 小幡篤次郎:『学問のすゝめ』初編の共著者
- 緒方洪庵:福沢が学んだ適塾を開いた蘭学者
- サミュエル・スマイルズ:自助論で知られるイギリスの著述家。『学問のすゝめ』の関連項目に挙げられている
福沢は1984年(昭和59年)11月1日発行の一万円札から肖像に採用され、2024年(令和6年)7月3日発行の新紙幣で渋沢栄一に替わるまで使われました。
よくある質問
「学問のすすめ」はいつ書かれ、全部で何編ですか?
初編が1872年(明治5年)2月に出て、1876年(明治9年)11月の十七編で一応の完成をみました。全十七編で、初編は小幡篤次郎との共著です。
「天は人の上に人を造らず」は福沢諭吉のオリジナルですか?
福沢の独創ではなく、アメリカ独立宣言からの翻案とするのが最有力説です。文末も「といへり(言われている)」で、広く言われていることを引く形になっています。
冒頭の一節は「みな平等だから学ばなくていい」という意味ですか?
逆です。続く部分で、賢い人と愚かな人、貧しい人と富める人の差は学ぶか学ばないかで生じると述べており、生まれによる身分差は否定し、学問による差を強調しています。
どのくらい売れたのですか?
300万部以上売れたとされています。当時の人口約3000万人からすると、国民の約10人に1人が買った計算です。
批判された部分はありますか?
六編の赤穂浪士の討ち入りを私的制裁とした議論と、七編の「楠公権助論」が批判されました。福沢は筆名で『学問のすすめ之評』を発表して弁明し、その後、攻撃の声は収まったとされています。






