結論:子規は「野球」の名づけ親ではないが、野球を言葉で広げた先駆者だった
ベースボールを「野球(やきゅう)」と訳したのは、第一高等中学校の中馬庚(ちゅうまん かのえ)で、1894年(明治27年)のことです。正岡子規はその4年前の1890年(明治23年)に、幼名「升(のぼる)」にかけて自分の雅号を「野球(のぼーる)」と書いていました。同じ漢字でも、子規のものは訳語ではなく名前です。
ただし子規が野球に深く関わったことは確かです。捕手として競技に打ち込み、1896年には新聞『日本』の随筆で「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの訳語案を示しました。2002年には野球殿堂の「新世紀特別表彰」で殿堂入りしています。
基本情報
- 生没年:1867年10月14日(慶応3年9月17日)〜1902年9月19日(明治35年)、満34歳
- 時代:江戸時代末期〜明治時代
- 立場:俳人・歌人。新聞『日本』などで活動した
- 野球とのかかわり:捕手として競技に熱中/雅号「野球(のぼーる)」/野球用語の訳語案/野球を題材にした句・短歌・小説
- 野球殿堂:2002年(平成14年)、新世紀特別表彰
- 病気:肺結核、のち脊椎カリエス
正岡子規と野球の関係:捕手の経歴と雅号「のぼーる」の真相
野球に熱中した捕手・子規
子規は、日本に野球が伝わった初期の熱心な選手で、守る位置は捕手でした。1884年(明治17年)9月に東京大学予備門(のちの第一高等中学校)へ入学しており、野球に親しんだのはこの学生時代です。
競技をやめた時期は、資料の書きぶりが少し分かれます。正岡子規の項目は、1889年(明治22年)に喀血して競技をやめるまで続けた、としています。一方、東京の上野恩賜公園にある「正岡子規記念球場」の項目は、子規の随筆『筆まかせ』に、1890年3月21日に上野公園の博物館横の空き地で試合をして捕手を務めた記述がある、と紹介しています。細かい時期は資料により差があるため、「1889〜1890年ごろまで」と幅を持たせて受け取るのが安全です。
1890年の雅号「野球(のぼーる)」
子規は幼名を升(のぼる)といい、1890年(明治23年)に「野球」と書いて「のぼーる」と読ませる雅号を使いました。「野球」という表記を最初に使った人物とされています。名前の「のぼる」と「ボール」の音を重ねた、言葉遊びの雅号です。
この「野球」は、ベースボールの翻訳として考え出された言葉ではありません。読み方も「やきゅう」ではなく「のぼーる」でした。ここが、子規が名づけ親だという話が生まれやすい点です。
野球狂ぶりを示す逸話
河東碧梧桐は、子規が他のスポーツには関心を示さないのに、ベースボールにだけ熱中したことを「変態現象」と呼んだと伝えられています。子規にとって野球は、数あるスポーツのうちの一つではなく、特別な存在だったことが分かります。
1890年5月17日には、一高ベースボール会と明治学院白金倶楽部の試合で、後に「インブリー事件」と呼ばれる騒動が起き、一高が0対6で負けている6回に試合が中止されました。子規は観客としてこの試合を見ており、『筆まかせ』で一高側の負けぶりを「見苦しき至り」と厳しく批判しています。選手として打ち込んだ人が、観客席から自分の母校のふるまいを評した記録です。
野球の名づけ親は誰か?「子規=訳者」説を史料で検証
「野球」と訳したのは中馬庚
中馬庚は1893年(明治26年)、第一高等中学校の「ベースボール部史」の執筆を頼まれたときに、訳語の問題に直面しました。当時は「底球」などの訳があり、テニスの訳語である「庭球」と紛らわしかったのです。
そこで1894年(明治27年)秋に、「Ball in the field」をもとに「野球」を考案しました。テニスは庭で行うから「庭球」、ベースボールは野原で行うから「野球」という考え方です。この言葉は、同年10月刊行の『第一高等学校野球部史』で初めて世に出ました。中馬は一高時代、二塁手として活躍した人物で、1970年(昭和45年)には特別表彰で野球殿堂入りしています。
子規は何を訳したのか
子規が訳語案を示したのは、1896年(明治29年)7月27日付の新聞『日本』の随筆です。その中で子規は、野球用語の訳語案を挙げました。
- バッター → 打者
- ランナー → 走者
- フォアボール → 四球
- ストレート → 直球
- フライボール → 飛球
- ショートストップ → 短遮
この随筆で、ベースボールそのものの訳語は示されていません。つまり子規が訳したのは競技名ではなく、競技の中で使う言葉でした。
結局どう整理すればよいか
整理すると、競技名の「野球」は中馬庚、「のぼーる」という雅号は子規、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの訳語案も子規です。「子規が野球と名づけた」は誤りで、「子規が野球の言葉を日本語に整えた」は、随筆という史料に裏づけがある言い方です。
野球を詠んだ俳句・短歌・小説と、病床の晩年
野球を題材にした作品
子規は野球を詩歌にも取り入れました。句には「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」があります。後者は、守備につく九人がそれぞれの位置を占め、試合が始まる直前の張りつめた場面を詠んだものです。
短歌では、1899年に1890年の写真を見ながら、球と球を打つ木を手にして、シャツを着た自分を見ると当時が思い出される、という内容の歌を詠んでいます。写真は、1890年3月末に撮影されたユニフォーム姿のもので、競技をやめる直前とされています。
小説では、新海非風との連作『山吹の一枝』が、日本初の野球小説と目されています。
病との闘い
子規の病は、野球から離れた時期と重なっています。1888年8月に鎌倉旅行中に最初の喀血をしたとされ、1889年5月の大喀血で医師から肺結核と診断されました。「子規(ホトトギス)」の号を使い始めたのも、このころです。1895年には日清戦争の従軍記者として渡航し、帰国途上の船中で大喀血して神戸で入院しました。1896年には結核菌が脊椎を冒し、脊椎カリエスと診断されています。
訳語の随筆を書いた1896年は、この診断を受けた年でもありました。体を動かせなくなってからも、野球を言葉で書き残す活動は続いたことになります。1902年9月19日、午前1時ごろに満34歳で亡くなりました。
野球殿堂入りの経緯と、子規が評価された理由
2002年の新世紀特別表彰
子規は2002年(平成14年)に野球殿堂入りしました。区分は「新世紀特別表彰」で、20世紀の日本野球界の基礎作りに大きく貢献した、野球に縁のある著名人を対象に2002年度と2003年度に行われたものです。同じ2002年には、フランク・オドールも同じ区分で選ばれています。
プロ選手としての成績がない子規が殿堂入りしたのは、野球が日本に根づく初期に、競技の言葉と文学を通じて野球を伝えた人物と見られているためです。ここでの評価は、勝敗や記録ではなく、言葉による貢献に置かれています。
「野球の名づけ親」説と殿堂の関係
子規の殿堂入りが、「名づけ親」説を広めた面もあるかもしれません。しかし中馬庚は1970年に別に殿堂入りしており、二人は別々の功績で顕彰されています。肩書きを一つにまとめず、「競技名=中馬」「用語の訳語案と文学=子規」と分けて覚えておくと混同しません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 正岡子規記念球場(東京都台東区・上野恩賜公園):子規が1886年から1890年ごろに上野公園内で野球を楽しんだことにちなみ、上野恩賜公園開園130周年を記念して、2006年7月に愛称が披露されました。両翼65m、中堅73mと狭く、草野球などに使われる東京都の施設で、利用には予約が必要です。
- 松山市立子規記念博物館(愛媛県松山市道後公園):1981年4月2日に開館した、子規の故郷の博物館です。
- 道後温泉街の入口:野球姿の子規の像があります。愛媛県には、子規の野球好きにちなんだ野球資料館「の・ボールミュージアム」もあります。
- 子規庵(東京都台東区根岸):晩年の住まいです。
- 墓所:東京都北区田端の大龍寺です。
関連する人物
- 中馬庚:ベースボールを「野球」と訳した人物。一高の二塁手でもありました。
- 河東碧梧桐:子規の野球熱を「変態現象」と呼んだ人物です。
- 新海非風:子規との連作『山吹の一枝』で、日本初の野球小説に取り組みました。
- 夏目漱石:1889年に子規と出会った同窓生で、交友は子規が亡くなる1902年まで続きました。
よくある質問
正岡子規は「野球」の名づけ親ですか?
いいえ。競技名の「野球」を考案したのは中馬庚で、1894年のことです。子規は1890年に、幼名の升にかけて「野球(のぼーる)」を雅号にしていました。
子規が訳したとされる野球用語は何ですか?
1896年7月27日付の新聞『日本』の随筆で、打者、走者、四球、直球、飛球、短遮などを示しました。ベースボールそのものの訳語は示していません。
子規は野球でどのポジションを守りましたか?
捕手です。東京大学予備門に入学した後、野球に熱中しました。
子規はいつ野球殿堂入りしましたか?
2002年(平成14年)で、区分は新世紀特別表彰です。同じ年にフランク・オドールも選ばれています。
子規は野球をどのくらい続けましたか?
1889年の喀血で競技をやめたとする記述と、1890年3月の試合で捕手を務めたとする記述があり、資料により差があります。1890年3月末に撮影されたユニフォーム姿の写真は、引退直前とされています。




