大隈重信 日本史トリビア

結論:大隈重信は政変で下野した翌年、早稲田に学校を開いた

大隈重信は1881年(明治14年)の政変で政府を退いた翌1882年10月21日、小野梓や高田早苗らとともに「東京専門学校」を早稲田に開いた。これが現在の早稲田大学の前身である。建学の理念には「学問の独立」と「学問の活用」が掲げられた。

学校は政府から改進党系とみなされ、圧迫を受けた。それでも1902年に「早稲田大学」と改称し、1920年2月5日には大学令による大学として認可された。大隈講堂、銅像、校歌「都の西北」などは、いまもキャンパスで創設者の足跡を伝えている。

基本情報

  • 生没年:1838年3月11日(天保9年2月16日)〜1922年1月10日(83歳)
  • 出身:肥前国佐賀城下(現在の佐賀市)。佐賀藩士で、藩校は弘道館
  • 時代:幕末から明治・大正
  • 立場:政治家。立憲改進党の党首、東京専門学校の創設者で初代総長。内閣総理大臣を2度務めた(第1次:1898年6月30日〜11月8日、第2次:1914年4月16日〜1916年10月9日)
  • 主な教育上の業績:東京専門学校の創設(1882年)、早稲田大学への改称(1902年)
  • 墓所:東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所。佐賀市の龍泰寺にも墓所がある

大隈重信による早稲田大学創設の経緯と苦難

明治十四年の政変と野に下る決意

自由民権運動が高まるなか、参議だった大隈は急進的な国会開設論の意見書を提出した。同じ1881年の7月には北海道開拓使の官有物払い下げ問題が報じられ、大隈への疑念が広がる。10月11日に大隈の罷免が決まり、大隈系の官僚たちも辞職した。これが明治十四年の政変である。

翌1882年4月、大隈は立憲改進党を結成して党首となった。その半年後に開かれたのが東京専門学校である。政治の場を追われた人物が、学校づくりにも乗り出したことになる。

東京専門学校の設立と独自の教育方針

開校は1882年10月21日。開校時には政治経済学科、法律学科、理学科、英学科が置かれ、入学者は78名だった。年末までに学生数は152名に増えている。講師には、のちに文学科の設立にも関わる坪内逍遥が、翌1883年から加わった。

開校式では、小野梓が「学問の独立」の精神を宣言したと伝えられる。大隈自身は初代総長を務め、学内では「大隈老侯」とも呼ばれた。

「建学の母」小野梓と大隈の関係

小野梓は1852年、土佐国宿毛(現在の高知県宿毛市)に生まれた。1872年に米国へ、1873年から翌年にかけて英国へ留学した人物で、大隈の親友として立憲改進党の結成にも加わっている。東京専門学校の創立の中心人物とされ、「早稲田大学建学の母」と呼ばれる。

その小野は、開校から3年あまり後の1886年1月11日、肺結核のため自宅で亡くなった。33歳だった。創設者の大隈と、創立の中心人物とされる小野。この二人の関係が学校の出発点にあった。

政府からの圧力と講義録

政府は、大隈が設立に関わったことから、東京専門学校を改進党系の学校とみなした。判事・検事や東京大学の教授が私立の学校へ出講することを禁じるなど、圧迫を加えたと記録されている。「大隈の私学校」として警戒されたという。

1886年には、私立法律学校特別監督条規により、帝国大学総長の監督下に置かれた5校のひとつになった。こうしたなか同年5月に各学科の講義録を発行し、校外生の募集を始めている。翌1887年9月には講義録の発行元として出版局を置いた。これが現在の早稲田大学出版部の前身にあたる。通学できない人にも学びを届ける仕組みであり、学校の運営を支える柱にもなったと考えられる(この点は私の推測)。

改称と大学令による昇格

1902年(明治35年)9月2日、「早稲田大学」への改称が認可され、10月19日に開校式が行われた。1904年4月には専門学校令に準拠する教育機関となる。

そして1920年(大正9年)2月5日、大学令に基づく大学として認可された。日本で最初の私立大学の一つである。

大隈重信が掲げた早稲田大学の教旨と精神

「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」

早稲田大学の基本理念は「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」である。これらをまとめた「早稲田大学教旨」は、1913年(大正2年)の創立30周年記念祝典で大隈が宣言した。

注意したいのは、教旨の文章を大隈ひとりが書いたわけではない点だ。草案は高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国らが作成し、大隈が校閲した。創立時に掲げられた「学問の独立」「学問の活用」が、30年を経て三本柱の形に整えられたといえる。

「学問の独立」は誰が宣言したのか

「学問の独立」は、1882年の開校式で小野梓が宣言した精神だとされる。つまり、この言葉を最初に学校の理念として語ったのは大隈ではなく小野だったことになる。大隈は創設者として学校の顔になったが、理念づくりには多くの同志が関わっていた。

在野の学校としての成り立ち

官立学校の教員の出講が禁じられたことや、帝国大学総長の監督下に置かれたことは、東京専門学校が政府と距離のある学校として出発したことを示している。政府の側から見れば「大隈の私学校」であり、改進党系の学校だった。早稲田が「在野」の気風で語られる背景には、こうした創立期の事情がある。

キャンパスに残る大隈重信の象徴と歴史的遺産

大隈講堂と時計塔

大隈講堂(早稲田大学大隈記念講堂)は1926年2月に着工し、1927年(昭和2年)10月20日に竣工した。設計は佐藤功一と佐藤武夫が中心で、構造は内藤多仲、施工は戸田組(現在の戸田建設)が担当した。2007年(平成19年)12月4日に重要文化財に指定されている。

時計塔の高さは、地盤面から尖塔までで125尺(約38メートル)。大隈が唱えた「人生125歳説」にちなんで設定されたとされる。大講堂は1,123席、地下1階の小講堂は301席。天井の楕円形の採光窓には、太陽と月、9つの星があしらわれ、太陽系を表している。講堂の内と外との「世界の融和」を象徴するとされる。

二つの銅像:大礼服姿とガウン姿

キャンパスの大隈像は一つではない。1907年、大学創立25周年と大隈の古希を記念して、大礼服姿の像が建てられた。現在のガウン姿の立像は、1932年(昭和7年)10月に建立された2代目で、彫刻は朝倉文夫の作である。

ガウン姿のこの立像は、杖をついているのが特徴だ。大隈は1889年の襲撃で右脚を切断し、以後は義足を使っていた。立像はその右足を失った後の姿を写している。切断された脚はその後、巡り巡って1999年に佐賀市の龍泰寺に安置されたという経緯も、Wikipedia に記されている。

校歌「都の西北」

校歌「都の西北」は、作詞が相馬御風、作曲が東儀鉄笛で、1907年(明治40年)10月に制定された。大隈の銅像(初代)が建てられた年と同じ時期にあたる。

演劇博物館と坪内逍遥

坪内逍遥は1890年(明治23年)に文学科の創設に関わった。その功績を記念した「坪内博士記念演劇博物館」は、1928年(昭和3年)10月に開館している。大隈の没後6年にあたる。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 早稲田大学早稲田キャンパス(東京都新宿区):大隈講堂(重要文化財)、大隈重信像、坪内博士記念演劇博物館がある
  • 護国寺(東京都文京区):大隈家墓所。1922年1月17日には日比谷公園で国民葬が営まれ、約30万人が参列したと記されている
  • 龍泰寺(佐賀市):大隈の墓所の一つ。切断された右脚も安置されている
  • 佐賀市:生誕の地。旧宅や記念館には像もある

関連する人物

  • 小野梓:東京専門学校創立の中心人物。「建学の母」と呼ばれる
  • 高田早苗:小野梓らとともに創立に加わり、教旨の草案作成にも関わった
  • 坪内逍遥:文学科の創設に関わり、教旨の草案作成者の一人

よくある質問

早稲田大学はいつ、誰が作ったのですか?

1882年(明治15年)10月21日、大隈重信が小野梓や高田早苗らとともに「東京専門学校」を開いたのが始まりです。1902年に「早稲田大学」へ改称しました。

早稲田の教旨はどんな内容ですか?

「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」の三つです。1913年の創立30周年記念祝典で、大隈が宣言しました。

大隈重信の銅像が杖をついているのはなぜですか?

大隈は1889年の襲撃で右脚を切断し、義足を使っていたためです。現在の立像は1932年に建立され、朝倉文夫が彫刻しました。

大学として認可されたのはいつですか?

1920年(大正9年)2月5日に、大学令に基づく大学として認可されました。日本最初の私立大学の一つです。

大隈講堂の時計塔はなぜ高さ125尺なのですか?

大隈が唱えた「人生125歳説」にちなんで設定されたとされます。高さは約38メートルです。