結論:右脚は1889年の爆弾襲撃で失った。義足は佐賀に残る
大隈重信が右脚を失ったのは、1889年(明治22年)10月18日です。外務大臣として進めていた条約改正に反対する、「玄洋社」の来島恒喜が爆弾を投げつけました。大隈は一命をとりとめましたが、右脚を大腿の下三分の一のところで切断することになりました。
その後の大隈は義足を使って暮らし、のちに内閣総理大臣を2度務めています。使っていた義足は、佐賀県佐賀市の大隈記念館に保存されています。切断された右脚そのものも、保管先を転々としたのち、佐賀市の龍泰寺に安置されました。
基本情報
- 生年月日:1838年3月11日(天保9年2月16日)
- 没年月日:1922年(大正11年)1月10日、83歳
- 出生地:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(現在の佐賀県佐賀市水ヶ江町)
- 時代:幕末から明治・大正
- 立場:政治家。外務大臣(1888年2月1日〜1889年12月24日)、第8代・第17代内閣総理大臣
- 早稲田大学の前身、東京専門学校を1882年に設立した創設者で、初代総長
- 右脚を失った事件:1889年10月18日の爆弾襲撃(大隈重信遭難事件)
大隈重信の右足が失われた襲撃事件の経緯
条約改正交渉をめぐる対立
事件の背景には、大隈が外務大臣として進めた条約改正があります。改正案には外国人の司法官を任用する内容が含まれていました。これに対し、陸奥宗光は、大日本帝国憲法に違反すると指摘しています。
大隈は、裁判所構成法の附則を根拠に違憲ではないと反論しました。しかし井上毅法制局長官も同じ指摘をしています。山田顕義法務大臣は、外国人の裁判官を帰化させる案を出しました。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正の交渉を続ける考えは変えませんでした。政府の内部でも意見がまとまらないまま、交渉が続いていた時期の出来事です。
玄洋社の来島恒喜
爆弾を投げたのは、福岡藩出身の来島恒喜です。1860年1月31日(安政6年12月30日)の生まれで、生年を1859年とする説もあります。筑前共愛公衆会に加わり、頭山満が率いる玄洋社にも参加していました。
来島は大隈の条約改正案に反対して玄洋社を退社しています。他の社員が共犯を疑われて刑事責任を負うことを避けるためだったともいわれます。
1889年10月18日の爆発
大隈は外務省からの帰り道に馬車に乗っていました。そこへ来島が爆弾を投げ入れ、爆弾は馬車の中、大隈の足元で爆発しました。大隈は右脚を大腿下三分の一で切断することになりました。来島は爆弾を投げた直後、短刀で喉を突いて自害しています。享年29でした。
大隈重信の右足切断手術と治療の経過
主治医と執刀した医師たち
主治医は池田謙斎でした。手術を担当したのは、佐藤進、高木兼寛、橋本綱常、そしてドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの4人です。右脚は大腿下三分の一で切断されました。
事件が政局に与えた影響
事件の翌日の10月19日、東京にいた薩摩・長州出身の閣僚は、条約改正を延期することで合意しました。黒田清隆首相も延期を上奏し、10月23日には閣僚の辞表がまとめて提出されました。爆弾によって、条約改正の交渉は止まったことになります。黒田内閣も総辞職しました。
大隈本人は、12月14日付で辞表を提出しました。辞表は12月24日に裁可され、同じ日に前官礼遇を受けるとともに枢密顧問官に任じられています。
大隈が語った来島への思い
大隈は来島について、「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」と語ったと伝わります。外務大臣である自分に爆弾を用いて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であっても感心する、という趣旨の発言も伝えられています。
来島の遺族側にあたる小久保喜七は、毎年、来島の年忌法要を営みました。大隈はそのたびに代理人を送っています。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常が代理人の派遣を続けたとされます。命を奪われかけた相手と、その関係は、大隈の没後まで続きました。
大隈重信の義足と、切断された右脚のその後
義足と杖
右脚を失った大隈は、その後、義足を着用しました。義足は佐賀市の大隈記念館に保存されています。早稲田大学の立像は右足を失ったあとの姿で、杖をついているのが特徴です。事件の傷は、肖像や像の姿にも残ったわけです。
切断された右脚の数奇な行方
切断された右脚は、アルコール漬けにされて大隈邸で一時的に保管されたあと、赤十字中央病院に寄付されました。その後は日本赤十字看護大学でホルマリン漬けのまま保存されていたといいます。
1988年にその由来が判明し、早稲田大学が保管することになりました。さらに1999年には、樹脂加工を施したうえで佐賀市の龍泰寺に安置されています。切断から100年あまりを経て、故郷に戻ったことになります。
事件後の歩み
事件のあとも、大隈の政治生活は終わりませんでした。1891年11月12日に、政党に関わったことを理由に枢密顧問官を辞職しています。のちに1898年(明治31年)6月30日から11月8日まで、そして1914年(大正3年)4月16日から1916年(大正5年)10月9日まで、内閣総理大臣を務めました。1916年には大勲位菊花大綬章を受けています。右脚を失ってから、亡くなるまでに30年余りあり、83歳まで生きました。
ゆかりの地と関連する人物
佐賀市:誕生地と大隈記念館
佐賀市には大隈重信の生家が現存し、国の史跡に指定されています。旧宅の記念碑「大隈重信公誕生地」は、葬儀委員長を務めた波多野敬直の筆によるものです。
大隈記念館には義足が保存されているほか、1988年に建てられた大隈像があります。これは早稲田大学にある大礼服姿の像の複製です。切断された右脚が安置されている龍泰寺にも、大隈の墓所があります。
東京:早稲田大学と護国寺
早稲田大学は、1882年に東京専門学校として設立されました。大隈は創設者で初代総長を務め、学内では「大隈老侯」と呼ばれています。大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)です。
早稲田キャンパスのガウン姿の立像は、1932年10月17日に朝倉文夫が制作したもので、高さ289センチ、大隈講堂のほうを向いて設置されています。大隈講堂の中には、小倉惣次郎作の大礼服姿の像もあります。国会議事堂の中央広間にも、1938年に朝倉文夫が制作した大隈像があります。
1922年1月の死去後は、日比谷公園で「国民葬」が営まれ、東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所に埋葬されました。
関連する人物
- 来島恒喜:爆弾を投げた玄洋社の一員。崇福寺にある玄洋社墓地に墓があります。東京都台東区の谷中霊園にも墓があり、こちらは勝海舟が作らせ、のちに頭山満が建て替えたものです。元の墓石も傍らに残っています。
- 陸奥宗光・井上毅:条約改正案が憲法に違反するのではないかと指摘した人物
- 佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・ベルツ:手術を執刀した医師
- 大隈信常:大隈の養嗣子。大隈の没後も、来島の年忌法要に代理人を送り続けました。
よくある質問
大隈重信はなぜ右足を失ったのですか。
1889年10月18日、条約改正に反対する玄洋社の来島恒喜に、馬車の中へ爆弾を投げ込まれたためです。右脚を大腿下三分の一で切断しました。
大隈重信の手術は誰が行いましたか。
佐藤進、高木兼寛、橋本綱常、エルヴィン・フォン・ベルツの4人が執刀しました。主治医は池田謙斎です。
大隈重信の義足はどこで見られますか。
佐賀市の大隈記念館に保存されています。公開の状況は、訪れる前に施設の案内で確認してください。
切断された右脚は今どこにありますか。
1999年から、佐賀市の龍泰寺に安置されています。それまでは、大隈邸、赤十字中央病院、日本赤十字看護大学、早稲田大学の順に保管されてきました。
右脚を失ったあとも首相を務めましたか。
はい。1898年に第8代、1914年から1916年にかけて第17代の内閣総理大臣を務めています。




