結論:大隈重信の政党は「立憲改進党」。ただし党名は何度も変わった
大隈重信が最初につくった政党は、1882年(明治15年)4月16日に結党式を開いた立憲改進党です。大隈は初代の総理(党首)になりました。この党は1896年に進歩党となり、1898年には自由党と合同して憲政党に、同じ年の11月には旧進歩党系が憲政本党をつくっています。
つまり「大隈の政党は何党か」という問いに、一つの名前では答えられません。時期によって、立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党と変わりました。さらに晩年の第2次大隈内閣では、立憲同志会などが与党になりましたが、これは大隈自身の政党ではありません。この記事では、党名の移り変わりを時期ごとに整理します。
基本情報
- 人物:大隈重信(おおくま しげのぶ)
- 没年:1922年(大正11年)1月10日、早稲田の私邸で死去
- 時代:明治〜大正時代
- 立場:政治家。首相を2度務めた
- 最初の政党:立憲改進党(1882年結成)
- その後の党名:進歩党(1896年)、憲政党(1898年6月)、憲政本党(1898年11月)
- 首相在任:第1次は1898年6月30日〜11月8日(日本初の政党内閣)、第2次は1914年4月16日〜1916年10月9日
大隈重信の政党は何党か:立憲改進党から憲政本党までの歩み
明治十四年の政変と野に下った背景
大隈は明治政府の参議でしたが、1881年(明治14年)10月に政府を去りました。きっかけは、同年夏に問題になった開拓使官有物払下げ事件です。黒田清隆が開拓使の官有物を民間に払い下げる案を出し、大隈は閣議で反対しました。しかし案は採択され、7月に新聞がこの件を報じると、政府への批判が広がりました。
この間に、大隈が有栖川宮に出した意見書も火種になっていました。早期に憲法を定め、2年後に国会を開き、イギリス型の政党内閣をつくるべきだという急進的な内容で、これを知った伊藤博文は激怒したとされています。10月11日に大隈以外の大臣・参議が大隈の罷免を上奏し、同日に大隈は辞職しました。翌12日には、払下げの中止と国会開設を告げる「国会開設の詔」が出されています。大隈と近い官僚だった矢野文雄、小野梓らも辞職し、この人々が立憲改進党の母体になりました。
立憲改進党の結成と支持層
趣意書は1882年3月14日に発表され、4月16日に東京の明治会堂で結党式が開かれました。大隈が総理に就きました。副総理は河野敏鎌、幹事は波多野伝三郎です。犬養毅、尾崎行雄、前島密、島田三郎らも名を連ねました。党内には、慶應義塾系、嚶鳴社系など複数のグループがあったと記されています。
支持層は、都市の商業資本家や産業資本家、知識人でした。綱領は「王室の尊栄」と「人民の幸福」を掲げ、急激な変革を避けて漸進的に改良する方針です。地方自治の基礎づくりや、社会の進歩に応じた選挙権の拡大も項目に入っていました。イギリス流の立憲君主政治をめざした党と言われます。
自由党との関係
同じ民間側の政党でも、自由党とは仲が良かったわけではありません。1883年ごろには互いに攻撃し合い、泥仕合になりました。一方、三大事件建白運動や大同団結運動では旧自由党系と連携し、民力休養をめぐる地租軽減では共闘もしています。第1回総選挙で立憲改進党が得たのは41議席でした。
進歩党への合流と「総理」の時期
1896年3月1日、立憲改進党は立憲革新党や大手倶楽部など国権派の諸勢力と合同し、進歩党を結成して解党しました。ここで一つ、資料の書きぶりが分かれる点があります。立憲改進党の項目は、大隈の総理在任を1896年3月までとしています。一方、大隈重信の項目では、総理在任を1894年までとし、1891年12月28日に再入党して代議総会会長となり、事実上の党首になったと書いています。党首としての立場は、形式と実質で分けて読む必要がありそうです。
隈板内閣と憲政党:初の政党内閣はなぜ4か月で終わったか
憲政党の誕生
1898年6月10日、第3次伊藤内閣が衆議院を解散しました。これに対抗して、6月22日に自由党と進歩党が合同し、憲政党が生まれます。衆議院で最大の勢力でした。伊藤博文は政府を支える政党をつくろうとしましたが、山縣有朋に阻まれ、6月24日に辞意を表明します。後継を引き受ける元老はおらず、大隈と板垣退助が推薦されました。
隈板内閣の成立
6月27日に両名へ組閣の命が下りました。板垣が内務大臣を望んだため、大隈が首相と外務大臣を兼ね、6月30日に内閣が発足します。陸軍の桂太郎と海軍の西郷従道を除き、閣僚はすべて憲政党員でした。日本で最初の政党内閣です。大隈と板垣の名から「隈板内閣」と呼ばれます。文部大臣は尾崎行雄でした。
共和演説事件と分裂
この内閣は、藩閥政府に対抗するためにできた党の連合でした。権力を持つと、旧進歩党系と旧自由党系の意見の違いがすぐに表に出ます。閣内では進歩党系が自由党系より多く、自由党系の松田正久や進歩党系の大東義徹の人事は、えこひいきだと批判されました。党員が高級官僚の地位に就いたことも、行政の混乱を招いたとされます。
決定打は、8月21日の尾崎行雄の「共和演説事件」です。自由党系の議員が尾崎を繰り返し攻撃しました。10月13日に自由党系は進歩党系と決別する方針を決め、10月21日に板垣が尾崎の辞任を求めます。大隈は自由党系に相談せず、後任に進歩党系の犬養毅を据えました。これで分裂は決定的になります。
10月29日、自由党系は憲政党を自分たちで解散し、自由党系だけの新しい憲政党を届け出ました。板垣ら自由党系の閣僚3人は辞表を出しています。進歩党系は11月3日に憲政本党を結成しました。大隈は進歩党系だけで閣僚の席を埋めて続けようとしましたが、天皇に認められませんでした。10月31日に大隈と閣僚は辞表を出し、正式な内閣の終了日は11月8日、後任は第2次山縣内閣です。就任から数えて4か月余りでした。
憲政本党のその後と、第2次大隈内閣の与党は何党か
憲政本党の総理として
憲政本党は、旧自由党系に「憲政党」の名を使われたことへの対抗で結成されました。憲政党の名称使用が11月2日に禁止され、翌日に新党が発足しています。党首格だった大隈は、空席だった総理に就任しました。第2次山縣内閣のもとでは野党でした。
のちに憲政党が立憲政友会に合流すると、尾崎行雄らは政友会へ移り、憲政本党の勢力は振るわなくなります。大隈の総理在任は1900年12月18日から1907年1月20日までで、その党大会で辞任を表明しました。党内では大石正巳らの「改革派」と犬養毅らの「非改革派」の対立が続きました。憲政本党自体は、他の党と合同して立憲国民党になり、1910年に解党します。
引退後の大隈と早稲田
1882年10月21日、大隈は東京専門学校を開設し、初代総長を務めています。のちの早稲田大学の前身です。立憲改進党の結成と同じ年のことで、政治と教育の両面で動いていたことが分かります。1910年2月には憲政本党議員に招かれ、事実上の党復帰を果たしたとも記されています。
第2次大隈内閣と立憲同志会
1914年3月、第1次山本内閣がシーメンス事件のために総辞職しました。元老会議は後継を決められず、徳川家達と清浦奎吾は組閣の命を辞退します。そこで井上馨の説得を受け、政界を離れていた大隈が首相の候補となり、4月16日に組閣しました。
与党は、第二党の立憲同志会、中正会、大隈の首相就任を機に発足した公友倶楽部でした。外務大臣は立憲同志会総裁の加藤高明で、司法大臣には尾崎行雄がいます。立憲同志会は、大隈が結成した党ではありません。ここが「大隈の政党は何党か」という質問で混同されやすい点です。なお、司法大臣の尾崎行雄は、立憲改進党の時代から大隈とともにいた人物です。
この内閣では、第一次世界大戦が始まり、日英同盟に基づいて連合国側で参戦しました。1915年3月の総選挙では、立憲同志会が第1党になっています。一方で、内務大臣の大浦兼武が選挙干渉への関与を追及されて辞任する騒ぎもありました(大浦事件)。大隈は1916年10月4日に辞職し、10月9日に寺内内閣が発足して、第2次大隈内閣は終わりました。1916年1月には、首相の暗殺未遂事件も起きています。
ゆかりの地と関連する人物
- 護国寺(東京都文京区):1922年1月17日、日比谷公園での国民葬のあと、大隈家墓所に埋葬されました
- 龍泰寺(佐賀市):大隈の墓所がもう一つあります
- 早稲田大学:前身の東京専門学校は1882年10月21日の開設です
- 板垣退助:自由党系の中心。隈板内閣で内務大臣を務めました
- 犬養毅・尾崎行雄:立憲改進党の主な人物で、隈板内閣では尾崎が文部大臣、犬養がその後任でした
- 加藤高明:第2次大隈内閣で外務大臣を務めた立憲同志会の総裁です
よくある質問
大隈重信の政党は結局どこですか?
最初の政党は立憲改進党です。これが進歩党、憲政党、憲政本党と名を変えました。ただし党名ごとに、合流した相手や党の中身は違います。
隈板内閣はなぜ短命だったのですか?
旧進歩党系と旧自由党系の対立が、権力を握ってすぐに表に出たためです。8月の尾崎行雄の共和演説事件、後任人事をめぐる10月の決裂で憲政党が分裂し、10月31日に辞表を出しました。
立憲同志会は大隈の党ですか?
いいえ。第2次大隈内閣の与党の一つですが、総裁は加藤高明でした。大隈が結成した党ではありません。
大隈はいつ党首を辞めましたか?
憲政本党の総理としては、1907年1月20日の党大会で辞任を表明しました。立憲改進党の総理については、資料によって1894年とも1896年3月ともあり、書きぶりが分かれます。






