結論:「本名」は一つに決まらない。正式な姓名は「源家康」、生まれたときの名は「竹千代」
徳川家康の「本名フルネーム」をどれと見るかで答えは変わります。生まれたときの幼名は「竹千代」、元服後は「次郎三郎元信」、のちに「元康」、そして「家康」へ。Wikipedia の記述では、正式な姓名は「源 家康(みなもとの いえやす)」とされています。
「徳川」は本姓ではなく、永禄9年(1566年)に松平から改めた名字です。さらに家康の姓は藤原氏とされた時期を経て、のちに源氏に戻ったと説明されています。名前が一生のうちに何度も変わったことが、「本名はどれか」という疑問の原因です。
基本情報
- 生没年:天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)。本文は天文11年(1542年)、インフォボックスは1543年1月31日と書かれているが、和暦の天文11年12月は西暦では翌年にあたる
- 時代:戦国時代から江戸時代初期
- 立場:江戸幕府初代将軍(慶長8年=1603年に征夷大将軍)
- 幼名:竹千代
- 元服後の名:次郎三郎元信、のち元康、さらに家康
- 正式な姓名:源 家康
- 神号:東照大権現(元和3年=1617年)
- 戒名:安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
徳川家康の本名の変遷:竹千代から元信、元康、家康へ
幼名「竹千代」:岡崎城で生まれた松平広忠の嫡男
家康は松平広忠の嫡男として三河国の岡崎城で生まれたとされ、幼名は竹千代でした。幼少期から十数年にわたって人質として過ごしたと伝わり、その期間には尾張の織田氏のもとにいた2年間も含まれます。当時の名字は「松平」なので、この時期のフルネームを現代風に書けば「松平竹千代」です。
「次郎三郎元信」:今川義元から「元」の字をもらう
天文24年(1555年)3月、14歳で駿府の今川義元のもとで元服し、「次郎三郎元信」と名乗りました。「元」の字は義元から与えられたもの(偏諱)です。「次郎三郎」は仮名(通称)で、実名にあたるのが「元信」です。名前の上半分を主君筋から授かる形は、今川氏の下にいた立場をそのまま表しています。
「元康」への改名:祖父・清康の一字
1558年ごろ、家康は「元康」に改名しました。「康」は祖父・松平清康の名の一字をとったものと説明されています。この改名にあわせて、仮名も「蔵人佐」に改めたとされます。ここで「元」の字はまだ残っているため、今川氏との関係を完全に断ったわけではありません。
なお、元康の「康」を織田信秀の「信」などと結びつける説明も見かけますが、今回確認した Wikipedia に、そのような由来の記述はありません。「康」は祖父から取った、というのが確認できる説明です。
「家康」への改名:「元」を捨てる
永禄6年(1563年)7月6日、「家康」に改名しました。これは「徳川幕府家譜」に基づく記述です。「元」の字を捨てたことで、今川氏からの自立を示したとされます。一方で、「家」の字を選んだ理由は明確ではないと記されています。
つまり、名乗りの順番は竹千代、元信、元康、家康です。「松平元康から、徳川への改姓と同時に家康になった」と書かれることがありますが、確認できた記述では、改名は永禄6年、改姓は永禄9年で、時期が分かれています。
「松平」から「徳川」へ:改姓と、本姓が変わった事情
永禄9年12月、朝廷の勅許で「徳川」に
永禄9年12月29日(西暦では1567年2月18日にあたる)、正親町天皇の勅許により、家康は松平から徳川へ名字を改めました。同時に従五位下・三河守に叙任されています。
この叙任には経緯があります。清和源氏の世良田氏から三河守に任じられた先例がないとして、朝廷は最初、認めませんでした。家康は泰翁慶岳を介して近衛前久に相談し、吉田兼右が先例を見つけます。藤原氏を名乗るという特例の形で叙任が実現しました。このとき家康の本姓は「藤原氏」とされています。
「得川」から「徳川」へ:由来は後世の系図に基づく
「徳川」の由来について、松平氏の項には、先祖の得川義季(上野国新田荘の得川郷)以来の名字「得川」を復活させ、さらに縁起のよい字である「徳」に改めた、という説明があります。「得川」が先にあり、「徳」を当てて徳川にした、という流れです。
ただし、この系譜自体に疑問があることも書かれています。後世の徳川・松平の系譜は、松平氏が清和源氏の新田氏の流れだとしますが、同時代の記録で確実にたどれるのは信光以降からで、新田系とする話は後から作られたとする研究者もいます。「得川の末裔だから徳川」という説明は、そのまま事実とは言い切れません。
名字を改めたのは家康の家だけ
松平氏の項には、徳川を名乗ったのは家康の一家のみで、ほかの松平諸家は松平のままだったとあります。「松平」は三河国加茂郡の松平郷に興った小豪族とされますが、名字の由来を明確に説明する記述はありません。
本姓は「藤原」から「源」へ、時期ははっきりしない
永禄4〜6年ごろの文書では本姓を源氏としており、永禄9年に徳川を名乗るときに藤原氏になりました。その後、源氏に戻った時期は定まっていません。かつての通説は、関ヶ原の戦いの後に吉良氏の系図を借用したとするものです。ただし、天正20年(1592年)の清華成の勅許の口宣案に源氏姓があるとする指摘や、天正16年の『聚楽行幸記』に「大納言源家康」とあることからそれ以前からだとする説もあります。慶長8年(1603年)に「源家康」の名で征夷大将軍に任じられた時点では、源氏に戻っていたと考えられています。
戦国武将の名乗りの仕組み:諱・仮名・名字・本姓
実名(諱)、通称、名字、本姓を分けて考える
家康の例で整理すると、次のようになります。
- 幼名:竹千代
- 実名(諱):元信、元康、家康
- 仮名(通称):次郎三郎、蔵人佐
- 名字:松平、のち徳川
- 本姓:源(藤原とされた時期を経て、再び源)
現代の「姓+名」の感覚だと、このうち一つを「本名」と決めたくなります。「徳川家康」は広く通用する呼び名であり、正式な姓名としては「源家康」とされる、というのが Wikipedia の記述に沿った整理です。
官位の変化
改姓時に従五位下・三河守、永禄11年1月11日には左京大夫(『歴名土代』)、のち征夷大将軍、太政大臣、源氏長者に就き、没後に正一位が贈られました。呼び名が名字や官職によって変わる点も、「本名は一つではない」と言われる理由の一つです。
死後の名前:神号・戒名・尊称
東照大権現:元和3年の神号
元和3年(1617年)2月21日、後水尾天皇から「東照大権現」の神号が与えられ、3月9日には正一位の神階が贈られました。秀忠は、朝廷から示された四つの案のなかから、この神号を選んだとされます。
戒名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」
戒名は安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士です。尊称としては、生前から将軍辞任後は「大御所」、死後は「神君」「権現様」と呼ばれました。
墓所と遺言:久能山と大樹寺
家康は元和2年(1616年)4月17日に駿府城で死去し、その夜のうちに遺体は久能山へ移されました。遺言には「臨終候はば御躰をば久能へ納」とあります。位牌は三河の大樹寺に立てるよう指示され、葬儀は5月17日に増上寺で行われました。一周忌を経て、日光の東照社に分霊されたとされます。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 岡崎城(愛知県岡崎市):生誕の地。家康が岡崎にいたのは幼少期と、桶狭間の戦い後の約10年とされ、期間は短い
- 駿府:元服の地であり、慶長12年(1607年)には駿府城に移り、元和2年にここで死去した
- 久能山東照宮(静岡市駿河区根古屋):遺命で遺体が葬られた場所。本殿・石の間・拝殿は2010年(平成22年)12月24日に国宝に指定された
- 大樹寺(三河):遺言で位牌を立てるよう指示された寺
- 松平郷(三河国加茂郡):松平氏が興った地
関連する人物
- 今川義元:「元」の字を与えた。元信という名の由来
- 松平清康:家康の祖父。「康」の字の由来とされる
- 松平広忠:父
- 正親町天皇:永禄9年に改姓を勅許した
- 近衛前久・吉田兼右:改姓と叙任の先例探しに関わった
- 後水尾天皇:没後に東照大権現の神号を与えた
よくある質問
徳川家康の本名(フルネーム)は何ですか?
生まれたときの名は竹千代で、正式な姓名は「源家康」とされています。「徳川」は永禄9年に改めた名字で、本姓ではありません。
家康はいつ「家康」になったのですか?
「徳川幕府家譜」によれば、永禄6年(1563年)7月6日に元康から家康に改名しました。徳川への改姓は、それより後の永禄9年12月です。
「元信」の「元」は誰からもらったのですか?
今川義元です。天文24年(1555年)に駿府で元服した際、義元の偏諱として「元」の字が与えられました。
なぜ松平から徳川に改姓したのですか?
確認できた記述では、朝廷の勅許を得て名字を改め、同時に従五位下・三河守に叙任されたことまでは分かります。改姓の動機そのものを説明した記述は、今回確認した資料にはありません。
家康の戒名は何ですか?
安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士です。神号は東照大権現で、元和3年に後水尾天皇から与えられました。





