結論:代表作は『みだれ髪』『君死にたまふことなかれ』『源氏物語』の現代語訳
与謝野晶子の代表作として最初に挙がるのは、1901年(明治34年)に出した処女歌集『みだれ髪』です。女性の官能や恋を、399首にわたって大胆に詠みました。2つ目は、1904年に雑誌『明星』に発表した詩『君死にたまふことなかれ』で、日露戦争に従軍した弟を案じる内容が論争を呼びました。
3つ目は『源氏物語』の現代語訳です。1912〜13年の『新訳源氏物語』のあと、1938〜39年に『新新訳源氏物語』全六巻を出しました。このほか、平塚らいてうとの母性保護論争(1918年〜)や、1921年の文化学院の創設も、晶子の仕事としてよく知られています。
基本情報
- 生没年:1878年(明治11年)12月7日〜1942年(昭和17年)5月29日(満63歳)
- 出身:堺(現在の大阪府堺市)。和菓子屋「駿河屋」を営む家の三女。旧姓は鳳、本名は与謝野志やう
- 時代:明治〜大正〜昭和前期
- 立場:歌人・作家・評論家。夫は歌人の与謝野鉄幹
- 主な代表作:歌集『みだれ髪』(1901年)、詩『君死にたまふことなかれ』(1904年)、『新訳源氏物語』『新新訳源氏物語』
- 家族:鉄幹との間に12人の子が生まれたとされる(出産回数の記述には資料による差がある)
- 墓所:多磨霊園
『みだれ髪』と『君死にたまふことなかれ』|与謝野晶子の代表作
鉄幹との出会いから『みだれ髪』まで
晶子が与謝野鉄幹と出会ったのは1900年です。鉄幹は1899年に東京新詩社を創立し、1900年に機関誌『明星』を創刊していました。『明星』は北原白秋、吉井勇、石川啄木らを世に出した雑誌で、ロマン主義運動の中心でした。
晶子は出会いの翌年に上京します。鉄幹にはそれまでに別の女性との関係があり、晶子との関係が問題になった後に離別したと記録されています。その年の10月1日、2人は結婚しました。『みだれ髪』は、この恋のさなかに生まれた歌集です。
『みだれ髪』の中身と反響
『みだれ髪』の刊行は1901年8月15日。出版したのは東京新詩社と伊藤文友館で、著者名は結婚前の「鳳晶子」でした。表紙の装丁は洋画家の藤島武二が手がけています。全399首が6つの章に分かれ、身体や恋の感情を正面から詠んだ点が特徴です。
反響は割れました。1901年の書評には、風俗を乱すものとして強く非難するものがありました。一方で、詩人の上田敏は、芸術面から高く評価し、保守的な論陣を批判しました。この歌集は浪漫主義運動の指標ともなり、大阪の無名の女性歌人だった晶子を一躍文壇に押し上げました。
『君死にたまふことなかれ』と大町桂月の批判
『君死にたまふことなかれ』は、1904年(明治37年)9月の『明星』に、「旅順口包囲軍のなかにある弟を嘆きて」という副題つきで載りました。日露戦争の最中に書かれた詩です。
詩の宛先は弟の鳳籌三郎(資料により「壽三郎」とも)。予備陸軍歩兵少尉として、第4師団歩兵第8連隊に属していました。資料によれば、籌三郎は南山の戦いに参加しましたが、その後は北へ進んだため、副題にある旅順の攻囲戦には直接参加していません。籌三郎は戦地から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きました。
よく知られる詩句に、第3連の「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね」があります。この表現などをめぐり、文芸批評家の大町桂月が『太陽』誌上で批判しました。桂月は、家が大事、妻が大事で国は亡びてもよいと言うのは「余りに大胆すぐる言葉」だという趣旨のことを述べています。
晶子は『明星』11月号に「ひらきぶみ」を載せて反論しました。桂月が「たいさう危険なる思想」と言うが、死を促す風潮や、忠君愛国の言葉だけで論じる風潮のほうがむしろ危険だ、という立場です。さらに「歌はまことの心を歌うもの」と主張しました。夫の鉄幹と平出修の働きかけもあり、晶子に向けられた「乱臣賊子」という言葉は取り下げられ、論争は収まったと記されています。
『源氏物語』の現代語訳と母性保護論争・文化学院|晶子の仕事の広がり
『源氏物語』の現代語訳は3度の挑戦
晶子は生涯に3度、『源氏物語』の現代語訳に取り組みました。1度目が1912〜13年の『新訳源氏物語』です。
2度目は「源氏物語講義」とも呼ばれる、訳に注をつけた原稿でした。これは完成が近かった1923年(大正12年)9月、関東大震災の火災で焼失します。当時の晶子は44歳。文化学院の校舎も同じ震災で失われ、原稿は校舎とともに失われたと文化学院の記録にあります。
3度目が『新新訳源氏物語』です。全六巻で、1938年(昭和13年)10月から1939年9月にかけて金尾文淵堂から出ました。震災のあとに再び書き上げた、決定版にあたります。なお、焼失した原稿を何度目と数えるかは資料によって異なります。
平塚らいてうとの母性保護論争
母性保護論争は、1918年(大正7年)から1919年にかけて行われました。発端は、1918年3月の『婦人公論』に晶子が載せた「女子の徹底した独立」という小文です。晶子は、エレン・ケイが唱えた「母性保護」に反対しました。国家に保護を求めることは「依頼主義」であり、国家に寄食することになる、という批判です。
晶子の主張は次のとおりです。妊娠・出産期に国家から経済的な保護を受けることには反対。女性は男性に頼らず経済的に独立すべきだ。経済的な保障がないなら、結婚や出産は避けるべきだ。一方で、貧困のために母の務めを果たせない家庭に国が補助を出すことには賛成でした。
これに対して平塚らいてうは、子を産み育てることは社会的・国家的な仕事であり、母性保護は慈善ではなく国家の政策として行うべきだと反論しました。官吏や軍人が俸給を受けるのと同じで、母が報酬を受けることも恩恵ではない、という考え方です。また、結婚も出産も避けよという晶子の主張では、多くの働く女性が結婚も出産もできなくなり、国にとっても損失だと批判しました。
文化学院の創設
文化学院は1921年(大正10年)4月25日に東京に創立されました。中心になったのは西村伊作で、晶子は石井柏亭らとともに構想の段階から賛同した人物です。校地は神田駿河台に求められました。
晶子は開校時の教師25人のひとりとして、河崎なつらと独自の教科書を作り、授業を担当しました。1930年には女学部長に就任しています。式歌「賀頌」の作詞も晶子です。
学校は国の学校令に縛られない自由な教育を目ざし、あえて各種学校として認可を受けました。国の補助金は受けず、運営は伊作の資産でまかなわれました。4年制の中学部は日本初の男女共学を実施したとされますが、開校当初の生徒は女子43人だけだった、と記録されています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 堺(大阪府堺市):晶子の生まれた土地。実家は和菓子屋「駿河屋」
- 覚応寺(堺市):命日に、法要「白桜忌」が営まれています
- 多磨霊園(東京都):晶子の墓所
- 神田駿河台(東京都):文化学院の校地が求められた場所。校舎は関東大震災で焼け、建て直されました
晶子の葬儀・告別式は1942年6月1日、青山斎場で営まれ、高村光太郎が弔辞を読み、堀口大學が挽歌を捧げました。死去は5月29日、荻窪の自宅で、狭心症と尿毒症によるものでした。
関連する人物
- 与謝野鉄幹:夫で、東京新詩社の創立者。1935年(昭和10年)3月26日に62歳で亡くなった。1911年にパリへ渡り、晶子も翌1912年に後を追ってヨーロッパを訪れている
- 平塚らいてう:母性保護論争の相手
- 大町桂月:『君死にたまふことなかれ』を批判した文芸批評家
- 西村伊作:文化学院の創設の中心人物
- 上田敏:『みだれ髪』の新しさを評価した詩人
よくある質問
与謝野晶子の代表作は何ですか?
歌集『みだれ髪』(1901年)、詩『君死にたまふことなかれ』(1904年)、『源氏物語』の現代語訳(『新訳』と『新新訳』)が代表作です。
『みだれ髪』には何首収められていますか?
399首が6つの章に分けて収められています。1901年8月15日に東京新詩社と伊藤文友館から出ました。
『君死にたまふことなかれ』の弟は戦死したのですか?
いいえ。弟の鳳籌三郎は戦地から帰還し、1944年まで生きたと記されています。
『新訳源氏物語』と『新新訳源氏物語』の違いは?
『新訳』は1912〜13年、『新新訳』は全六巻で1938年10月〜1939年9月の刊行です。間の1923年には、訳注の原稿が関東大震災で焼失しました。
母性保護論争で晶子は何を主張しましたか?
国家に経済的な保護を求めるのは「依頼主義」だとして反対し、女性が経済的に独立することを主張しました。ただし、貧困家庭への国の補助には賛成でした。





