徳川家康 日本史トリビア

結論:遺体は久能山、神霊は日光、位牌は大樹寺。ただし日光の「遺体」には異説がある

徳川家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)、駿府城で亡くなった。遺体はその日の夜に久能山へ移され、そこに葬られた。これが最初の墓所である。

家康の遺言では、遺体は久能に納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌を過ぎたら日光山に小さな堂を建てて神として祀るよう指示されていた。久能山・日光・大樹寺の「三か所」は、この遺言の分担に由来する。

日光東照宮の奥社宝塔には、1617年に遺体が改葬されたと長く説明されてきた。一方で近年は、日光へ運ばれた神柩に遺体はなかったとする説が有力とされる、という注記もある。つまり「どこに遺骨があるか」は、久能山が確実で、日光は説が分かれる、というのが現在の整理になる。

基本情報

  • 没年:元和2年4月17日(1616年6月1日)没。満73歳4か月(数え75歳)
  • 時代:江戸時代初期
  • 立場:江戸幕府の初代将軍。没前の3月27日に太政大臣に任じられた
  • 死去の場所:駿府城(午前10時ごろ)
  • 神号:東照大権現(元和3年〈1617年〉2月21日、後水尾天皇より)
  • 戒名:安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
  • 主な墓所・霊廟:久能山東照宮(静岡市)、日光東照宮(日光市)、大樹寺(岡崎市)。ほかに高野山にも家康を祀る霊屋がある

徳川家康のお墓はどこにある?遺言と久能山・日光への埋葬の経緯

最期の4か月と、亡くなった日の動き

家康は1月21日、鷹狩りの途中の田中で倒れ、25日に駿府へ戻って療養に入った。3月27日に太政大臣に任じられ、4月1日に遺言を残している。死因は長く鯛の天ぷらによる食中毒説が語られたが、発症から死去までの日数が長すぎるとして無理があるとされ、現在の主流は胃癌説である。

亡くなったのは4月17日の巳の刻、午前10時ごろ。遺体は同じ日の夜に久能山へ移された。幕府は大名や旗本に、弔問のための下向は無用と伝えている。

遺言が定めた「三つの役割」

遺言は『本光国師日記』に記されている。内容は次のとおり。

  • 臨終後は、遺体を久能に納める
  • 葬儀は増上寺で行う
  • 位牌は三河の大樹寺に立てる
  • 一周忌を過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧請する

実際の葬儀は5月17日に増上寺で行われた。家康は神として祀られる存在になったため、葬儀は内々で行われ、大名の参列や香典は無用とされた。ここで「増上寺は墓所ではない」点に注意したい。増上寺は葬儀の場であり、家康の墓は置かれていない。

日光への改葬は1617年

日光東照宮の記述では、翌元和3年(1617年)、二代将軍秀忠が天海に命じて日光への改葬が決まった。4月8日に奥院廟塔へ改葬され、一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。社殿の完成も同年4月で、作事奉行は藤堂高虎が務めている。

遺言の文面は「小さな堂」だが、実際の日光は、のちに三代将軍家光による寛永の大造替(寛永11年〈1634年〉に家光が日光社参し、二十一年神忌に向けて始まった)で、現在の壮麗な姿になった。もとの社殿は世良田東照宮に移築されている。

なぜ三か所?久能山・日光東照宮・大樹寺の違いと「遺体は日光にある?」説

久能山東照宮:最初に葬られた場所

久能山東照宮は静岡市駿河区根古屋にあり、久能山(標高216メートル)の南斜面、駿河湾に面して建つ。参道は1,159段の石段である。家康の死去した1616年に造営が始まり、元和3年12月(1617年1月)に創建された。

廟所宝塔は本殿の裏手、山頂近くの墓所に立つ。当初は木造だったが、寛永17年(1640年)に家光が現在の石造宝塔に造り替えた。家康の遺命により西向きに建てられている。廟所宝塔は1955年6月22日に重要文化財に指定された。

社殿そのものも評価が高い。本殿・石の間・拝殿は一棟として、2010年12月に国宝に指定された。1617年に完成した、江戸初期の権現造の代表例とされる。「東照宮」の宮号は、1645年に朝廷から授かっている。

日光東照宮:神として祀るための場所

日光の奥社宝塔は銅製で、重要文化財(建造物)に指定されている。日光東照宮は輪王寺、日光二荒山神社とともに「日光の社寺」として世界文化遺産に登録されている。

日光の祀り方を決めたのは天海である。改葬のとき、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争になり、天海が主張した山王一実神道が採用された。これにより、薬師如来を本地仏とする神仏習合の形で祀られることになった。

「日光に遺体はなかった」説をどう読むか

日光東照宮の奥社に遺体が移されたとする説明は、天海が指揮した改葬として長く信じられてきた。しかし、日光へ運ばれた神柩に遺体はなかったとする説が近年有力とされている、とWikipediaの注記は伝える。そう考えると、久能山の墓所に遺体が残り、日光には神霊が勧請された、という理解になる。

ここで押さえておきたいのは、家康自身の遺言が日光について「勧請せよ」と書いている点である。勧請とは神霊を分けて祀ることで、遺体を移すという書きぶりではない。ただし、この点だけで改葬の有無が決まるわけではなく、確定した結論とは言えない。本記事では、久能山が最初の埋葬地であることは確かで、日光の遺体の有無は説が分かれる、と整理しておく。

大樹寺:位牌と墓碑

大樹寺は愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗の寺で、松平家と徳川家の菩提寺である。遺言のとおり、家康の死去後に位牌が祀られた。松平八代墓という松平氏の先祖の墓所があり、家康は1615年に修復を命じ、1617年に工事が行われた。

家康の墓碑が松平八代墓の隣に建てられたのは、じつは1969年(昭和44年)4月のことである。形は日光東照宮の宝塔を模したとされる。三か所のうち最も新しい「墓」で、遺体を納めた墓ではなく、位牌と墓碑で家康を祀る場所と考えるのが妥当だ。

高野山の徳川家霊台

三か所に数えられないが、高野山にも家康を祀る霊屋がある。「墓所」の一覧に高野山が加わることがあるのは、このためである。

ゆかりの地と関連する人物

  • 久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区根古屋):最初の墓所。廟所宝塔は重要文化財、本殿・石の間・拝殿は国宝
  • 日光東照宮(栃木県日光市):1617年に創建された神霊を祀る社。奥社宝塔がある
  • 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町):松平家・徳川家の菩提寺。家康の位牌と、1969年建立の墓碑がある
  • 増上寺:遺言で葬儀を行う寺とされた
  • 天海:日光への改葬を指揮し、神格化を主導した僧。「権現」の神号を主張した
  • 以心崇伝:神号に「明神」を主張した。豊臣家が「豊国大明神」を授けられて滅んだため、明神は不吉とされ、秀忠が「権現」に決めた
  • 徳川秀忠:二代将軍。神号の決定や日光への改葬を命じた
  • 徳川家光:三代将軍。久能山の宝塔を石造に造り替え、日光を大造替した

よくある質問

徳川家康の遺体は、いまどこにある?

最初に葬られたのは久能山で、現在もそこに墓所の宝塔がある。日光に改葬されたと長く説明されてきたが、近年は日光へ運ばれた神柩に遺体はなかったとする説が有力とされる。

家康の墓は、増上寺にもあるの?

ない。増上寺は、遺言で葬儀を行う寺とされた場所で、実際に1616年5月17日に葬儀が行われたが、墓所は久能山・日光・大樹寺と、高野山の霊屋である。

大樹寺の家康の墓碑はいつできた?

1969年(昭和44年)4月に、松平八代墓の隣に建てられた。日光東照宮の宝塔を模した形とされる。それ以前から、家康の位牌は遺言に従って大樹寺に祀られている。

日光東照宮はいつ、誰が造った?

社殿は1617年(元和3年)4月に完成した。いま見られる華やかな姿は、三代将軍家光が寛永年間に行った大造替によるもので、総奉行は秋元泰朝、作事方の大棟梁は甲良宗広だった。

家康の神号は、どう決まった?

天海が「権現」、以心崇伝が「明神」を主張した。豊臣家が「豊国大明神」を授けられて滅んだことから明神は不吉とされ、秀忠が権現とする裁定を下し、「東照大権現」が選ばれた。1617年2月21日に後水尾天皇から神号が贈られている。