結論:死因は背中の腫れ物とされるが、最期の様子を詳しく伝える資料は乏しい
足利尊氏は延文3年4月30日(1358年6月7日)、京都の二条万里小路第で亡くなりました。享年54(数え年)で、死因は背中の腫れ物とされています。日本語版Wikipediaはこの死因を、亀田俊和『足利尊氏』(2017年)を出典として記しています。
ただし、同じ項目に、死の直前の経過や病状を細かく書いた記述はありません。英語版Wikipediaにも死因の記載はありません。「どんな腫れ物で、何日患ったのか」といった点は、ここで確かめられた範囲では言えないのです。
よく混同されるのが、弟・足利直義の死をめぐる毒殺の噂です。毒殺の噂が残っているのは直義であり、尊氏本人の死因とは別の話です。この記事では、尊氏の最期と、その背景にあった晩年の戦いを順に見ていきます。
基本情報
- 生没年:嘉元3年(1305年)〜延文3年(1358年)。英語版Wikipediaは生年を1305年8月18日、没日を1358年6月7日とする
- 没年齢:享年54(数え年)。満年齢では52歳
- 時代:鎌倉時代末期から南北朝時代(室町時代の初め)
- 立場:室町幕府の初代征夷大将軍(在任1338〜1358年。1352年からの再任期間もある)
- 死因:背中の腫れ物とされる
- 没した場所:京都の二条万里小路第
- 戒名:等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿
- 墓所:京都市北区の萬年山等持院、神奈川県鎌倉市の長寿寺(遺髪を埋めたと伝わる塔)
足利尊氏の死因とされる背中の腫れ物と最期の経過
「背中の腫れ物」はどこまで言えるか
確かめられるのは、次の3点です。死んだ日付が延文3年4月30日であること、場所が京都の二条万里小路第であること、死因が背中の腫れ物とされていること。腫れ物が悪化した時期、治療の内容、死の前の言葉などは、参照した資料に書かれていません。
インターネット上には、糖尿病や免疫の低下といった医学的な「正体」を断定する話もあります。しかし、そうした診断は当時の記録から確かめられたものではなく、この記事では採りません。死因は「背中の腫れ物とされる」と書くのが、いまの資料の範囲で正確な言い方です。
死の直後に行われたこと
葬儀と法要の日付は、『後深心院関白記』によって分かります。延文3年5月2日に真如寺で葬儀が行われ、5月6日の初七日の法要は等持院で営まれました。亡くなってから葬儀まで、わずか2日です。
朝廷からの追贈も続きました。同年6月3日に贈従一位・左大臣、のちの永徳元年(1381年)には贈太政大臣となっています。
54歳は短命だったのか
享年54は、満年齢にすると52歳です。当時の平均的な寿命と比べて短かったかどうかを示す数字は、確かめた資料にありませんでした。ここでは年齢の事実だけを示し、長いか短いかの評価は避けます。
ひとつ印象的な事実があります。尊氏の死から約100日後に、孫の足利義満が生まれたと記されています。のちに室町幕府の最盛期を築く人物が、祖父の死の直後に誕生したことになります。
直義の急死と毒殺説:尊氏の死因と混同されやすい理由
観応の擾乱で兄弟が敵になるまで
建武政権が倒れたあとの幕府では、尊氏が軍事の指揮と恩賞の一部を、弟の直義が政務を担う二頭政治が行われていました。この体制が崩れたのが観応の擾乱です。
- 貞和5年(1349年):直義が執事の高師直を罷免。師直は御所巻で対抗し、直義は出家に追い込まれる
- 観応元年(1350年):尊氏と師直が直冬の討伐に出陣した隙に、直義が京都を脱出して大和へ向かい、南朝に降伏
- 観応2年(1351年)2月:打出浜の戦いで直義方が勝ち、師直・師泰の兄弟が殺される
- 同年10月:尊氏が南朝に全面降伏し、直義追討令を得る
兄弟の関係は、直冬の処遇や、義詮への将軍職の継承をめぐって悪化したとされます。直冬は尊氏の子で、直義の養子でした。
直義の死と『太平記』の毒殺の噂
正平7年(1352年)1月、直義は尊氏とともに鎌倉に入り、浄妙寺境内に蟄居しました。そして2月26日、浄妙寺境内の延福寺もしくは大休寺で急死します。享年46でした(『鎌倉九代後記』は死去日を2月25日とする)。
『太平記』は、表向きは黄疸による急死とされたものの、実際は毒によるものだと噂された、と記しています。毒殺の噂を記しているのは『太平記』のみだと、尊氏の項目にも書かれています。
研究者の見方も分かれています。清水克行らは毒殺説を支持し、峰岸純夫や亀田俊和は自然死と見て、田辺久子は自害と見ています。死因は明らかではありません。
尊氏の死に暗殺説はあるのか
直義の死が毒殺と噂されたことで、「尊氏も暗殺されたのでは」と連想する人もいるようです。ただ、参照した資料には、尊氏本人の死を暗殺とする記述は見当たりませんでした。背中の腫れ物による病死とされており、暗殺説を裏づける資料は確かめられていません。
直義の死後、尊氏は延文3年(1358年)に、直義に従二位を追贈してほしいと願い出ています。これは直義の怨霊を鎮める意図があったとみられています。亡くなる年まで、弟のことが尊氏の念頭にあったことがうかがえます。
尊氏の晩年:南朝・直冬との戦いと、最期までの動き
直義の死後も続いた戦い
直義が死んでも、争いは終わりませんでした。正平7年(1352年)に南朝勢力が鎌倉を襲うと、尊氏は一時武蔵国へ退きます。その後、武蔵野合戦で関東の南朝勢力を破り、鎌倉を取り戻しました。
同じ年には、南朝が京都を占拠しました。義詮は近江へ逃れましたが、八幡の戦いで京都を奪還し、尊氏は将軍に復帰します。
東寺での直冬との戦い
文和3年(1354年)には、直冬を奉じた旧直義派が京都へ攻め込みます。このとき尊氏は東寺で、自ら直冬の本陣に突撃し、直冬を敗走させたと記されています。親子が戦場で向き合った場面です。英語版Wikipediaも、1355年に南朝軍が京都を取り、足利方が奪い返したと年表で触れています。
実現しなかった九州下向
尊氏は島津師久の要請を受けて九州へ下ろうとしましたが、義詮に止められて果たせませんでした。最後まで、戦いの場に出ようとしていたことが分かる話です。
将軍職は義詮へ
尊氏の次の将軍は、子の足利義詮です。英語版Wikipediaは義詮の在任を1358〜1367年としています。義詮は正室・赤橋登子の子(三男)で、同じ登子の子には鎌倉公方となる基氏もいます。
なお『太平記』には、劣勢の尊氏が切腹しようとして周りに止められたという話がありますが、これは創作とみなされています。晩年の尊氏の「悲壮な最期」のイメージには、後世の脚色が混じっていると考えたほうがよいでしょう。
ゆかりの地と関連する人物
等持院(京都市北区)
臨済宗天龍寺派の寺院で、山号は萬年山です。尊氏は北等持寺に葬られ、その後、尊氏の戒名に由来して「等持院」と改称され、足利将軍家の菩提寺となりました。境内には尊氏の墓とされる宝篋印塔があります。
霊光殿には、尊氏、義詮、義満ら歴代将軍の木像が安置されています。文久3年(1863年)には、尊氏・義詮・義満の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件がありました。庭園は京都市の名勝に指定されています。拝観の時間や料金は、公式サイト(toujiin.jp)で確認してください。
長寿寺(鎌倉市山ノ内)
創建の年や開基は不明ですが、鎌倉公方の足利基氏が父・尊氏の菩提を弔うために建てたと伝えられています。境内には、尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔があります。かつて境内は非公開でしたが、近年は春(4〜6月)と秋(10〜11月)の金曜から日曜に限って公開されています。
関連する人物
- 足利直義:弟。政務を担ったが、観応の擾乱の末、1352年に鎌倉で急死した
- 足利義詮:子。尊氏のあとを継いだ2代将軍
- 足利基氏:子。鎌倉公方で、長寿寺を父の菩提のために建てたと伝わる
- 足利直冬:尊氏の子で、直義の養子。東寺で尊氏と戦った
- 足利義満:孫。尊氏の死の約100日後に生まれた
- 高師直:尊氏の執事。観応2年(1351年)に殺された
よくある質問
足利尊氏の死因は何ですか?
背中の腫れ物とされています。日本語版Wikipediaが亀田俊和『足利尊氏』(2017年)を出典に記していますが、病状の経過を詳しく伝える記述は、確かめた資料にはありません。
足利尊氏は何歳で、どこで亡くなりましたか?
延文3年4月30日(1358年6月7日)に、京都の二条万里小路第で亡くなりました。享年54(数え年)で、満年齢では52歳です。
尊氏は毒殺されたのですか?
尊氏の毒殺を示す記述は、確かめた資料にありません。毒殺の噂が『太平記』に書かれているのは、弟の直義の死についてです。直義の死因も、研究者の間で毒殺説・自然死説・自害説に分かれ、明らかではありません。
尊氏の墓はどこにありますか?
京都市北区の等持院に、尊氏の墓とされる宝篋印塔があります。鎌倉市の長寿寺には、遺髪を埋めたと伝わる五輪塔があります。
尊氏の次の将軍は誰ですか?
子の足利義詮です。英語版Wikipediaは、義詮の在任を1358〜1367年としています。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。






