結論:田沼は「収入を増やす」、定信は「支出を締める」。ただし近年は連続面も指摘される
田沼意次と松平定信の政治の違いは、一言でいえば財政再建の手段の違いである。田沼意次は、株仲間に特権を与えて冥加金・運上金を取り、南鐐二朱銀を鋳造して出目(通貨発行益)を得るなど、収入を増やす方向で動いた。松平定信は、倹約令や大奥の縮小で支出を抑え、棄捐令・囲米・七分積金・寛政異学の禁などを組み合わせた寛政の改革で立て直しを図った。
ただし、通説のような「商業重視か農業重視か」「積極財政か緊縮財政か」という二分法は、近年の研究では単純化しすぎだとされる。定信は株仲間の大部分を存続させ、田沼の出した倹約令の残り年数を引き継ぐ形で自分の倹約令を出している。違いと連続の両方を見ると、この二人の政治がよく分かる。
基本情報
- 田沼意次:享保4年(1719年)生まれ、天明8年(1788年)7月24日没、享年70。江戸時代中期の幕臣・大名で、第10代将軍家治の側用人、のち老中。相良藩主
- 松平定信:宝暦8年12月27日(西暦1759年1月25日)生まれ、文政12年(1829年)5月13日没、享年72。御三卿・田安家の出身で、陸奥白河藩主、のち老中
- 時代:江戸時代中期から後期
- 田沼の主な政策:株仲間の公認・奨励、南鐐二朱銀の鋳造、蝦夷地の調査
- 定信の主な政策:寛政の改革(倹約令、棄捐令、囲米、人足寄場、七分積金、寛政異学の禁など)
田沼意次の経済政策と評価~株仲間・南鐐二朱銀・長崎貿易
紀州系の小身旗本から、5万7,000石の大名へ
田沼意次は享保4年(1719年)、江戸の本郷弓町で生まれた。父の意行は紀州藩の足軽で、徳川吉宗が将軍になったのに伴って幕臣となった人物である。意次は第9代将軍家重の西丸小姓に抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺領600石を継いだ。
転機は宝暦8年(1758年)、郡上一揆の裁定にあたったことを機に、相良藩1万石の大名に取り立てられたことだった。その後、明和4年(1767年)に側用人、明和6年(1769年)に老中格、1772年に老中となる。旗本から大名、老中へと昇進したのは、側用人出身者として初めてとされる。第10代将軍家治の信任のもと、所領は最終的に5万7,000石まで増えた。
株仲間を公認して収入を得る
田沼の政策の柱の一つが、同業者組合である株仲間の公認・奨励である。特権を与える代わりに、冥加金や運上金を納めさせた。これを幕府の収入増加策とみるか、流通を統制する策とみるかで、評価は分かれている。
南鐐二朱銀と、貿易・蝦夷地の評価
南鐐二朱銀は、8枚で1両となる計数銀貨である。金貨単位への一元化の先駆とみる見方がある一方、それが意図的だったかどうかには歴史学者の間で異論がある。鋳造による出目が幕府の利益になったことは確かとされる。
長崎貿易については、「積極的な貿易政策で輸出が増えた」と語られることが多い。しかし、貿易の総量には変化がなかったとする研究もある。長崎会所への統制は田沼以前から進んでおり、寛延元年(1748年)から勘定奉行が長崎奉行を兼任するようになっていた。
蝦夷地については、天明5年(1785年)に調査隊を派遣した。翌年の報告で、ロシアとの密貿易は小規模だと分かり、鉱山開発とロシア交易の構想は断念されている。
賄賂政治という評価はどこまで正しいか
当時は、収賄が落書で風刺された。大正4年(1915年)の辻善之助『田沼時代』は、賄賂を時代の風潮だとしつつ、田沼を先駆的な人物として評価している。1970年代以降は大石慎三郎らが、悪評の多くは失脚後の反田沼派によるもので史料批判が不十分だと主張した。
一方、藤田覚は、大石が根拠とした例の読み方に誤りがあると指摘し、田沼家臣の統制が甘く賄賂が横行したことには、家臣を監督する側の責任があるとした。賄賂は田沼以前から社会問題で、権力が集中していた田沼が目立ったという見方もある。相良藩主としては、街道や港湾の整備、瓦葺の奨励などの善政が評価されている。
松平定信と寛政の改革~倹約令・棄捐令・囲米・寛政異学の禁
田安家の七男から白河藩主、そして老中へ
松平定信は、御三卿・田安家の初代当主、徳川宗武の七男として生まれた。安永3年(1774年)に陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まり、天明3年(1783年)10月6日に家督を継いだ。
この年は天明の大飢饉の年で、白河藩では家臣への俸禄の支給が滞るほどの米不足になった。養父の定邦は、越後領からの米の輸送、会津藩からの米の移送(同年12月までに6,000俵)、他藩や上方からの購入を進めた。これらは定信の助言によるものとされ、対応は奥羽で評判になったという。
天明7年(1787年)6月19日、定信は老中上座・勝手方取締掛に就任した。翌年の3月4日には将軍輔佐も兼ねた。就任の前には天明の打ちこわしがあり、旧田沼派が幕閣から一掃されている。
倹約と財政再建~金蔵81万両から約20万両の備蓄へ
天明8年(1788年)の金蔵の残高は81万両で、田沼時代の末期には、明和期の300万両から大きく減っていた。定信は倹約令や大奥の縮小などで赤字を解消し、失脚のころには約20万両の備蓄を残したとされる。寛政の改革の記述では、田沼時代末期に約100万両の赤字が予想されていたが、倹約と支出削減で黒字に転じたとされる。
棄捐令・囲米・人足寄場・七分積金
寛政元年(1789年)の棄捐令は、旗本・御家人の救済が目的だった。天明4年以前の札差からの借金を棒引きにし、天明5年4月から寛政元年までの借金は年利6%に引き下げ、以後の利子は年利12%とした。札差が貸し渋りに走らないよう、幕府出資の貸付会所(猿屋町会所)も設けた。年末の貸し渋りは約3か月で収まったとされる。
囲米は、諸藩に社倉・義倉を設けさせて穀物を備蓄させる政策である。江戸の町々にも備蓄が求められた。田沼時代に城米・郷倉米の備蓄が放棄されていたことへの対応でもあった。
人足寄場は、天明7年(1787年)5月の打ちこわしを受けて石川島に設けられた、無宿人や浮浪人の収容・職業訓練施設である。治安対策の面もあった。具体案は火付盗賊改の長谷川平蔵がまとめたとされ、一部は幕末まで存続した。
七分積金は、江戸の各町が町入用の節約分の7割を積み立てる救荒基金で、幕府も1万両を加えた。この積立金は明治維新のときも170万両の余剰があり、東京市に接収されたという。
寛政異学の禁と出版統制
寛政2年(1790年)5月24日、林家の門人に古文辞学や古学の学習を禁じ、昌平坂学問所での講義や役人の登用を朱子学に限った。これが寛政異学の禁である。諸藩の藩校にも朱子学を正学とする風潮が広がった。
出版や風俗の取締りも行われた。政治批判は禁じられ、海防論者の林子平が処罰された。洒落本作者の山東京伝や、その版元も処罰を受けている。
田沼意次と松平定信の政治の違いを比較する~通説と近年の見方
経済政策:特権の付与と、農村・町の備え
田沼は株仲間を公認して冥加金・運上金を得た。定信は、農村の備蓄(囲米)や江戸の積立(七分積金)、旧里帰農令(1790年、江戸に流入した地方出身の農民に資金を与えて帰農を促した。強制力はなかった)など、飢饉や困窮への備えに力を入れた。さらに間引きを禁じ、2人目の子の養育金を寛政2年(1790年)に1両、寛政11年(1799年)に2両とするなど、人口を増やす施策も打った。
財政運営:「積極」対「緊縮」は単純化しすぎ
田沼時代にも、拝借金の制限(明和8年)や全面停止(天明3年)、倹約令といった支出抑制策があった。定信の天明7年(1787年)の倹約令は、田沼が天明3年(1783年)から7年間として出した倹約令の残り年数を引き継いだ形だった。一方で田沼は、貸金会所構想や御用金令(天明3年・5年)で新たな財源も探ったが、御用金令は大名からも反発が大きく、発令の2か月後に撤回された。
備蓄の面では、田沼時代は城米・郷倉米の備蓄を放棄していたとされ、定信は逆に備蓄を積み直した。ここは両者の違いがはっきり出る点である。
思想と政治手法:公正化と統制
定信は、田沼期の賄賂政治への反省から、幕政の公正化を掲げた。民衆の救済を重視し、大名との協調も図った。その一方で、異学の禁や出版統制のように、思想や文化への統制は強まった。
近年の研究が示す連続面
通説では、定信は田沼の政策を覆したとされてきた。しかし近年の研究は連続性を重視する。
- 株仲間:定信は大部分を存続させ、運上金の確保も期待していた
- 二朱銀:1788年に明和二朱銀の製造は停止したが、通用は止めず、1790年には西日本でも使用を強制した
- 蝦夷地開発:田沼期の構想は定信を含む幕閣に支持されており、否定されたわけではなかった
- 公金貸付:田沼の時代にも約8万両の公金貸付が行われていた
つまり、二人は正反対の政治家というより、同じ財政危機に別の重心で向き合った、と整理するのが実態に近い。なお、松平定信の項目は出典が不十分との注意書きがあるため、細部の評価は断定せずに読んでほしい。
失脚とその後~田沼の最期、定信の辞任
田沼意次の失脚:意知の死から蟄居まで
天明4年(1784年)3月24日、息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に斬られ、4月2日に死去した。これを機に、意次の権勢は衰えていく。天明6年(1786年)8月25日に将軍家治が死去し、意次は8月27日に老中を辞職した。閏10月5日には家治時代に加増された2万石を没収され、江戸屋敷の明け渡しや謹慎を命じられた。
天明7年(1787年)の打ちこわしの後に旧田沼派が一掃され、10月2日には蟄居・致仕を命じられた。減封は計3万7,000石とされ、相良城は打ち壊された。意次は天明8年7月24日(1788年8月25日)、江戸で亡くなった。
松平定信の辞任と「寛政の遺老」
寛政5年(1793年)7月23日、定信は将軍輔佐・老中を免じられた。老中就任からおよそ6年である。光格天皇が実父に太上天皇の尊号を贈ろうとした尊号一件で、定信が反対し、将軍家斉と対立したことが背景にあるとされる。厳しい緊縮への不満も重なった。
世間では、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が広まったとされる。改革の方針は、松平信明や牧野忠精ら「寛政の遺老」に受け継がれた。信明が1817年に没するまで維持されている。三上参次は、寛政の改革が江戸幕府の崩壊を約50年延ばしたとする見方を示した。一方で、藩の自立化や豪農の成長、対外危機への備えの不足は解決されなかった。
ゆかりの地と関連する人物
相良城跡(静岡県牧之原市)
相良城は、明和4年(1767年)に田沼意次が築城を許され、安永9年(1780年)に完成した城である。三重の天守を含む櫓群と石垣を備えていた。田沼氏の減封後に廃城となり、天明8年(1788年)に徹底的に破壊された。現在、遺構は残っておらず、本丸跡には牧之原市史料館などの市施設があり、二の丸跡・三の丸跡には学校が建っている。
南湖公園(福島県白河市)
白河市の南湖公園は、松平定信が享和元年(1801年)に造成した。もとは大沼と呼ばれた湿地で、浚渫と築堤により灌漑用のため池として整えられ、身分を問わず人々が憩える場として開放された。その姿が現在まで残ることから、日本最古の公園とされる。大正13年(1924年)に国の史跡・名勝に指定されている。
関連する人物
- 徳川家治:第10代将軍。田沼意次を重用した。天明6年(1786年)に死去
- 田沼意知:意次の子で若年寄。天明4年(1784年)に江戸城内で斬られ、死去した
- 徳川家斉:家治の後の将軍。定信の輔佐を受けたが、のちに対立した
- 長谷川平蔵:火付盗賊改。人足寄場の具体案をまとめたとされる
- 松平信明:定信の辞任後も改革の路線を継いだ「寛政の遺老」の一人
よくある質問
田沼意次と松平定信の政治の最大の違いは何ですか。
田沼は株仲間の公認や南鐐二朱銀の鋳造など、収入を増やす策を中心にしました。定信は倹約令や大奥の縮小などで支出を抑え、囲米や七分積金で備えを積む策を中心にしました。
松平定信は田沼意次の政策をすべて否定したのですか。
通説ではそう言われてきましたが、近年の研究は連続面を重視します。定信は株仲間の大部分を存続させ、二朱銀の通用も続け、蝦夷地開発の構想も否定していません。
田沼意次は本当に賄賂政治家だったのですか。
当時、賄賂は落書で風刺されました。ただし、悪評の多くは失脚後の反田沼派によるとする研究があり、一方で家臣の統制が甘く賄賂が横行したとする指摘もあります。評価は研究者によって分かれます。
寛政の改革は何年続きましたか。
定信が老中を務めた1787年から1793年までで、約6年です。定信は寛政5年(1793年)7月に解任されましたが、方針は松平信明らに受け継がれました。
人足寄場とは何ですか。
石川島に設けられた、無宿人や浮浪人を収容して職業訓練を行う施設です。治安対策の面もありました。火付盗賊改の長谷川平蔵が具体案をまとめたとされます。



