結論:家康の血筋は、将軍家・御三家・松平の諸家に分かれて受け継がれ、今も家として続いている
徳川家康の末裔は、一つの家系ではありません。将軍職を継いだ徳川宗家、家康の子を祖とする尾張・紀伊・水戸の御三家、結城秀康に始まる越前松平家など、複数の家に枝分かれして続きました。
江戸幕府の将軍は15代まで続きますが、その全員が家康の直系の子孫というわけではありません。途中で紀州家などから養子が入り、家の継承は血筋と養子縁組を組み合わせて行われました。
明治以降も宗家と御三家は華族として続き、戦後に爵位を失いました。この記事では、すでに亡くなった当主の系譜と、家としての流れだけを扱います。
基本情報
- 人物:徳川家康(徳川宗家の初代)
- 時代:江戸時代(家の系譜は明治以降まで)
- 家康の子:長男の信康、次男の秀康、三男の秀忠、御三家の祖となる義直(九男)・頼宣(十男)・頼房(十一男)ほか
- 将軍家:初代家康から15代慶喜まで
- 御三家:尾張家、紀伊家、水戸家
- 御三卿:田安家、一橋家、清水家(8代吉宗の子と9代家重の子を祖とする)
- 名字:家康は1566年ごろに松平から徳川に改めた。江戸時代に徳川を名乗れたのは将軍家と御三家の嫡流などに限られ、ほかの親族は松平を称した
徳川家康の末裔の系譜:将軍家と御三家の流れ
徳川宗家(将軍家)の家系の流れ
家康は1603年に征夷大将軍となり、将軍職は三男の秀忠、秀忠の子の家光へと渡りました。4代家綱には子がなく、5代綱吉は館林家から養子として入っています。6代家宣は綱吉の兄・綱重が祖である甲府家の出で、その子の7代家継までが将軍の座にありました。
家継の後を継いだ8代吉宗は紀州家の出身です。9代家重、10代家治と吉宗の血筋が続いたあと、11代家斉は一橋家から養子に入りました。12代家慶は家斉の次男、13代家定には子がなく、14代家茂は再び紀州家から、15代慶喜は水戸家の出身で一橋家に入ったのち将軍になりました。
つまり「家康から15代まで父から子へ」という単純な流れではなく、直系が途絶えるたびに、家康の子を祖とする分家や御三卿が将軍家を支えた形です。
御三家:尾張・紀伊・水戸の祖と特徴
御三家は、いずれも家康の男子を祖とします。尾張家は九男の義直で、62万石、名古屋城を居城としました。紀伊家は十男の頼宣で、56万石、和歌山城です。水戸家は十一男(末子)の頼房で、水戸城を居城としました。いずれも将軍家に次ぐ家格として特別に扱われた家です。
将軍を出したのは紀伊家だけで、8代吉宗と14代家茂の2人です。尾張家は将軍を出せませんでした。水戸家も将軍を直接は出していませんが、15代慶喜は水戸の9代斉昭の七男で、一橋家に養子に入って将軍になっています。
水戸家は江戸の小石川邸に常住する定府の大名で、そこから「副将軍」という俗称が生まれたと考えられています。2代光圀は『大日本史』の編纂を始めた人物です。
御三卿:吉宗と家重の子から始まった家
御三卿は、田安家(吉宗の三男・宗武)、一橋家(吉宗の四男・宗尹)、清水家(9代家重の次男・重好)の3家です。田安・一橋の2家に江戸城内の屋敷が与えられたのは1731年と1740年で、1759年に清水家が加わって「三」になりました。
この3家は独自の城を持たず、江戸城内の屋敷に住み、賄料は幕領から充てられました。尾張・紀伊・越前などの家にも養子を送っています。将軍を出したのは一橋家で、11代家斉と15代慶喜です。
枝分かれした家と、明治以降の歩み
松平を名乗る家康の子孫たち
家康の子孫でありながら「松平」を名乗る家もあります。次男の結城秀康は、豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城家を継ぎました。関ヶ原の戦いの後に越前北荘(福井)で68万石を与えられ、越前松平家が成立しています。福井藩はのちに減封を重ね、廃藩のときは32万石でした。
会津松平家の祖・保科正之は、2代将軍秀忠の四男です。信濃の保科家に養子に入り、1643年に会津藩23万石に移りました。松平姓と葵の紋の使用が許されたのは、正之の六男で家督を継いだ松平正容の代の1697年です。
このほか、家康の生母・伝通院の子の系統である久松松平家や、家康の娘・亀姫の系統である奥平松平家のように、血縁によって松平を称した家もあります。
明治維新と華族制度の中で
明治になると、宗家は華族の公爵家となりました。16代の家達は田安家から養子に入り、4歳で家督を継いで静岡藩主となり、1884年に公爵になっています。1903年から約30年間、貴族院議長を務めました。17代の家正は外交官を経て家督を継ぎ、最後の貴族院議長となりました。
御三家の各家も華族に列しました。尾張家は1884年に侯爵、紀伊家も最後の藩主・茂承が1884年に侯爵となっています。水戸家は侯爵家となったのち、1929年に当主の圀順が公爵に昇り、御三家で公爵になったのはこの家だけです。御三卿の田安・一橋は1868年に藩として認められ、1869年に廃藩となりました。御三卿の3家は1884年にそれぞれ伯爵に叙せられました。
松平を名乗る家では、新政府が1868年に、松平姓を賜っていた血縁のない大名家に元の姓へ戻るよう命じました。松平のままの家のうち華族になったのは29家で、徳川姓の12家と合わせると41家です。福井松平家は1888年に侯爵になっています。
戦後と、家の現在
1947年に華族制度が廃止され、各家は爵位を失いました。尾張家は財産税などで資産の多くを失ったと記されています。それでも、尾張家は1931年に設立された財団を通じて伝来の品々を守り、現在は公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館を運営しています。水戸家も財団法人水府明徳会を作って伝来品の散逸を防ぎ、1977年には彰考館徳川博物館が開館しました。
宗家は、旧公爵邸だった東京都渋谷区千駄ヶ谷の土地を1943年に東京府が買収し、のちに東京体育館の敷地となりました。宗家の遺産は徳川記念財団が管理しており、家督は2023年に次の当主に受け継がれたと記されています。尾張家は現当主がいると記されています。紀州家は歴代当主の代数や現当主の扱いが資料で食い違うため、この記事では代数を挙げません。
ゆかりの地と関連する人物
- 徳川美術館(名古屋市):尾張徳川家の伝来品を所蔵・展示する。運営は公益財団法人徳川黎明会
- 彰考館徳川博物館(水戸市、現在の徳川ミュージアム):1977年開館。水戸家の伝来品と古文書を扱う
- 名古屋城・和歌山城・水戸城:御三家それぞれの居城
- 関連する人物:徳川秀忠、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、結城秀康、保科正之、徳川吉宗、徳川慶喜、徳川家達
よくある質問
徳川将軍は全員が家康の直系の子孫ですか?
全員ではありません。たとえば5代綱吉は館林家から、8代吉宗と14代家茂は紀州家から、11代家斉は一橋家から養子に入っています。ただし、いずれも家康につながる家の出身です。
御三家のうち、将軍を出した家はどこですか?
将軍を出したのは紀伊家で、8代吉宗と14代家茂です。尾張家は将軍を出せませんでした。水戸家出身の慶喜は、一橋家に入ってから15代将軍になりました。
「徳川」と「松平」の違いは何ですか?
家康が1566年ごろに松平から徳川へ改めました。江戸時代に徳川を名乗れたのは将軍家と御三家の嫡流などで、ほかの親族は松平を称しました。
家康の家は今も続いていますか?
宗家は2023年に家督が次の当主へ移ったと記されており、尾張家にも現当主がいると記されています。この記事では、存命の方の名前は挙げていません。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。






