1568年の織田信長|天下布武への大いなる一歩

「1568年の織田信長」──日本史上、ひときわ輝きを放つこのフレーズは、織田信長が本格的に歴史の表舞台へと躍り出たターニングポイントを象徴している。戦国時代の武将たちが群雄割拠する中、信長がどうやって勢力を伸ばし、天下を目指す足がかりを得たのか。その大きな転機となったのがまさに1568年なのである。

なぜ1568年が重要なのか?それは、「足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を再興した」という一見ドラマチックな行動にとどまらず、信長の政治手法・経済政策・軍事戦略がグンと進化し、彼が天下布武へのロードマップを具体的に描き始めた年だからである。本記事では、1568年を軸に織田信長が繰り広げた一連の出来事や政治的意図、その結果としてもたらされた変化などを徹底的に紐解いていく。

この記事を読むと、以下のようなメリットがある。

  • 1568年の織田信長が歴史的に持つ意味を深く理解できる
  • 織田信長の行動原理や戦略、外交手法のポイントを整理できる
  • 1568年以降の戦国史・日本史全体の流れを見通せる
  • 信長の人物像に対して、新しい視点を得られる(もし信長がSNSをやっていたら、きっとフォロワー数は爆上がりしていただろう)

歴史の教科書だけでは物足りない方、これから戦国史を本気で学びたい方、あるいは信長ファンの方々に向けて、余すところなく解説していく。では、1568年に織田信長が歩んだ道を一緒にたどってみよう。

1. 1568年における織田信長とは?

まずは1568年に織田信長がしたことは何なのか、ざっくり解説しておこう。戦国時代の織田信長(1534年生まれ)が、今川義元を討ち取った桶狭間の戦い(1560年)で一躍名を上げたのは有名である。ところが、その後の数年間は尾張・美濃の統一や周辺勢力との調整に追われ、全国規模で大きく動くタイミングはもう少し先になる。

では、なぜ1568年が特筆されるのか。それは、室町幕府の再興という名目で上洛(京都へ進軍)を敢行し、名実ともに「天下人」への第一歩を踏み出したからである。上洛と同時に足利義昭を将軍に担ぎ上げることで、信長は朝廷や公家勢力を味方につけつつ、畿内での足場を手に入れる作戦に出た。結果として信長は、この年以降、多くの戦国大名とは一線を画す存在感を放ちはじめるのである。

もし織田信長が現代のXやInstagramを使っていたら「1568年、ついに京都入り。新時代の王にオレはなる!」なんて投稿しているかもしれない。その一言で「いいね!」が10万件くらいついてそうだ。冗談はともかく、1568年を境に信長という武将の立ち位置が、地方大名から全国的権威へとレベルアップしたことは間違いない。

2. 1568年前夜の政局と織田信長の立ち位置

2-1. 室町幕府の衰退と将軍不在

戦国時代の背景として見逃せないのが、室町幕府が実質崩壊していたという点である。応仁の乱(1467年〜1477年)以降、幕府の権威は失墜し、各地の守護大名や戦国大名が力を得て独立的に動き出すようになっていた。

1565年には13代将軍・足利義輝が松永久秀らの攻撃を受けて討たれ、幕府の求心力はますます下落する。義輝の弟である足利義昭は難を逃れたものの、有力大名の支援なしでは将軍になれない状態だった。

2-2. 美濃を平定した信長の次の一手

一方、織田信長は1567年に美濃国を平定し、拠点を岐阜城へ移したばかりだった。「岐阜」という地名は、実は信長が名付け親とされる。孔子が生まれたとされる曲阜(きょくふ)になぞらえ、「岐山(中国の霊山)+曲阜」の文字を合わせたという説が有力だ。

いずれにせよ、織田家は尾張・美濃の二国を手に入れ、経済力と軍事力を大幅にアップさせた。加えて、1570年代以降の安土城築城や楽市・楽座の制度改革など、後に見られる信長の画期的な政策の種がすでに育ち始めていたと考えられる。

2-3. 政局混乱へのチャンス

当時、畿内は三好長慶亡き後の三好氏内部のゴタゴタ、松永久秀の台頭などが絡み合い、さらに将軍不在で混乱が深まっていた。これを“チャンス”とみたのが信長である。足利義昭は室町幕府再興のため、各地の大名に援助を乞うていたが、それに積極的に応じたのが織田信長というわけだ。信長にとっても、「将軍を連れて上洛すれば、畿内の政治・経済の中心地を押さえられる」というメリットが大きかった。

3. 足利義昭を奉じた上洛戦とその背景

3-1. 足利義昭との出会いと同盟

足利義昭は兄・義輝を失ったのち、各地を転々としていた。そこで、朝倉義景(越前の戦国大名)をはじめとする複数の大名に将軍復権の協力を求めるが、思うように進展しない。そんな中で手を差し伸べたのが織田信長である。

信長と義昭の同盟は、織田信長に「合法的に畿内を支配する口実」を与える重要な意味を持っていた。というのも、天下統一を目指すうえで、かつての幕府の威光を無視するわけにはいかないからだ。あくまでも形式上は「義昭様を将軍の座につけるために進軍しますよ」という名目で、信長は大義名分を得たことになる。

3-2. 上洛戦の進行

1568年、信長の軍勢は足利義昭を奉じて上洛戦を開始した。まずは近江(滋賀県)に勢力をもつ六角氏を破り、上洛における障害を排除する。六角氏は室町幕府の重臣を輩出した名門だったが、信長の軍勢の前にあえなく後退。当時の歴史書には、信長の軍勢の行軍スピードや組織化された部隊運用に対する畿内勢力の驚きが記されている。

3-3. 京都での歓迎と反発

こうして1568年10月、織田信長一行は京都に入った。すると、朝廷や公家、町衆などからは「将軍復権の立役者」として歓迎される。一方で、長年畿内を牛耳ってきた三好三人衆や松永久秀らは当然ながら面白くない。信長の進軍に反発を示し、局地的に抵抗を試みた。しかし、義昭の将軍就任(15代将軍)により、表向きは幕府の権威が復活した形になったので、反発勢力は「幕府に弓を引く逆賊」とみなされる危険を伴うようになる。

こうして信長は、実質的には“織田幕府”とも言うべき政治体制の礎を、この1568年に築きはじめたと考えられるのだ。

4. 1568年 織田信長の政治戦略

4-1. 信長流の人心掌握術

「1568年 織田信長」を語るうえで欠かせないのが、彼の政治・外交手腕である。信長は、ただ武力で押し通すだけのタイプではなく、時に懐柔策も巧みに使った。たとえば、朝廷や公家には経済的支援をしながら彼らの支持を取り付け、畿内の町衆には自治を認めて税負担を軽くすることで味方につけた。

当時の京都は、戦乱や権力争いで荒廃していたが、信長がある程度治安を回復させたため、多くの商人や職人はむしろ好意的に迎えたのだ。ゆえに、畿内を拠点として政権基盤を固めることができ、将来的な天下布武への足場としたのである。

4-2. 備えあれば憂いなし:岐阜と畿内の“二重拠点体制”

信長は岐阜城を本拠地としながら、京都の政治にも積極的に関与した。いわば“二重拠点体制”である。これは現代風に言えば、「本社は地方に置きつつ、東京支社を作って日本全体を掌握していく」ようなやり方だ。信長は岐阜と京都をうまく活用しながら、軍事と政治を並行して進めた。

  • 岐阜:自らの直轄地。尾張・美濃の経済力と軍事力を集中。
  • 京都:朝廷・公家・町衆の支持を得つつ、全国大名に対するアピール拠点。

4-3. 将軍足利義昭との微妙なパワーバランス

織田信長が義昭を将軍に担ぎ上げたといっても、いつまでも仲良しこよしでいられるわけではない。義昭にとっては、自分が本当の権力を取り戻すためのパートナーが信長であり、信長にとっては京都支配の“正当性”を得るための存在が義昭であった。両者の利害が一致している間は良いが、やがて両者の思惑がずれ始めると、関係は険悪化していく。その前兆はすでに1568年の段階でも見え隠れしていたと言われている。

5. 戦国大名から“天下人”へ:1568年以降の展開

5-1. 天下布武の文字

織田信長といえば「天下布武」の印判が有名であるが、この印がいつから使われ始めたかは諸説ある。ただ、1568年以降に“天下統一への意志”を公言し始めたとされる点は明確だ。

「武力で天下を平定する」とも解釈される一方、信長本人は「戦だけでなく、商業や文化も含めて新しい統治システムを打ち立てる」というビジョンを抱いていた可能性もある。その一端が後に出てくる楽市・楽座の施策や鉄砲の大量導入、南蛮貿易の振興などで垣間見える。

5-2. 他大名との衝突と同盟

1568年に上洛した後、信長は畿内を足掛かりに他の有力戦国大名とのパワーゲームに突入する。特に浅井長政・朝倉義景との対立が激化し、姉川の戦い(1570年)など重要な合戦が起こるのは、この1568年の上洛を起点とする動きの延長線上にあるといえる。

また、徳川家康との同盟関係(清洲同盟)は、今川氏を衰退させた後も継続され、東方の安全保障を確保するにあたって大きな意義をもった。信長はここでも、「一度味方につけたらそう簡単に離反させない」外交術を駆使したと推察される。

5-3. 軍事改革と鉄砲隊の活用

織田信長が特に評価されるのは、鉄砲隊の有効活用である。1560年の桶狭間の戦い以降、鉄砲の破壊力や運用ノウハウを研究し、隊列や射撃タイミングを組織的に管理する戦術を磨いた。この鉄砲運用ノウハウが、1568年以降の合戦でも遺憾なく発揮され、従来の合戦スタイルを大きく変革していく。

例えば、浅井・朝倉連合との対戦では、単なる打撃力だけでなく、部隊のモチベーションや士気を高めるための施策も徹底していた。現代でいえば企業での「チームビルディング研修」のようなものかもしれない。信長は近代的な軍隊運用に近いアイデアを、既に戦国時代で取り入れていたのだ。

6. 1568年が織田信長に与えた影響

6-1. 政治的なステージアップ

1568年が織田信長にとって意味する最大のポイントは、信長の政治的ステージが跳ね上がったことである。尾張・美濃の地元勢力の大将から、畿内を含む広域支配を実質的に行う“準・天下人”のポジションにジャンプした。将来的に「安土城を築く」「楽市・楽座による自由経済体制を打ち立てる」など、斬新な政策を実施する基盤は、すべてこの年の上洛によって成し遂げたとも言える。

6-2. 朝廷との関係強化

朝廷は長らく戦国大名の内紛に巻き込まれ、経済的にも苦しい立場にあった。そこに信長が上洛してきて、資金援助や警護を行うことで朝廷と良好な関係を築いた。このことが、のちに信長が官位を得たり朝廷から官職を授与される道へとつながっていく。戦国大名であっても、朝廷の認可や支持を得ることは権威付けに欠かせなかったのだ。

6-3. 自信と確信

強敵を破り、将軍を擁立し、京都を制圧する――これによって信長は、自分の戦略や先見性が正しいと一層確信しただろう。部下や諸勢力からの信頼度も急上昇する。

一方で、「敵がいないほど強大になったときこそ、味方が脅威に感じる可能性がある」というパラドックスも生じ始める。実際、将軍足利義昭は徐々に「信長の専横を許せない」と考えるようになり、また多くの大名が「織田の力が大きすぎる」と感じていく。

7. 社会・文化へのインパクト:織田信長の新時代

7-1. 経済改革の布石:商業都市・堺との関係

1568年に上洛した信長は、商業都市として栄えていた堺(現在の大阪府堺市)にも目をつけた。堺は自治都市として独自の政治を行い、大名の支配下には入らない事実上の“自由都市”であった。そこで信長は、堺の商人に対してある程度の自治を認める代わりに、自分への協力を取り付けるような融和策を採る。結果として、堺の貿易利益が織田政権に還元され、軍資金や新技術が供給される好循環が生まれた。

7-2. 鉄砲伝来と南蛮貿易

日本に鉄砲が伝わったのは1543年とされるが、その後に鉄砲生産や運用のメインストリームになったのは織田信長の存在が大きい。南蛮貿易も積極的に取り入れ、火薬や新式の鉄砲を確保しつつ、西洋の文化や技術を吸収した。その基盤が整えられ始めたのも、1568年の上洛によって畿内の経済力にアクセスできるようになったからだ。

7-3. 文化人との交流

織田信長は、茶の湯などの文化にも深く関心を持っていた。千利休や今井宗久などの茶人との交流が知られているが、こうした人々とのネットワーク形成も、「京都という文化の中心地に拠点を構えた」からこそスムーズに進んだ側面がある。人脈を通じて新しい情報やアイデアが集まり、信長の政治手法や経済施策はさらに先鋭化していく。

8. まとめ:1568年 織田信長が切り開いた道

ここまで、1568年の織田信長が歴史上いかに重要な転換点であったかを見てきた。尾張・美濃という地方の大名から、室町幕府を再興する実質的な“新たな支配者”へと飛躍した年、それが1568年なのである。ここでの記事の要点を再度整理してみよう。

  1. 足利義昭を奉じての上洛
    • 将軍不在という政局混乱をチャンスと捉え、室町幕府再興の大義名分を得て京都へ進軍した。
    • 畿内支配の正当性を確立し、信長の政治的地位を一気に引き上げた。
  2. 政治・外交・軍事戦略の深化
    • 朝廷や公家、町衆、商人との関係を丁寧に築き上げ、戦だけではなく経済や文化までを押さえる統合的な政策を展開。
    • 鉄砲をはじめとする近代的な軍事運用をさらに洗練させ、戦国大名の中でも突出した戦力を持つようになった。
  3. 経済政策と文化振興の土台作り
    • 楽市・楽座や堺の自治都市政策など、自由経済を推進する施策の萌芽が見られ、のちの日本の商業発展に大きな影響を与えた。
    • 京都という文化の中心地と結びつくことで、茶の湯や南蛮文化など新しい潮流を積極的に取り込んだ。
  4. 天下布武への道
    • 1568年以降、浅井・朝倉や本願寺勢力との対立を経ながらも、広域支配を拡大。
    • 足利義昭との関係は徐々に悪化し、最終的には義昭を追放するが、このプロセスを通じて信長は「自分こそが新しい時代を築く存在」であることを自覚していく。

こうした流れは、現代の私たちがビジネスやリーダーシップを考える上でも示唆に富んでいる。「タイミングを逃さずに決断を下す」「組織や地域をまとめ上げるビジョンを示す」「新しいテクノロジーをいち早く取り入れる」など、戦国時代の武将とは思えないほどの先見性が1568年の織田信長からはうかがえるのだ。

もし本記事がお役に立ったなら、SNSなどでシェアしていただけるとありがたい。戦国史に興味を持つ多くの人々に、織田信長という“時代を切り開く”男の偉大さが届くことを願っている。

内部リンクのご紹介
織田信長がしたことを簡単に!スッと理解できる革命児の足跡」では、信長の他の重要な戦いや政策についてよりわかりやすく解説している。1568年の織田信長の歩みと併せてぜひご覧いただきたい。

外部リンクのご紹介

もしさらに深く1568年の織田信長を知りたくなったら、こうした公的機関の一次史料に当たるのがおすすめだ。専門家の研究論文なども閲覧できるので、いっそう学びが深まるだろう。