このまとめは、日本史トリビアで取り上げてきた歴史上の人物のうち、子孫・家系図を扱った17本の記事を、時代順に並べたものです。人物ごとに、家は誰が継ぎ、どう続いたか(あるいは絶えたか)を1〜2文で示し、詳しい系譜は各記事へ案内します。
どの記事も、扱うのは亡くなった人物の系譜と、家としての続き方までです。並べてみると、家の続き方にはいくつかの型があります。嫡流が絶えて次男の系統が続いた織田家、養子や娘を通じて続いた豊臣秀長・浅井・伊藤の各家、そして兄弟や甥が継いだ坂本家のような例です。
「〜とされる」「伝わる」と書いた箇所は、資料によって説が分かれる部分、または系図や伝承の形で伝わる部分です。
平安時代・鎌倉時代:絶えた嫡流と、称する家
平将門
将門の子孫を称する家として知られるのは相馬氏と千葉氏です。相馬氏は江戸時代に中村藩(6万石)の藩主家として続きましたが、将門とのつながりは系図や伝承の形で伝わるもので、史料で確かめられた事実とは区別されます。 詳しくは平将門の子孫の記事。
源頼朝
頼朝の家は、清和源氏のうち河内源氏の嫡流です。頼朝、頼家、実朝の3人の将軍で終わり、実朝に実子がなく、1219年(建保7年)1月27日に甥の公暁に討たれたことで、嫡流の血筋は途絶えました。 詳しくは源頼朝の家系図の記事。
戦国・安土桃山時代:家が絶えた例と、娘や養子を通じて続いた例
織田信長
家督は長男・信忠の子である織田秀信(三法師)が継ぎましたが、関ヶ原の戦いのあとに所領を没収され、数年後に病没して嫡流が絶えました。一方、次男・信雄の系統は、柏原藩・高畠藩(のち天童藩)の藩主として明治まで続きました。 詳しくは織田信長の家系図と子孫の記事。
浅井長政とお市の方
浅井氏は祖父・亮政、父・久政、長政の3代で滅びました。血筋は茶々・初・江の三姉妹を通じて続き、それぞれ豊臣秀吉の側室、京極高次の正室、徳川秀忠の継室となりました。 詳しくは浅井長政とお市の方の系譜の記事。
豊臣秀長
秀長が興した大和羽柴家は、養子の秀保が文禄4年(1595年)に17歳で亡くなり、2代で断絶しました。もう一人の養子だった藤堂高吉は名張藤堂家の初代となり、その家は明治維新まで続きました。 詳しくは豊臣秀長の子孫の記事。
豊臣秀吉
実子として確かめられるのは鶴松と秀頼です。秀頼は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で亡くなり、豊臣宗家は滅亡しました。孫の国松は処刑され、天秀尼は仏門に入って正保2年(1645年)に亡くなったことから、直系は孫の代で途絶えたとされます。 詳しくは豊臣秀吉の子孫の記事。
石田三成
長男の重家は出家して寿聖院の住職を継いだとされます。次男の重成は津軽へ逃れて杉山を名乗ったと伝わり、杉山家は弘前藩の重臣として続きました。三女の辰姫は津軽信枚に嫁ぎ、その子の信義は弘前藩3代藩主になりました。 詳しくは石田三成の子孫の記事。
江戸時代:将軍家と大名家の続き方
徳川家康(家系図)
家康の家は、将軍を世襲した徳川宗家を中心に、尾張・紀伊・水戸の御三家、田安・一橋・清水の御三卿へと広がりました。将軍家は15代の慶喜で幕府を終えましたが、徳川の家は明治以降も華族として続きました。 詳しくは徳川家康の家系図と子孫の記事。
徳川家康(末裔)
家康の血筋は、将軍家・御三家のほか、結城秀康に始まる越前松平家など、複数の家に枝分かれして続きました。宗家と御三家は明治以降、華族として続き、戦後に爵位を失ったとされます。 詳しくは徳川家康の末裔の記事。
徳川家康(妻と子)
家康の妻は、正室が築山殿、継室が豊臣秀吉の妹の朝日姫で、ほかに多数の側室がいました。2代将軍秀忠の母は側室の於愛で、御三家の祖となった義直・頼宣・頼房も側室の子です。 詳しくは徳川家康の側室と子の記事。
伊達政宗
跡を継いだのは次男の忠宗で、寛永13年(1636年)に仙台藩の2代藩主になりました。庶長子の秀宗は慶長19年(1614年)に宇和島藩の初代藩主となり、血筋は仙台と宇和島の二つの藩主家に分かれて続きました。 詳しくは伊達政宗の子孫の記事。
平賀源内
源内は生涯妻帯しなかったとされ、実子の系統は確かめられません。若いころ妹に婿養子を迎えさせて家督を譲っており、故郷の志度では末妹の婿・平賀権太夫が平賀家を継いだと伝わります。 詳しくは平賀源内の子孫の記事。
幕末・明治・昭和:当主を継いだのは誰か
坂本龍馬
龍馬本人の子は、確かめられた記述の範囲では確認できません。安政3年(1856年)に家督を継いだのは兄の権平で、龍馬の没後、明治4年(1871年)に龍馬の名跡を継いだのは、姉・千鶴の長男で甥の高松太郎(坂本直)です。 詳しくは坂本龍馬の子孫・坂本家の記事。
勝海舟
嫡男の小鹿が海舟より先に亡くなったため、小鹿の長女・伊代が徳川慶喜の十男・勝精を婿養子に迎えて家が続きました。 詳しくは勝海舟の子孫の記事。
渋沢栄一
嫡男の篤二は素行や健康の問題が重なって、明治45年(1912年)に廃嫡の方針が決まり、翌年に正式に廃嫡されました。栄一は孫の敬三を後継者に指名し、敬三は栄一の没後に子爵を襲爵しました。 詳しくは渋沢栄一の家系図と子孫の記事。
伊藤博文
家を継いだのは実子ではなく養子の伊藤博邦で、明治42年(1909年)11月30日に第2代の公爵として襲爵しました。博邦のあとは長男の伊藤博精が昭和6年(1931年)に第3代を継ぎました。 詳しくは伊藤博文の家系図と子孫の記事。
犬養毅
犬養家は備中の大庄屋の家から出ました。長男の彰は継母と折り合わず廃嫡され、三男(次男とする説もある)の犬養健が家を継ぎました。長女の操は外交官の芳澤謙吉に嫁いでいます。 詳しくは犬養毅の家系図と子孫の記事。
まとめ
家の続き方は、嫡流が絶えて別の系統が続いた家、養子や娘を通じて続いた家、藩主家や華族として明治以降まで残った家など、人物ごとに違います。同じ「子孫」を扱う記事でも、血筋のつながりが史料で確かめられる場合と、系図や伝承にとどまる場合があります。
気になる人物がいれば、上のリンクから各記事へ進んでください。当主の系譜や分家・ゆかりの家、よくある誤解まで詳しく確かめられます。
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