結論:浅井氏は長政の代で滅びたが、血筋は三人の娘を通じて続いた
浅井長政は北近江の戦国大名で、織田信長の妹・お市の方を妻に迎えて同盟を結びました。しかし1570年(元亀元年)に信長と敵対し、1573年(天正元年)9月1日、小谷城で自害します。浅井氏は祖父・亮政、父・久政、長政の3代で滅びました。
一方、長政とお市の間に生まれた茶々・初・江の三姉妹は、それぞれ豊臣秀吉の側室、京極高次の正室、徳川秀忠の継室となりました。大名家としての浅井氏は絶えても、娘たちとその子の世代を通じて、血筋は戦国から江戸時代へとつながっていきます。この記事では、すでに亡くなった歴史上の人物の範囲で、その流れをたどります。
基本情報
- 浅井長政:天文14年(1545年)生まれ、天正元年9月1日(1573年9月26日)没、享年29
- お市の方:伝承では天文16年(1547年)生まれ、天正11年4月24日(1583年6月14日)没、享年37
- 時代:戦国時代(室町時代末期)
- 立場:長政は北近江の戦国大名で浅井氏最後の当主。お市は織田信長の妹とされる(従姉妹とする説もある)
- 子:茶々・初・江の三姉妹のほか、嫡男の万福丸など
- 墓所:長政は滋賀県長浜市の徳勝寺、お市の方は福井市の西光寺
浅井長政とお市の方の結婚と小谷城の戦い
織田・浅井同盟とお市の結婚
長政は15歳で元服したとき、近江南部の六角義賢から一字をもらって賢政と名乗り、六角氏に従う立場にありました。翌年に六角氏との野良田の戦いで勝ちました。のちに長政と改名しました。
その長政が、尾張から美濃へと勢力を広げる信長と結んだのが、お市との婚姻です。ただし、結婚の時期ははっきりしていません。永禄7年(1564年)とするのが従来の説で、永禄10年(1567年)や永禄11年(1568年)の初めとする説、さらに早い時期とする説まであります。お市は長政の継室にあたります。
同盟の破綻
1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めた金ヶ崎の戦いで、長政は織田方に敵対しました。この裏切りの理由も一つに定まっておらず、諸説があります。同年6月には姉川の戦いで朝倉軍とともに織田・徳川の連合軍と戦い、敗れました。夫の長政と兄の信長の間で、お市は立場の難しい時期を迎えたことになります。
1573年、小谷城の落城
1573年8月8日、浅井家の重臣・阿閉貞征が織田方に寝返りました。信長は約3万の軍勢で北近江に入って虎御前山に本陣を置き、長政は約5,000の兵で小谷城に籠もります。救援に来た朝倉義景は敗れ、8月20日に自刃して朝倉氏は滅びました。
8月27日の夜、羽柴秀吉が小谷城の京極丸を攻め取り、本丸の長政と小丸の久政の連絡を断ちます。久政は自害しました。長政は、嫡男の万福丸を家臣に付けて城外へ逃がしたうえで、9月1日に赤尾屋敷で自害し、小谷城は落ちます。『信長公記』は長政の死を8月28日としますが、長政が片桐直貞に宛てた感状から、命日は9月1日と分かっています。
お市と三人の娘は、織田方に引き渡されたとされています。逃げ延びた万福丸は敦賀で捕らえられ、処刑されました。そのほかの男子には、次男の万寿丸、三男の喜八郎(井頼)、四男の円寿丸の名が伝わりますが、その後の詳細はここでは取り上げません。
浅井三姉妹とお市のその後
お市の再婚と北ノ庄城の最期
小谷城の落城後、お市と娘たちは織田家に迎えられました。1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が亡くなった後、お市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚します。再婚を取り持ったのが誰かについては、秀吉説や織田信孝説があり、一つに定まっていません。
1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れると、お市は居城の北ノ庄城から逃げることを選びませんでした。天正11年4月24日(西暦6月14日)、勝家とともに自害します。享年37。死の前に、娘たちを秀吉のもとへ送り、保護を頼む手紙を添えたと伝えられています。
三人の娘たちの道
- 茶々(のちの淀殿):豊臣秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を産みました。
- 初(のちの常高院):京極高次の正室になりました。
- 江(のちの崇源院):佐治一成、豊臣秀勝と結婚したのち、徳川秀忠の継室となりました。
三姉妹は、秀吉の豊臣家、京極家、徳川将軍家という、立場の異なる三つの家に入りました。のちに豊臣家と徳川家が対立する時代に、茶々の子の秀頼と、江の娘の千姫が夫婦になっていることも、この家系の特徴です。
浅井家の血筋はどう続いたか:三姉妹の子の世代
茶々の子
茶々の子は鶴松と秀頼です。秀頼は、江と秀忠の娘である千姫と結婚しました。つまり秀頼と千姫は、母方でともに浅井長政の孫にあたる、いとこ同士の夫婦です。
江の子
江は、最初の夫・秀勝との間に娘の完子(豊臣完子)を産みました。秀忠との間には、千姫、のちに京極家に嫁いだ初姫、そして徳川家光と徳川忠長などが生まれています。三代将軍の家光は江の子、つまり長政の外孫にあたります。長政は、家光の母方の祖父という縁から、没後の1632年(寛永9年)に従三位・権中納言を追贈されました。
初と京極家
初は京極高次の正室になりました。Wikipediaの浅井三姉妹の項には、初の子の名は挙げられていません。ここでは、確かめられない子の名を書くことは控えます。
こうして見ると、滅びた浅井氏の血は、豊臣家・京極家・徳川将軍家という三つの流れの中に、母方の祖先として受け継がれていったと言えます。ただし、大名家としての浅井氏の当主が続いたわけではありません。
ゆかりの地と関連する人物
- 小谷城跡(滋賀県長浜市):小谷山(約495メートル)にあった山城。亮政が築き、久政と長政が拡張しました。国の史跡に指定されています。現在は建物は残らず、土塁、曲輪、空堀、石垣などが見られます。落城後に廃城となり、秀吉は琵琶湖に近い長浜城を築きました。熊の目撃があるため、訪れるときは注意が必要です。
- 徳勝寺(長浜市):長政の墓所があります。
- 西光寺(福井市):お市の方の墓所があります。お市の供養にゆかりの寺院は、ほかにも伝わっています。
- 関連する人物:織田信長(お市の兄)、浅井久政(長政の父)、柴田勝家(お市の再婚相手)、豊臣秀吉(小谷城攻めの将、のちに茶々の夫)、京極高次(初の夫)、徳川秀忠(江の夫)
よくある質問
お市の方が、両端を縛った小豆の袋を信長に送った話は本当ですか。
金ヶ崎の戦いのとき、お市が挟み撃ちを知らせるために送ったという話は『朝倉家記』に見えますが、後世の創作と考えるのが一般的です。史実として扱うことはできません。
長政とお市が結婚したのはいつですか。
はっきりしていません。永禄7年(1564年)とする説、永禄10年から11年の初めとする説などがあります。
長政の頭蓋骨を杯にしたという話は本当ですか。
いわゆる髑髏杯の逸話は、現在では作り話とされています。
長政の命日はいつですか。
9月1日(天正元年、西暦1573年9月26日)です。『信長公記』は8月28日としていますが、長政の感状から9月1日と分かっています。
浅井三姉妹はそれぞれ誰と結婚しましたか。
茶々は豊臣秀吉の側室、初は京極高次の正室、江は佐治一成、豊臣秀勝を経て徳川秀忠の継室になりました。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。






