結論:栄一の家督は嫡男・篤二を飛ばし、嫡孫の渋沢敬三が継いだ
渋沢栄一の家を継いだのは、子ではなく孫の渋沢敬三です。当初は栄一の嫡男・篤二が跡取りと目されていましたが、明治末から大正初めにかけての素行や健康の問題が重なり、1912年(明治45年)1月の渋沢同族会で廃嫡の方針が決まりました。栄一は篤二の長男・敬三を後継者に指名し、敬三は栄一の没後に子爵を襲爵しました。
栄一には二人の妻と複数の子がいて、夭逝した子や庶子を含めると多数の子女がいたとされますが、正確な人数は分かっていません。この記事では、すでに亡くなった人物に限って、家がどうつながったかをたどります。現代に生きる子孫の個人名や職業には触れません。
基本情報
- 人物:渋沢栄一(1840年〈天保11年〉生まれ、1931年〈昭和6年〉11月11日没)
- 時代:幕末から明治・大正・昭和初期(実業家として明治時代に活躍)
- 最初の妻:千代(1841年〜1882年)。尾高惇忠の妹で、栄一の従妹にあたる
- 後妻:兼子(1852年〜1934年)。1883年(明治16年)に栄一の後妻となったとされる(1885年末とする異説もある)
- 家督の流れ:栄一、嫡孫の敬三(嫡男・篤二は1912年に廃嫡の方針が決まり、1913年に正式に廃嫡)
- 墓所:谷中霊園の渋沢家墓地
- 家系を知る手がかり:渋沢栄一の項の家族・親族の節、渋沢敬三・渋沢篤二の項
渋沢栄一の家系図:当主の系譜をたどる
二人の妻と子どもたち
栄一の最初の妻は千代です。千代は栄一の従兄・尾高惇忠の妹で、栄一にとっては従妹でもありました。千代は1882年(明治15年)にコレラで亡くなり、栄一は42歳でした。その後、栄一は深川の豪商・伊藤八兵衛の娘である兼子を後妻に迎えました。時期は1883年とされますが、1885年末とする異説もあります。
千代の子には、歌子、琴子、篤二(1872年〜1932年)がいます。歌子は穂積陳重に、琴子は阪谷芳郎に嫁ぎました。兼子の子には、武之助、正雄などがいます。このほか、大内くにという女性との間に生まれた文子と照子がおり、文子は尾高次郎に、照子は大川平三郎に嫁いでいます。
この嫡出の子女と、その配偶者らで組織されたのが渋沢同族会です。家の大きな決定は、この場で話し合われました。
養子・平九郎と尾高家
栄一の家系を語るとき、養子の平九郎(1847年〜1868年)も欠かせません。平九郎は尾高惇忠の弟、つまり千代の弟です。姉の千代が栄一と結婚したことで、栄一と義兄弟になりました。1867年に栄一がパリ万国博覧会の使節団に随行してフランスへ渡ると、平九郎は栄一の見立養子(相続人)となり、江戸で暮らし始めました。
ところが幕府が崩れると、平九郎は彰義隊に加わり、のちに分かれた振武軍に参加します。1868年(慶応4年)5月23日の飯能戦争で振武軍は新政府軍に敗れ、平九郎は越生方面で新政府軍の斥候と出会い、22歳で命を絶ちました。遺体は地元の人々によって越生町の全洞院に葬られ、のちに谷中の渋沢家墓地にも改葬されました。栄一が最初に定めた跡継ぎは、こうして戊辰戦争のなかで亡くなっています。
嫡男・篤二の廃嫡
篤二は、兄が早く亡くなったため跡取りとして育てられました。1897年から家業の倉庫業を任され、1909年には、そこから発展した澁澤倉庫の会長になっています。1895年に橋本敦子と結婚し、翌1896年に長男の敬三が生まれました。
転機は明治末です。女性問題、金銭問題、素行不良、健康問題が重なり、1912年1月の渋沢同族会で廃嫡の方針が決まりました。翌1913年に正式に廃嫡となります。当時の新聞は、身体の弱さや病気を理由として報じました。一方、のちの評伝研究では、女性問題や浪費といった素行が大きく影響したとされています。
廃嫡後、篤二の妻・敦子は渋沢家の本邸を離れ、3人の子とともに借家を転々としたといいます。ただし、篤二の人生はそこで終わりませんでした。1922年には会社の役職に戻り、1927年に澁澤倉庫の取締役会長に就いています。写真、狩猟、犬の飼育、邦楽や芝居など多くの趣味を持ち、1932年に白金の自宅で亡くなりました。もっとも、家制度の上で家督に復権した記録はありません。
嫡孫・敬三への家督
篤二が廃嫡されると、栄一は孫の敬三を後継者に指名しました。1915年には澁澤同族株式会社が設立され、敬三は初代社長に就きます。1931年に栄一が亡くなると、敬三が子爵を襲爵しました。
敬三は横浜正金銀行に勤めたのち、第一銀行などの取締役を務め、1944年に第16代日本銀行総裁になりました。1945年には幣原内閣の大蔵大臣として、預金封鎖や新円切り替えにあたっています。民俗学者としての顔もあり、柳田國男との出会いをきっかけに、私設博物館「アチック・ミューゼアム」を開き、漁業史の研究でも知られます。1963年に満67歳で亡くなりました。
栄一の家督は、嫡男の篤二が廃嫡されたため、孫の敬三が継ぎました。この点が、渋沢家の系譜でもっとも分かりやすい転換点です。
分家・ゆかりの家と、よくある誤解
婚姻でつながった家々
栄一の娘婿には、穂積陳重、阪谷芳郎、大川平三郎がおり、外孫には穂積重遠、阪谷希一らがいます。
従兄・渋沢喜作の家
栄一には、同じ姓の従兄弟・渋沢喜作(成一郎、1838年〜1912年)がいます。喜作は栄一とともに攘夷運動に加わり、一橋家に仕え、戊辰戦争では彰義隊の頭取となったあと脱隊して振武軍を率いました。明治になると大蔵省に出仕し、のちに栄一の支援を受けて渋沢商店を設立しています。長男の作太郎は渋沢商店を継ぎ、三男の義一は横浜の実業界で活躍しました。ここは栄一の家とは別の家筋で、同じ姓でも直系の系譜とは区別して見る必要があります。
よくある誤解
一つめは、栄一の嫡男の篤二が家を継いだという思い込みです。実際には篤二が廃嫡され、敬三が継いでいます。二つめは、血縁と姻戚の混同です。栄一の最初の妻・千代は尾高家の出身なので、尾高家は栄一の妻方の家であり、栄一の子孫の家ではありません。同じ理由で、娘の嫁ぎ先である穂積家・阪谷家も、渋沢家の当主の系譜には入りません。
三つめは、家系図の人数です。栄一の子は夭逝した子や庶子を含めると多数で、二十人近くとする説や、一説には50人とする説もあり、数え方によって人数が変わります。正確な人数は分かっていません。
四つめは、ネットなどで広まりやすい「有名人は子孫か」という話です。この記事では、存命の人物の名前を出さない方針のため扱いません。家系を調べるなら、まず亡くなった人物の続柄を、Wikipediaの人物記事や渋沢史料館などの公的な資料で確かめるのが確実です。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの場所
- 谷中霊園の渋沢家墓地:栄一の墓所。養子の平九郎も改葬されている
- 全洞院(埼玉県入間郡越生町):平九郎の遺体が最初に葬られた寺
- 渋沢史料館(東京都北区西ケ原2丁目16番1号、飛鳥山公園内):栄一の生涯と事績を扱う登録博物館で、1982年に開館し、1998年に本館が新築された。公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営する
旧渋沢家飛鳥山邸の晩香廬と青淵文庫は、国の重要文化財に指定されています。開館日や料金は変わることがあるため、訪れる前に史料館の公式案内で確かめてください。
関連する人物
- 渋沢篤二:栄一の嫡男。廃嫡後も実業の世界で役職に戻り、1932年に没した
- 渋沢敬三:篤二の長男で栄一の嫡孫。日本銀行総裁、大蔵大臣、民俗学の支援者
- 渋沢平九郎:栄一の見立養子。1868年の飯能戦争で22歳で亡くなった
- 尾高惇忠:栄一の従兄で、妻・千代の兄。富岡製糸場の初代場長とされ、第一国立銀行の支店で支配人も務めた(1830年〜1901年)
- 渋沢喜作:栄一の従兄弟で、幕末からの同志。渋沢商店を創立した
よくある質問
渋沢栄一の家は誰が継いだのですか。
孫の渋沢敬三です。嫡男の篤二が1913年に廃嫡されたため、栄一が篤二の長男・敬三を後継者に指名し、栄一の没後に敬三が子爵を襲爵しました。
栄一の妻は何人いましたか。
正式な妻は、千代(1841年〜1882年)と後妻の兼子(1852年〜1934年)の二人です。千代はコレラで亡くなり、その後、栄一は兼子を迎えました。このほか妾の大内くにがいたと記されています。
尾高惇忠は栄一の子孫の家ですか。
違います。惇忠は栄一の従兄で、妹の千代が栄一の最初の妻でした。栄一の妻方の家であり、栄一の子孫の家ではありません。
渋沢同族会とは何ですか。
栄一の嫡出の子女と、その配偶者らで組織された会です。1912年1月の会合で、篤二の廃嫡方針を決めました。
現代の子孫について書かれていますか。
現代の家族の個人名や職業は、この記事では扱いません。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。






