結論:伊藤家は養子の博邦が継ぎ、公爵家として続いた
伊藤博文の家は、実の息子ではなく養子の伊藤博邦が継ぎ、公爵家として続きました。博邦は博文の没後の1909年(明治42年)11月30日に第2代として公爵の地位を受け継ぎ、そのあとは長男の伊藤博精が1931年(昭和6年)に第3代を継ぎました。
博文の娘は、次女の生子が末松謙澄と、三女の朝子が西源四郎と結婚しました。長女の貞子は幼くして亡くなっています。博文には梅子とのあいだの実子だけでなく、養子や庶子もおり、家族の構成はやや複雑です。この記事では、すでに亡くなった世代を中心に、伊藤家の系譜を順にたどります。
基本情報
- 伊藤博文:1841年10月16日(天保12年9月2日)生まれ、1909年(明治42年)10月26日没
- 時代:江戸末期から明治時代
- 立場:初代の内閣総理大臣を務めた政治家。公爵に叙された(1907年9月21日)
- 出身:周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)
- 妻:先妻・すみ子、継妻・梅子
- 家督:養嗣子の伊藤博邦が継承
伊藤博文の家系図:妻・養子・娘たち
先妻すみ子と、継妻の梅子
博文の最初の妻はすみ子で、入江九一と野村靖の妹です。博文は1866年(慶応2年)にすみ子と離婚し、その後に梅子が継妻となりました。
梅子は1848年に長門国で生まれ、木田久兵衛の長女です。下関の置屋の養女となり、芸妓として「小梅」を名乗っていました。1864年ごろ、博文と出会ったとされます。博文が初代の内閣総理大臣になると、梅子は初の内閣総理大臣夫人になりました。
梅子は気が強く向学心にあふれた人で、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも努めたといいます。身だしなみにも気を配り、「婦徳の鑑」と称されました。博文が1909年に亡くなったあとは、神奈川県大磯の滄浪閣を離れ、東京の娘の嫁ぎ先などを転々としました。梅子は1924年(大正13年)4月12日に肺炎で亡くなっています。
家を継いだ養子・伊藤博邦
博邦は1870年(明治3年)に生まれました。実の父は長州藩士の井上光遠で、井上馨の兄にあたります。四男だった博邦は、3歳のころから博文の家で育てられ、8歳のときに養嗣子になりました。1907年に、名を勇吉から博邦へ改めています。
博邦は1891年に宮中の式部官となり、1926年から1929年まで式部長官を務めました。貴族院の公爵議員も、1909年から亡くなるまで務めています。妻は高島嘉右衛門の長女で、長男が伊藤博精です。博邦は1931年(昭和6年)6月9日に亡くなりました。
娘たちの結婚
- 長女・貞子:幼くして亡くなった
- 次女・生子(1868〜1934):1889年(明治22年)に末松謙澄と結婚
- 三女・朝子(1876〜1944):1893年(明治26年)にルーマニア公使の西源四郎と結婚
生子の夫・末松謙澄は、1855年生まれ、1920年没の政治家です。1878年にイギリスへ留学し、のちに法制局長官、逓信大臣、内務大臣などを務めました。1907年には子爵になっています。博文の知遇を得たのは、1875年に正院御用掛となったころのことで、生子との結婚はそれから十数年後の1889年です。
庶子の文吉
博文には、梅子以外の女性とのあいだに生まれた子もいました。長男にあたる文吉(1885〜1951)は庶子で、木田幾三郎の長男として育てられ、のちに戸籍上で博文の養子になりました。文吉は1909年に男爵になっています。
公爵家の当主の流れと、伊藤家のゆかりの地
公爵家の当主の系譜
- 初代:伊藤博文。1907年に公爵になる
- 第2代:伊藤博邦(養嗣子)。1909年に襲爵
- 第3代:伊藤博精(博邦の長男)。1931年に襲爵
博精は1899年に生まれ、1962年に亡くなりました。博文からみると養孫にあたります。1922年に東京農業大学を卒業し、1923年に三井合名会社へ入社したあと、李王職御用掛や掌典などを務めました。貴族院の公爵議員としては、1947年に貴族院が廃止されるまで在任しています。博精の妻は高橋是清の孫娘だと、伊藤博文の項に記されています。
三代の公爵が重なる年
年を並べると、家督の動きが見えてきます。1907年(明治40年)9月21日に博文が公爵に叙され、同じ1907年に博邦は名を勇吉から博邦に改めました。博文が亡くなった1909年の11月30日には博邦が襲爵し、博邦が亡くなった1931年には博精が第3代を継いでいます。博精の襲爵は1931年7月1日で、博邦の死去からおよそ3週間後でした。養子から養子の子へと、血縁ではなく「家」の継承が続いた点が、この家系の特徴です。
また、梅子の人柄は芥川龍之介の『花火』にも描かれており、内閣総理大臣夫人としての梅子の姿は、文学作品を通じても知られています。
養孫は多数にのぼる
Wikipediaの伊藤博文の項には、養孫として博精のほか伊藤博通、伊藤博約など複数の名前が並びます。いずれも「博」の字を名に持ちます。ただし、それぞれの経歴は確かめられていないため、ここでは触れません。
始祖を孝霊天皇とする系譜書
『伊藤博文伝』には「伊藤公爵家系譜」があり、始祖を孝霊天皇としています。これは伝承として紹介されているもので、史実として確かめられた系譜ではありません。博文自身は百姓の出で、父は十蔵です。母は琴子といい、秋山長左衛門の長女でした。家系図を「古い名家」の話として語る俗説には、注意が必要です。
ゆかりの地と関連する人物
- 山口県光市の伊藤公記念公園:生家(復元)、旧伊藤博文邸の伊藤公記念館、伊藤公資料館があります。
- 萩市椿東:1854年(安政元年)から博文の父が居住した旧宅があります。伊藤家の菩提寺は萩市の報恩寺です。
- 東京都品川区西大井:伊藤家の墓所のある地域です。西大井の別邸は、一部が萩市へ移築されています。
- 神奈川県大磯町:滄浪閣があり、博文が別邸を置いた地として知られます。
- 関連する人物:入江九一・野村靖(先妻すみ子の兄)、井上馨(博邦の伯父)、末松謙澄(娘婿)、西源四郎(娘婿)、高島嘉右衛門(博邦の妻の父)
よくある質問
伊藤博文の跡を継いだのは誰ですか。
養子の伊藤博邦です。博邦は井上光遠の四男で、井上馨の甥にあたります。博文の没後、1909年に第2代の当主になりました。
伊藤博文の妻は誰ですか。
先妻はすみ子、継妻は梅子です。すみ子とは1866年に離婚し、そののちに梅子が継妻になりました。
伊藤博文の娘は誰と結婚しましたか。
次女の生子は1889年に末松謙澄と、三女の朝子は1893年にルーマニア公使の西源四郎と結婚しました。長女の貞子は幼くして亡くなっています。
伊藤博文の孫は誰ですか。
博邦の長男の博精は、博文の養孫にあたります。なお、博文自身は一人っ子で、兄弟姉妹はいなかったとされます。
伊藤家の公爵位はいつまで続きましたか。
博文が初代、博邦が第2代、博精が第3代で、博精への継承は1931年です。博邦の没後、博精は同じ年に貴族院の公爵議員にもなりました。この記事で確かめられたのは、博精の在任が貴族院廃止の1947年までだった点までです。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。





