結論:三人は「同盟→主従→天下人の交代」でつながり、権力は信長から秀吉、家康へ受け継がれた
織田信長(1534〜1582)、豊臣秀吉(1537〜1598)、徳川家康(1543〜1616)は、信長と家康が同盟を結び、秀吉が信長の家臣として出世し、のちに家康が秀吉に臣従する、という関係で結ばれていた。信長が本能寺で倒れたあと秀吉が主導権を握り、秀吉の死後に関ヶ原の戦いを経て家康が江戸幕府を開いた。
「三英傑」という呼び名は当時のものではない。Wikipedia によると、尾張・三河をまとめた愛知県が成立した明治期に、郷土の英雄として形づくられた考え方とされる。有名な「鳴かぬなら」の句も、三人本人の作ではない。魅力と関係性を、確かめられた事実と後世の俗説に分けて見ていく。
基本情報
- 織田信長:天文3年(1534年)生まれ、天正10年(1582年)6月2日没、享年49。尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男。本能寺の変で明智光秀の謀反に遭い自害した
- 豊臣秀吉:天文6年(1537年)生まれ(1536年説もある)、慶長3年(1598年)8月18日没、享年62。尾張国中村の出とされるが確定はしていない。伏見城で死去
- 徳川家康:天文11年12月26日(1543年1月31日)生まれ、元和2年(1616年)4月17日没、享年75。駿府城で死去。慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり幕府を開いた
- 時代:戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期
- 三人の立場:信長は織田家の当主、秀吉は信長の家臣から関白・太政大臣へ、家康は三河の松平家から出て江戸幕府の初代将軍へ
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係性:同盟、主従、臣従の流れ
信長と家康:桶狭間のあとに結ばれた同盟
永禄3年(1560年)5月19日、信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った。家康はそのころ今川方にいたが、義元の死を受けて5月23日に岡崎城へ入り、今川から独立する。その後、信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。成立の年は、家康の Wikipedia の記述の中でも1561年と1562年の二通りが出てくる。
この同盟は信長の晩年まで続いた。信長は三方ヶ原の戦い(1572年)で家康へ援軍を送り、長篠の戦い(1575年5月21日)では両者が共に武田軍と戦っている。一方で、天正7年(1579年)には家康の嫡男・松平信康の処分が問題になったと伝えられる。対等に近い同盟でも、信長の力が上回っていく中で、家康側に重い判断が迫られる場面があった。
信長と秀吉:小者から方面軍司令官へ
秀吉が織田家に仕えた時期は、1554年ごろとする説が一般的で、研究者の中には1558年9月とみる人もいる。確定していないが、低い身分から出発したことは諸説に共通する。秀吉は金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)を務め、のちに小谷城攻めにも加わった。元亀4年(1573年)7月には名字を木下から羽柴に改め、天正5年(1577年)10月には中国方面の司令官になっている。
信長が家臣を登用した傾向について、Wikipedia は、尾張出身の譜代の家臣を要職に就けることが多く、明智光秀や細川藤孝は例外的な存在だったと記す。秀吉は尾張の出身で、信長の側で実績を積んだ家臣だった。
秀吉と家康:戦って、臣従を引き出された
本能寺の変(1582年6月2日)の11日後、6月13日に秀吉は山崎の戦いで光秀を破った。その後の清洲会議(6月27日)、賤ヶ岳の戦い(1583年4月)を経て、秀吉は織田家中で主導権を握る。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、織田信雄と組んだ家康が秀吉と戦った。3月に家康が尾張へ出兵し、4月9日に長久手で両軍が激突している。同年11月に和睦が成立し、家康は次男を人質に出した。秀吉はさらに、天正14年(1586年)5月に妹の朝日姫を家康の継室として嫁がせ、9月には母の大政所を人質として送った。家康はこれを受けて上洛し、10月27日に大坂城で秀吉に会って臣従を表明した。戦いでは決着がつかなくても、婚姻と人質という外交の積み重ねで主従関係をつくったことが分かる。
三人それぞれの魅力と功績:信長の革新、秀吉の上昇、家康の長期政権
織田信長:奇襲と新しい城づくり
信長の代名詞は桶狭間の戦いだが、そのほかにも新しい試みが記録されている。永禄11年(1568年)9月には足利義昭を奉じて上洛し、天正4年(1576年)に安土城の築城を決めて4月に着工した。天守は天正7年(1579年)5月に完成している。印章「天下布武」は1567年が初見とされる。ただし Wikipedia は、この「天下」を日本全国ではなく五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものだったとしている。
楽市楽座については注意が要る。Wikipedia の信長の項は、この政策を最初に行ったのは南近江の六角氏であり、信長が最初ではないと記す。「信長が発明した」と書かれがちな話は、確かめられる範囲では言い過ぎになる。
豊臣秀吉:関白就任から全国平定まで
秀吉は天正13年(1585年)7月11日に関白宣下を受け、翌年9月9日に豊臣の姓を与えられ、12月25日に太政大臣となった。平定は段階的で、1585年に四国、1587年に九州、1590年3月から小田原征伐を行い、北条氏直が7月5日に降伏した。1591年9月までに奥羽の九戸政実の平定が終わり、小田原征伐と奥羽仕置によって天下統一が達成されたとされる。
内政では、尺を統一したうえで全国で検地が行われた。天正16年(1588年)7月8日には刀狩令が出されている。一方、対外政策の朝鮮出兵は、1592年3月の文禄の役で16万の兵を出し、慶長2年(1597年)の慶長の役でも14万の軍を送った。秀吉の晩年は、鶴松の死(1591年)、秀次の切腹(1595年)、秀頼の誕生(1593年)と、後継をめぐる出来事が続いた。
徳川家康:人質、臣従、そして関ヶ原
家康は天文16年(1547年)8月2日、数え6歳で駿府へ送られ、その途中の2年間は尾張の熱田にある加藤順盛の屋敷に留め置かれたと記される。独立後の永禄7年(1564年)には三河一向一揆が起きている。
天正18年(1590年)、北条氏の降伏後に関東への移封を命じられ、8月1日に江戸へ入った。秀吉の死後の慶長3年(1598年)7月には五大老の制度が定められ、家康もその一人になった。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いを経て、慶長8年(1603年)2月12日に伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。2年後の1605年には将軍職を嫡男・秀忠へ譲り、1607年から駿府で「大御所」として政治を担った。
三英傑をめぐる諸説と俗説:ホトトギスの句、天下餅、三段撃ち
「鳴かぬなら」の句は三人の作ではない
三人の性格を表す句として、ホトトギスの句がよく知られる。Wikipedia の「三英傑」の項によると、これらは江戸後期に平戸藩主・松浦清(静山)が著した随筆『甲子夜話』に載るもので、後世の人が作った川柳であり、三人本人の言葉ではない。
- 信長:「なかぬなら殺してしまへ時鳥」
- 秀吉:「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」
- 家康:「なかぬなら鳴まで待よ郭公」
性格の紹介としては分かりやすいが、本人が語った証拠にはならない。ここまでの時系列で見ると、家康が人質時代から長い時間をかけて地位を固めた点は事実として確かめられるので、「待つ家康」というイメージには根拠がないわけではない。ただ、それは句の真偽とは別の話である。
「天下餅」の狂歌:三人の継承を一言で表す
江戸時代の狂歌に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」がある。三人が順に天下人の地位を受け継いだことを、餅づくりにたとえたものだ。Wikipedia は、この狂歌を描いた歌川芳虎作とされる浮世絵に明智光秀も描かれており、絵の上では三人だけに限られないと指摘している。
長篠の「三段撃ち」と信長の鉄砲
信長といえば鉄砲を大量に使った武将として知られる。Wikipedia は、信長が家臣から鉄砲を集めて多く用いたと記す。ただし、長篠の戦い(1575年)の「三段撃ち」については、現在は創作の可能性が高いと考えられていると書かれている。教科書やゲームで見慣れた場面でも、史料の見直しで評価が変わっている例である。
本当に「天下統一」を成し遂げたのは誰か
三人の関係でよく問われるのが、統一を完成させたのは誰かという点だ。信長は本能寺の変で倒れており、全国の平定には至っていない。上で見たとおり、秀吉は小田原征伐と奥羽仕置で統一を達成したとされる。家康は、その統一の上に幕府を開き、関ヶ原と大坂の陣を経て、豊臣氏を滅ぼした。慶長20年(1615年)5月7日の天王寺・岡山の戦いの翌日、秀頼と淀殿らが自害し、豊臣宗家は滅亡している。秀吉が頼りにした後継体制は、家康の側から崩れる形になった。
ゆかりの地と関連する人物
三人にゆかりの場所
- 勝幡城(愛知県):信長の生誕地とする説が有力とされる
- 本能寺(京都):天正10年6月2日、信長が明智光秀の襲撃を受けた場所。信長は5月29日に安土城を出て、20〜30人ほどの小姓衆を連れて入ったと記される
- 安土城:天正4年(1576年)に築城が決まり、天正7年(1579年)に天守が完成した信長の城
- 大坂城:秀吉が1583年8月に築城を始め、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏の最後の舞台となった
- 伏見城:家康が征夷大将軍の宣下を受けた城で、秀吉が没した場所でもある
- 久能山(静岡)・日光(栃木)・大樹寺(愛知):家康の遺言にある、遺体を納め、のちに分霊する場所と位牌を立てる寺。家康の墓所として久能山東照宮、日光東照宮、大樹寺、高野山が挙げられる
関係の深い人物
- 明智光秀:信長の家臣で、本能寺の変を起こした。秀吉に山崎の戦いで敗れた
- 今川義元:信長に桶狭間で討たれ、家康の主家だった人物
- 織田信雄:信長の子として、小牧・長久手の戦いで家康と組んで秀吉と戦った
- 朝日姫・大政所:秀吉が家康の臣従を引き出すため、家康のもとへ送った家族
- 徳川秀忠:家康の嫡男で、1605年に家康から将軍職を譲られた
よくある質問
三英傑とは誰のことですか。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人を指す。戦国の統一を主導した三人で、愛知県の尾張・三河にゆかりがあることから、明治期に郷土の英雄として形づくられた呼び方とされる。
三人はお互いに戦ったことがありますか。
秀吉と家康は戦っている。信長と家康は同盟関係にあった。秀吉と家康は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで対立し、同年11月に和睦した。その後、家康は1586年10月27日に大坂城で秀吉への臣従を表明した。
「鳴かぬなら」の句は本人たちが詠んだのですか。
違う。江戸後期の随筆『甲子夜話』に載る、後世の人が作った川柳とされる。三人の性格の印象としては広まったが、本人の句ではない。
誰が天下統一を成し遂げたのですか。
全国平定を一応完成させたのは秀吉で、小田原征伐と奥羽仕置によって達成されたとされる。信長は途中で倒れ、家康は統一後の秀吉政権のあとに江戸幕府を開いた。
家康はどこに葬られましたか。
家康の遺言には、遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌のあとに日光に小堂を建てて勧請することが記されている。死去の夜に遺体は久能山へ移され、増上寺での葬儀は1616年5月17日に行われた。





