結論:家重が意次を引き上げ、家治の代に「田沼時代」が開いた。賄賂政治の像は見直されている
田沼意次は、9代将軍・徳川家重の小姓として仕え、家重の時代に大名へ取り立てられた人物です。老中として政治の中心に立つのは、次の10代将軍・家治の時代にあたる1772年(明和9年)です。家重は亡くなる際、家治に意次を重用するよう遺言したと記されています。
「意次は賄賂で出世した」というイメージは広く知られています。ただ、大石慎三郎は、意次が賄賂を受け取ったことを示す信頼できる史料はないと指摘しました。1970年代以降、悪評の多くは失脚後に反田沼派が作ったものだとする見方が出て、評価は大きく変わっています。この記事では、家重と意次それぞれの足跡と、二人をめぐる通説・諸説を整理します。
基本情報
徳川家重
- 生没年:正徳元年12月21日(1712年1月28日)〜宝暦11年6月12日(1761年)。享年51(満49歳)
- 時代:江戸時代中期
- 立場:江戸幕府第9代将軍(1745年就任)。8代将軍・吉宗の長男
- 要点:言葉が聞き取りにくく、側近の大岡忠光が意思を取り次いだ。墓所は東京都港区の増上寺
田沼意次
- 生没年:享保4年7月27日(1719年9月11日)〜天明8年7月24日(1788年8月25日)。享年70
- 時代:江戸時代中期
- 立場:旗本から相良藩主となり、側用人を経て老中。側用人から老中になった最初の人物とされる
- 要点:株仲間の推奨、貨幣の鋳造、蝦夷地の調査などを進めた。墓所は東京都豊島区駒込の勝林寺
徳川家重と田沼意次の関係とは?小姓から大名への道
意次の出自と家重への出仕
意次の父・田沼意行は、紀州藩の足軽から旗本になった人物です。吉宗の側近に登用されました。吉宗は紀州藩主から将軍になった人なので、意次は「紀州系幕臣」の第2世代にあたります。
意次は1734年に西丸小姓となり、当時は将軍の世子だった家重に仕えました。翌1735年に父の遺跡600石を継いでいます。ここが、家重と意次の主従関係の始まりです。
家重の時代の昇進
1751年、意次は側衆・御側御用取次に進みます。1758年には評定所列座となって加増され、相良藩1万石に移りました。旗本として600石から始めた意次が、家重の時代に1万石の大名になったことになります。意次は前後10回の加増で、600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進したとされます。
家重の下では、言葉の不明瞭さが進んだこともあり、大岡忠光が重用され、側用人の制度が復活しました。意次が大名に取り立てられたのも、この時期の出来事です。
家治への遺言
1760年、忠光が死去すると、家重は同年のうちに長男の家治へ将軍職を譲りました。その後は大御所となりましたが、病気がちで、政務は家治に委ねられました。家重は翌1761年に亡くなります。その際、家治に意次を重用するよう遺言したと記されています。ただし、家重と意次の個人的なやりとりを伝える記述は多くありません。二人の関係を、細かな会話や感情まで語れるほどの材料は残っていないのです。
言葉の不自由な将軍・家重の生涯と評価
虚弱と言語障害
家重は紀州藩主・徳川吉宗の長男として江戸の紀州藩邸に生まれました。吉宗が将軍になると江戸城に入り、1727年(享保12年)に元服して「家重」と名乗ります。生まれつき虚弱で、障害のために言葉が聞き取りにくかったとされます。脳性麻痺による言語障害とする説も紹介されています。頻尿が目立ち、「小便公方」というあだ名で呼ばれたとも伝わります。
将軍になるまでの危機
家重には、文武に優れていたとされる弟の宗武がいました。そのため、老中首座の松平乗邑が家重を廃嫡して宗武を立てようとしたこともあったとされます。それでも吉宗が家重を選んだ理由として、長幼の序を守って後継者争いを防ぐ必要があったことや、吉宗自身が徳川本家の外から来た立場だったことが挙げられています。長男の家治の聡明さへの期待も背景にあったとされます。
家重は将軍就任後、乗邑を罷免して減封し、弟の宗武には謹慎を命じました。宗武は謹慎が解けた後も、生涯、家重への謁見を許されなかったと記されています。
大岡忠光の存在
幼い頃から家重に仕えていた大岡忠光は、家重の不明瞭な言葉を唯一聞き分けられたとされ、深く信任されました。後に大名・側用人に取り立てられますが、権勢に奢って失政をすることはなかったとされます。
政治と評価
1745年に将軍となった家重ですが、吉宗は大御所として1751年に亡くなるまで実権を握り続けました。政策面では、享保の改革の流れを受けて勘定吟味役の充実や予算制度の導入を行い、宝暦の勝手造り令で酒造の統制を緩めました。
増税による社会不安の中で起きた郡上一揆では、真相の徹底究明を指示します。その結果、老中の本多正珍らが処罰され、郡上藩と相良藩が改易されました。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ、唯一の例とされます。このほか、薩摩藩に木曽三川の工事を命じた宝暦治水事件や、京都での宝暦事件も、この時期のことです。次男の重好に清水門内の屋敷を与えて徳川姓を許し、御三卿の体制も整えました。
評価はどうでしょうか。『徳川実紀』は、家重は体が強くなく政務を大臣に委ねたが、吉宗の余慶もあって16年の治世は概ね平穏だったと記しています。一方で、家重個人の言動はほとんど伝わっていないとも書かれており、土肥鑑高は、家重を褒める記録が少ないことを指摘しています。
田沼意次の政策と「賄賂政治」の真相
老中への昇進
家治の代になると、意次は1767年(明和4年)に側用人、1769年に老中格、1772年に老中へと進みます。同じ年には相良藩5万7,000石の大名となりました。加増された領地は7か国14郡に分散していました。
主な政策
- 株仲間:享保期に公認された株仲間を推奨し、専売の特権を与えて冥加金・運上金を取りました。財政増収策か流通統制策かで評価が分かれます。中井信彦は冥加金が少額で財政上の意義は不明とし、藤田覚は増額の意図は明らかだとしています
- 貨幣:五匁銀、南鐐二朱銀(8枚で1両)、寛永通宝の四文黄銅銭を鋳造しました。南鐐二朱銀は金貨への一元化につながったとされますが、意図的だったかは議論があります。通貨発行益(出目)が得られたことは確かです
- 蝦夷地:松本秀持が主導し、鉱山の開発とロシア交易を構想しました。1785〜86年の調査で、ロシアとの密貿易は交易と呼べる規模ではないと分かり、意次は鉱山開発とロシア交易を放棄して新田開発案に転換しました。失脚後に中止され、1799年(寛政11年)に再開されています
- 干拓:下総国の印旛沼・手賀沼の干拓に着手しました
賄賂は本当にあったのか
当時、落書や狂歌では賄賂が風刺され、意次の屋敷には、役職を求める大名・旗本や商人が列をなしたとされます。ただ、武士の間の進物は社会儀礼として賄賂とは区別されていました。常識外の額の贈賄は処罰の対象でしたが、賄賂の問題自体は江戸初期から存在しており、田沼時代は権力が意次に集中していたために目立った、という見方もあります。
大石慎三郎は、意次が賄賂を受けた信頼できる史料はないと指摘しました。ただし、受け取った可能性を完全に否定したわけではありません。藤田覚は、意次の家臣に対する統制が甘く、賄賂の横行を許したと述べています。つまり「意次本人が受け取ったか」は史料の上で確定せず、「周囲で賄賂が横行した」ことは否定しにくい、というのが研究の現状です。
失脚と評価の移り変わり
意知の死から失脚まで
1784年(天明4年)3月24日、子の田沼意知が江戸城内で佐野政言に斬られ、4月2日に亡くなりました。この頃から意次の権勢は衰え始めます。
1786年8月25日に将軍・家治が死去しますが、その死は伏せられていました。意次は2日後の8月27日、死が秘せられている間に老中を辞任させられ、雁間詰に降格されます。反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀も指摘されています。閏10月5日には2万石の没収、大坂蔵屋敷の財産没収、江戸屋敷の明け渡しと謹慎を命じられ、謹慎は12月27日に解かれました。翌1787年には天明の打ちこわしの後に蟄居・致仕を命じられ、2度目の減封を受けました。相良城は打ち壊され、孫の龍助(田沼意明)は陸奥下村1万石に移されています。
評価の見直し
1915年、辻善之助は『田沼時代』で悪評の史料を示しつつ、意次を新時代の先駆者として肯定的に評価しました。1970年代以降は大石慎三郎らが、悪評の多くは失脚後に反田沼派が作ったものだと論じます。これに対し、藤田覚は大石の史料の解釈に誤りがあると指摘しており、現在の研究の最先端とされます。深谷克己は、相良城の築城費は寄進で賄われた可能性を指摘しました。海外では、ジョン・ホイットニー・ホールが意次を「近代日本の先駆者」と評しています。
財政面では、明和期に約300万両あった幕府の備蓄が、田沼時代の末期には約81万両に減ったとされます。田沼時代は、家重の代までに貯えた備蓄を食いつぶして、天災が多発する危機を乗り切った時代と位置づけられています。「名宰相」とも「汚職政治家」とも一言で割り切れないのは、このためです。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 増上寺(東京都港区):徳川家重の墓所です。戦後の増上寺改修に伴う遺骨調査では、頭蓋骨から歴代将軍の中でも整った顔立ちだったことが分かり、歯の磨耗から常時の歯ぎしりが推察されたとされます
- 勝林寺(東京都豊島区駒込):田沼意次の墓所です
関連する人物
- 徳川吉宗:家重の父。家重の将軍就任後も大御所として実権を握りました
- 大岡忠光:家重の言葉を聞き分けた側近で、側用人
- 徳川家治:家重の長男で10代将軍。意次を老中に起用した
- 田沼意知:意次の子。江戸城内で斬られ、のちに死去した
よくある質問
家重は本当に言葉が話せなかったのですか。
話せなかったのではなく、言葉が聞き取りにくかったとされます。そのため、不明瞭な言葉を唯一聞き分けられた大岡忠光が重用されました。脳性麻痺による言語障害とする説もあります。
田沼意次が老中になったのは家重の時代ですか。
いいえ。家重の時代に大名(相良藩1万石)になりましたが、側用人は1767年、老中は1772年で、いずれも家治の時代です。
田沼意次は賄賂を受け取っていたのですか。
意次本人が賄賂を受けた信頼できる史料はないと大石慎三郎が指摘しています。一方で、藤田覚は家臣の統制が甘く賄賂の横行を許したと述べています。意次本人の関与は確定していません。
家重は意次を重用するよう遺言したのですか。
家重が死去の際、家治に意次の重用を遺言したと記されています。ただし、二人の個人的なやりとりを伝える記述は多くありません。
意次はなぜ失脚したのですか。
子の意知の死で権勢が衰えるなか、家治が亡くなった直後に老中を辞任させられました。反田沼派や一橋家の策謀も指摘されています。






