織田信長 日本史トリビア

結論:信長の誕生日は天文3年5月12日。「6月23日」はユリウス暦の日付

織田信長の誕生日は、和暦で天文3年(1534年)5月12日とされています。よく目にする「6月23日」は、この日をユリウス暦に直した日付です。いま私たちが使うグレゴリオ暦の仕組みを当時にさかのぼって当てはめる「先発グレゴリオ暦」では、7月3日になります。

生まれた場所は、尾張国の勝幡城(愛知県の愛西市と稲沢市にまたがる一帯)とする説が、現在は妥当と考えられています。ただし誕生日にも別説があり、天文3年5月28日とする説も伝わっています。

この記事では、日付の読み方、生誕地の論争、生まれた家の事情を、Wikipedia で確かめられた範囲でまとめます。

基本情報

  • 生年月日:天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日、先発グレゴリオ暦1534年7月3日)。別説として天文3年5月28日(ユリウス暦1534年7月9日、先発グレゴリオ暦1534年7月19日)
  • 没年月日:天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺。享年49
  • 幼名:吉法師(きっぽうし)
  • 父:織田信秀 母:土田御前(つちだごぜん。土田政久の娘)
  • 生誕地:勝幡城説が有力。那古野城説、古渡城説もある
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代
  • 立場:尾張の織田信秀の嫡男として生まれ、のち家督を継いだ戦国大名

織田信長の誕生日はいつ?旧暦・新暦の違いと別説

天文3年5月12日が和暦の誕生日

信長の生年月日として載っている日付は、和暦の天文3年5月12日です。Wikipedia の信長の項は、本文の日付を旧暦(和暦)で書き、西暦はユリウス暦で示す方針をとっています。そのため、5月12日に対応する西暦は「1534年6月23日」と表記されます。

6月23日と7月3日、なぜ10日ずれるのか

Wikipedia は、同じ天文3年5月12日を、ユリウス暦では1534年6月23日、グレゴリオ暦の仕組みを過去にも当てはめた先発グレゴリオ暦では1534年7月3日と、二通りの西暦で示しています。ユリウス暦とグレゴリオ暦では、同じ日の日付が異なるのです。本能寺の変の日も同様に、ユリウス暦1582年6月21日、先発グレゴリオ暦1582年7月1日と二通りで書かれています。

つまり「6月23日」と「7月3日」は別の日ではなく、どちらも「天文3年5月12日」という同じ日を指しています。現在のグレゴリオ暦で数えるなら7月3日です。

5月28日とする別説もある

Wikipedia の信長の項には、誕生日の欄に天文3年5月28日(ユリウス暦1534年7月9日、先発グレゴリオ暦1534年7月19日)も併記されています。誕生日は一つに定まっているわけではなく、二つの日付が併記されています。

信長はどこで生まれたのか:勝幡城説と那古野城・古渡城説

生誕地は3説、現在は勝幡城説

信長の生誕地には、勝幡城、那古野城、古渡城の3説があります。那古野城説はかつての定説でしたが、『言継卿記』の記述などから疑問視されるようになりました。1992年の論文を機に、現在は勝幡城説が妥当と考えられています。

決め手は「信秀がまだ那古野城にいなかった」こと

勝幡城説を支える事情の一つが、父・信秀と那古野城の関係です。信秀は今川氏豊から那古野城を奪って本拠を移しました。その時期について、『名古屋合戦記』は享禄5年(1532年)春とします(史実の年代とは合わないとされます)が、天文7年(1538年)頃とする見方があります。後者なら、信長が生まれた天文3年の時点で信秀はまだ那古野城を手にしていないことになります。Wikipedia の信長の項も、天文3年時点では織田氏がまだ那古野城を奪っていない可能性が高まった、としています。

勝幡城とはどんな城か

勝幡城は、愛知県の愛西市勝幡町と稲沢市平和町にまたがる地域にあった平城で、二重の堀で囲まれた館城でした。永正年間ごろに信秀の父・織田信定が築いたとされ、信定の父・良信が築いたとする説もあります。

いまは建物などの遺構は残っていません。日光川の開削や周辺開発で失われたとされます。日光川の左岸に城跡を示す二つの石碑が建ち、1979年の排水工事で見つかった大きな基石は、櫓台の位置にあたるものと確認されて愛西市佐織支所に保管されています。城跡は稲沢市の指定史跡です。

信長が生まれた家:織田信秀と津島の経済力

祖父・信定は津島を押さえて力をつけた

勝幡城を築いた信定は、商業地として栄えた津島を支配下に置きました。これが織田家の勢力拡大のきっかけになったとされます。信秀はその基盤を受け継ぎました。

信秀は十二人の息子と十人以上の娘をもうけた

信秀は42歳ごろに亡くなるまでに、正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけたと記されています。信長はその嫡男で、母は土田御前です。弟には信勝(信行)、信包、長益などがいて、姉妹にはお犬の方、お市の方がいます。信長は家督を継いだあと、尾張統一の過程で信勝を排除しています。

幼名は吉法師、のち那古野城主に

幼名は吉法師です。信長は早い時期に父から那古野城を譲られて城主となり、天文15年(1546年)に古渡城で元服して、三郎信長と名乗りました。翌天文16年(1547年)には、今川方との小競り合いで初陣を飾っています。

誕生日から見る生涯:うつけと呼ばれた少年から天下人へ

「大うつけ」と呼ばれた若き日

『信長公記』には、信長の奇矯な行動が多く記され、周囲から「大うつけ」と呼ばれたとされます。後に聖徳寺で斎藤道三と会見したとき、うつけと呼ばれていた信長の器量を道三が見抜いた、という逸話も伝わっています。

家督相続と平手政秀の死

天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去し、信長が家督を継ぎました。信秀の死後は弟の信勝などの競争者がおり、信長は尾張統一の過程で信勝を排除しています。一説には、信秀が信長と信勝の間で家督を分ける考えに傾いていたのではないか、ともされます。

翌天文22年(1553年)には、宿老の平手政秀が自害しました。信長は沢彦を開山として政秀寺を建て、政秀の霊を弔っています。

本能寺で49歳で亡くなる

信長は天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日、先発グレゴリオ暦1582年7月1日)、重臣の明智光秀の謀反により、京の本能寺で自害に追い込まれました。享年は49とされています。

誕生日をめぐる占いや豆知識について

干支や星座から信長の性格を読む話はよく見かけますが、今回確かめた Wikipedia の記述にはありません。そのため、この記事では扱いません。信長の人物像は、『信長公記』などを手がかりにした、行動の記録から見るのが確実です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 勝幡城跡(愛知県愛西市・稲沢市):生誕地の有力説。石碑が二つ建つ
  • 那古野城:信長が最初に城主となった城
  • 古渡城:元服した城
  • 清洲城、小牧山城:のちに信長が拠点とした城
  • 聖徳寺:斎藤道三と会見した寺
  • 政秀寺:平手政秀の霊を弔うために信長が建てた寺
  • 本能寺(京都市中京区):最期の地であり墓所の一つ。このほか大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、阿弥陀寺にも墓所がある

関連する人物

  • 織田信秀:父。津島を押さえた織田家の基盤を受け継いだ
  • 土田御前:母
  • 織田信勝(信行):弟。家督をめぐって信長と争い、排除された
  • 平手政秀:宿老。自害し、信長が政秀寺を建てた
  • 斎藤道三:聖徳寺で信長と会見した
  • 明智光秀:本能寺の変を起こした重臣

よくある質問

織田信長の誕生日は結局、何月何日ですか?

和暦では天文3年5月12日です。ユリウス暦では1534年6月23日、先発グレゴリオ暦では1534年7月3日にあたります。5月28日とする別説もあります。

6月23日が信長の誕生日と言われるのはなぜですか?

和暦の5月12日にあたるユリウス暦の日付が、6月23日だからです。グレゴリオ暦の仕組みで数えると7月3日になります。

信長はどこで生まれましたか?

勝幡城、那古野城、古渡城の3説があり、現在は勝幡城説が妥当と考えられています。信秀が那古野城を手にしたのは信長の誕生後とする見方が、その根拠の一つです。

信長の幼名と両親を教えてください。

幼名は吉法師、父は織田信秀、母は土田御前です。

信長は何歳で亡くなりましたか?

天正10年6月2日に本能寺で自害に追い込まれ、享年は49とされています。