黒田官兵衛

結論:黒田官兵衛は「秀吉の軍師」だが、有名な逸話には後世の話が多い

黒田官兵衛(諱は孝高、出家後は如水)は、播磨国姫路で生まれ、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将です。慶長9年3月20日(1604年4月19日)に京都の伏見藩邸で亡くなりました。享年は59です。

秀吉の幕僚として鳥取・備中高松などの戦いに加わり、九州平定では軍監を務め、豊前国で約12万石を与えられました。ここまでは史料で追える経歴です。

一方で、「中国大返しを進言した」「関ヶ原の混乱に乗じて天下を狙った」「幽閉で足が不自由になった」といった話は、同時代の史料では裏付けが取れていないか、後世の編纂物や俗説に由来するものです。この記事では、確かな経歴と、諸説のある話を分けて見ていきます。

基本情報

  • 生没年:天文15年11月29日(1546年12月22日)〜慶長9年3月20日(1604年4月19日)、享年59
  • 時代:戦国時代〜安土桃山時代
  • 身分:播磨の小寺氏の家老から織田家臣、豊臣秀吉の重臣へ。のちに豊前中津の領主
  • 幼名:万吉。小寺官兵衛、黒田官兵衛、孝高、剃髪後は如水(如水軒円清)
  • 家族:正室は櫛橋伊定の娘・光(てる)。長男は黒田長政
  • 洗礼名:シメオン(ドン・シメオン)
  • 主な出来事:有岡城での幽閉、九州平定での軍監、石垣原の戦いなど

黒田官兵衛の生涯と功績:播磨の家老から秀吉の幕僚へ

出自と若いころ

黒田家の出自は、近江国伊香郡の黒田村とする説がありますが、定かではないとされています。官兵衛の祖父・重隆の代に備前国から播磨国へ移り、父の職隆は御着城の小寺氏に仕えました。小寺氏は職隆に当主・政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせています。

官兵衛は永禄5年(1562年)、父とともに土豪を討って初陣を飾り、このころから「小寺官兵衛」を名乗りました。永禄10年(1567年)ごろには家督と家老職を継ぎ、光を正室に迎えて姫路城代となります。

信長との出会いと秀吉への協力

天正3年(1575年)7月、官兵衛は岐阜城で信長に会いました。この折に名刀の長谷部を授かったと伝わります。天正5年(1577年)10月には、一族を国府山城に移し、姫路城の本丸を秀吉に提供しました。以後は秀吉の幕僚として動くことになります。

天正8年(1580年)に主家の小寺政職が滅び、小寺氏は大名として終わりました。黒田の姓を名乗るのはこのころからとみられます。同年、福井庄(網干周辺)1万石を与えられています。

鳥取城・備中高松城

天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻めには官兵衛も参加し、兵糧攻めで城を降伏させました。翌年の備中高松城の水攻めでは、船に土嚢を積んで沈める案を出したと伝わりますが、献策を示す同時代の史料はなく、従軍していたことが確かな範囲です。

黒田官兵衛をめぐる諸説・俗説を検証する

有岡城幽閉事件:史実の核と、後世の脚色

天正6年(1578年)から翌年にかけて、官兵衛は摂津の有岡城(伊丹城)にいた荒木村重を説得しに向かい、逆に幽閉されました。天正7年(1579年)10月16日、家臣の栗山利安らによって救出されます。幽閉は約1年に及んだとされます。

信長は官兵衛が戻らないことから寝返ったと考え、人質だった松寿丸(のちの長政)を殺すよう命じました。竹中重治(半兵衛)が松寿丸をかくまったと伝わります。

よく知られる「土牢で足を悪くし、以後は輿で指揮した」という話は、確証がありません。足の障害を述べる最も古い出典は、大正時代の『黒田如水傳』とされます。頭の瘡(できもの)を土牢の症状とする話も、確証は示されていません。

中国大返しの献策

本能寺の変(1582年6月2日)の知らせを受けた秀吉に、官兵衛が「ご運のひらけさせ給うべき時が来たのでござる」と告げ、毛利との和睦と光秀討伐を勧めたという逸話があります。最古の記録は江戸初期の『老人雑話』で、貝原益軒の『黒田家譜』などにも見えます。ただし、同時代史料で裏付けられてはいません。

天下を狙った野心はあったのか

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、官兵衛は吉川広家に宛てた書状で、天下をめぐる大乱を予想する内容を書きました。関ヶ原の戦いのあと、「あと1か月戦いが続けば中国地方で戦うつもりだった」という趣旨の書状も伝わっており、これが「天下を狙っていた」とする俗説の根拠とされます。

実際の動きを見ると、慶長5年(1600年)に長政が東軍として関ヶ原で戦う間、官兵衛は中津で約9,000人の兵を集めました。杵築城の救援要請に応じて出陣し、9月13日(10月19日)の石垣原の戦いで大友義統の軍を破り、臼杵城などを落とし、久留米城攻めでは立花宗茂の降伏を受けています。11月12日、肥後水俣まで進んだところで、家康と島津義久の和議により停戦命令が出て、軍は解散しました。

戦後、長政は中津17万石から筑前名島52万石へ移りましたが、官兵衛は恩賞の加増を辞退して隠居しました。書状の一節を野心の証拠とみるかどうかは、解釈が分かれる点です。

そのほかの名場面は出典が弱い

  • 「草履片々、木履片々」の話:出典の確認が難しく、『黒田家譜』などに見いだせないとして疑問を呈する研究者がいます。
  • 秀吉が官兵衛を恐れたという逸話:『常山紀談』などの編纂物に見えるもので、宣教師の記録とは内容が異なります。
  • 家康に手を取られた際の叱責:同時代史料になく、明治・大正期の著作に見える話とされます。

知られざる素顔:信仰・家族・如水・名刀

キリシタン「ドン・シメオン」

官兵衛は天正13年(1585年)ごろ、高山右近や蒲生氏郷の勧めで洗礼を受け、洗礼名はシメオンでした。伴天連追放令のあとも棄教しなかったと見られています。宣教師の記録には、キリシタンであったために秀吉の不興を買い、所領を減らされたという内容もあります。

遺言として、遺骸を博多の神父のもとへ運ぶことやイエズス会への寄進、殉死の禁止を命じたと伝わります。

妻・光と、側室を持たなかったこと

光は櫛橋伊定の娘で、小寺政職の養女でもありました。1553年から1627年までの生涯で、長政の母にあたります。官兵衛は生涯、側室を持たなかったとされます。その理由は個人的な価値観によるものと推測されていますが、はっきりしたことは分かりません。

「如水」への改名と死罪の覚悟

文禄の役では、官兵衛は軍監として朝鮮へ渡りました。文禄2年(1593年)3月に軍奉行として再び渡海し、晋州城の攻略計画に反対して名護屋城へ戻ったため、秀吉の怒りを買います。同年8月に剃髪して「如水軒円清」と号しました。死罪を覚悟して遺書を残したとされますが、赦免されています。

「如水」の由来は、宣教師フロイスの記録に、権力・武勲・領地を水泡のように失ったとして自ら「ジョスイ(水の如し)」と名乗ったとあります。『老子』第八章の「上善如水」に由来するという説もあり、定説はありません。

息子・長政と次男の死

官兵衛は天正17年(1589年)5月に家督を長政へ譲りました。長政は1568年から1623年まで生き、関ヶ原では東軍の主力として戦っています。次男の熊之助は慶長2年(1597年)、朝鮮へ向かう途中で船が沈み、16歳で亡くなりました。

名刀「へし切長谷部」

国宝の「へし切長谷部」は、南北朝時代の刀工・長谷部国重の作とされる刀です。作者銘はなく、研師の本阿弥光徳の鑑定にもとづく金象嵌の銘が茎に入っています。名前の由来には、信長が無礼を働いた茶坊主を、膳棚の下に隠れたところを「圧し切り」にしたという逸話があります。「棚ごと切った」という俗説は、棚ごと切れば圧し切りにならないとして否定されています。

黒田家に伝わった経緯は、信長から秀吉を経て長政へ、信長から直接長政へ、官兵衛が中国攻めの策を出した褒美に信長から、といった複数の説があり、確定できる史料は示されていません。現在は福岡市博物館が所蔵しています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 姫路(兵庫県):生誕の地。姫路城代を務め、姫路城の本丸を秀吉に提供しました。
  • 中津城(大分県):豊前入国後、天正15年(1587年)から築城に着手した城です。
  • 福岡市博多区千代の崇福寺:黒田家の菩提寺とされ、墓所の一つです。
  • 京都市北区の大徳寺塔頭・龍光院:長政が建立した寺で、墓所の一つです。
  • 福岡市博物館(福岡市早良区):「へし切長谷部」を所蔵しています。毎年1月上旬から2月上旬に公開されます。

関連する人物

  • 豊臣秀吉:官兵衛が幕僚として仕えた主君です。
  • 織田信長:長谷部を授けたと伝わり、有岡城の件では松寿丸の殺害を命じました。
  • 竹中重治(半兵衛):松寿丸をかくまったと伝わる人物で、のちに「両兵衛」と並べて呼ばれました。この呼び名は後世のものです。
  • 黒田長政:長男で、官兵衛の家督を継いだ福岡藩の初代です。
  • 栗山利安:有岡城から官兵衛を救出した家臣です。

よくある質問

黒田官兵衛は何をした人ですか?

小寺氏の家老から織田・豊臣家の武将となり、秀吉の幕僚として鳥取・高松の戦いに加わりました。九州平定では軍監を務め、豊前国で約12万石を与えられています。

黒田官兵衛が秀吉に中国大返しを進言したのは本当ですか?

江戸初期の『老人雑話』などに見える逸話ですが、同時代史料による裏付けは確認されていません。事実として確かなのは、官兵衛が秀吉に従軍していたことまでです。

有岡城の幽閉で足が悪くなったのは本当ですか?

幽閉されたこと自体は史実です。足の障害については、最も古い出典が大正時代の『黒田如水傳』とされ、確証はありません。

官兵衛は天下を狙っていたのですか?

関ヶ原の際、官兵衛は九州で兵を集めて戦い、吉川広家宛の書状に中国地方で戦う意向を示す内容があったため、野心を指摘する俗説があります。ただ、戦後に加増を辞退して隠居しており、どう読むかは解釈が分かれます。

「如水」とはどういう意味ですか?

剃髪後の号です。フロイスの記録では「水の如し」と自ら名乗ったとされ、『老子』の「上善如水」に由来するという説もあります。