結論:山名宗全は、嘉吉の乱で播磨を得て家を大きくし、応仁の乱で西軍の中心となった武将
山名宗全(俗名は山名持豊)は、室町時代中期の守護大名です。1404年(応永11年)に山名時熙の三男として生まれ、1433年(永享5年)に家督を継ぎました。1441年の嘉吉の乱の鎮圧で赤松氏の領国だった播磨を得て、山名家の勢力を大きく広げています。
のちに細川勝元と対立し、1467年(応仁元年)に始まる応仁の乱では西軍の中心人物になりました。乱の途中の1473年(文明5年)3月18日に、70歳で亡くなっています。顔が赤いことと好戦的な性格から「赤入道」と呼ばれたことでも知られます。
基本情報
- 名:山名持豊(出家後の法名が宗全)
- 生年:1404年(応永11年)5月29日(旧暦)
- 没年:1473年(文明5年)3月18日(旧暦)、享年70
- 時代:室町時代
- 身分:守護大名。山名氏は新田氏の一族。山名時熙の三男
- 主な地位:但馬・備後・安芸・伊賀・播磨の守護、侍所の長官(所司)
- 主な出来事:嘉吉の乱の鎮圧、文正の政変、応仁の乱(西軍)
- 墓所:京都市左京区、南禅寺の塔頭・真乗院
山名宗全の生涯:登場から勢力拡大まで
三男に生まれ、家督を継ぐまで
宗全は山名時熙の三男です。兄弟の中では二男の持熙が有力な後継候補で、1428年には将軍・足利義教が持熙を支持したことがありました。しかしその後、持熙は廃嫡され、1431年に家督の後継は持豊に定まります。1433年に家督を継ぎ、1437年には備後で反乱を起こした持熙を鎮圧しました。
若いころから戦場には出ており、1421年には備後の国人たちを相手に初めて出陣しています。1413年、10歳のときに将軍・足利義持から名前の一字を与えられ、持豊と名乗りました。
嘉吉の乱と播磨の獲得
1441年(嘉吉元年)、将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺されました。嘉吉の乱です。持豊は幕府側の討伐軍を率いて赤松氏の城山城を攻め、乱を鎮圧しました。この功績で赤松氏の領国だった播磨を与えられ、但馬・備後・安芸・伊賀とあわせて5か国の守護になります。
一族の因幡なども含めた山名氏全体では、10か国の守護職を回復したとされます。1444年には東播磨の3郡も領有しました。翌1442年に出家して宗峯と号し、長禄年間に宗全と改めたとされます。
「六分の一殿」という呼び名について
山名氏が多くの国を持ったことから、宗全は「六分の一殿」と呼ばれた、という話が広く語られます。日本は66か国だったので、山名一族が11か国を占めれば6分の1になる、という計算です。ただし、今回確認した日本語版Wikipediaの宗全の項目には、この呼び名の記述も根拠も見当たりませんでした。山名氏が10か国ほどの守護職を回復したことは確かめられますが、「六分の一殿」の呼び名そのものは、出典のはっきりした事実として書くことを控えます。
応仁の乱への道:宗全と細川勝元の対立
赤松氏問題と1454年の隠居
宗全は1454年(享徳3年)、赤松氏の扱いをめぐって将軍・足利義政と衝突しました。この年に家督と守護職を子の教豊に譲って隠居し、約4年間を但馬で過ごしています。1458年に赦されて政界に戻りました。
細川勝元との縁組と文正の政変
宗全は縁組でも勢力を固めました。1443年に山名熙貴の娘を養子(猶子)として大内教弘に嫁がせ、1447年には同じ熙貴の娘を細川勝元に嫁がせています。家系図では勝元の妻は宗全の養女とされます。また、宗全の娘は斯波義廉の妻になりました。
1466年(文正元年)9月の文正の政変では、宗全は勝元と共に動き、政所執事の伊勢貞親らを失脚させました。この時点ではまだ、二人は協力する関係にありました。同じ年の12月には、畠山義就を上洛させて将軍と対面させています。畠山氏の家督をめぐる争いに、宗全が深く関わっていたことが分かります。
御霊合戦から開戦へ
1467年1月18日、畠山政長が自邸に火をかけて上御霊神社に陣取り、畠山義就の軍勢と戦いました(御霊合戦)。政長はその夜のうちに逃れています。続いて同年5月20日、宗全は五辻通大宮東に本陣を構え、5月26日に京都での戦闘が始まりました。これが応仁の乱の開戦とされる日です。
なお、応仁の乱の原因を宗全と勝元の対立に求める見方については、日本語版Wikipediaでも議論があるとされています。一人の野心だけで説明できる戦いではない点は、押さえておきたいところです。
応仁の乱の宗全と最期
西軍の中心として
宗全は西軍の中心になりました。1468年(応仁2年)11月、東軍を離れた足利義視が宗全の働きかけにより、11月23日に斯波義廉の陣に入りました。1469年には、66歳の老齢ながら、東軍が西軍本陣に斬り込んできたときに武装して応戦したと伝えられます。
戦火で京都は壊滅的な被害を受けました。1467年5月には船岡山から二条通のあたりまでが、6月には二条から室町のあたりにかけても火災が広がっています。
病と最期:死因ははっきりしない
宗全は1470年ごろから中風を患っています。1472年には和睦の交渉が進まず、同年5月に宗全が自害を図ったという噂が流れ、『大乗院寺社雑事記』に記録されました。同年8月には、孫の山名政豊に家督を譲っています。
1473年3月18日、宗全は病死しました。享年70です。前年の自害未遂の傷が悪化したという説もありますが、詳しいことは分かっていません。勝元はそれから約2か月後の5月11日に亡くなりました。
乱の終わりと山名家のその後
1474年、政豊が細川政元と和睦しました。乱が終わったのは1477年(文明9年)11月で、大内政弘が11月3日に降伏し、11月11日に京都から引き上げて西軍は解散します。政豊は赤松政則と播磨をめぐって争いましたが、1488年までに播磨を失いました。国人衆の台頭や因幡・伯耆の山名氏の内紛もあり、山名氏は衰えていきます。
掘り下げ:赤入道と宗全の人物像
「赤入道」の由来
「赤入道」の呼び名は、『応仁記』に見えます。禅僧の一休宗純は、宗全の顔が赤いことと戦いを好む性格から、毘沙門天の生まれ変わりだと書き残しました。なお、宗全の肖像は伝わっていないとされます。教科書や本で目にする宗全の姿は、後の時代に描かれたものと考えるのが無難です。
激しい気性と、寺社を守る面
宗全の性格は、激情的で横暴と評されます。部下が土倉や質屋を襲った件では、管領の細川持之から抗議を受けました。領国では、荘園や寺社領の横領が絶えなかったともいわれます。
一方で、病気の家臣を労わったりした記録もあります。寺社の保護にも熱心でした。乱暴な武将という一面だけでは語れない人物です。
よくある誤解:「宗全が一人で乱を起こした」わけではない
宗全が応仁の乱の中心にいたのは確かですが、畠山氏・斯波氏の家督争い、将軍家の後継問題など、複数の対立が絡み合っていました。宗全と勝元は縁組で結ばれた関係で、文正の政変では共に動いています。のちに対立したとはいえ、最初から敵同士だったわけではありません。
ゆかりの地と関連する人物
- 豊岡市(兵庫県):宗全の生誕地とされます。
- 南禅寺・真乗院(京都市左京区):宗全の墓所です。
- 宗全寺(姫路市):嘉吉元年に山名家の菩提寺として建てられたと伝わりますが、現在は寺の跡が残るとされます。
- 細川勝元:東軍の中心。宗全の養女を妻としました。宗全の死の約2か月後に亡くなっています。
- 足利義政・足利義視:将軍と、その弟。義視は1468年に斯波義廉の陣に入りました。
- 山名政豊:宗全の孫。1472年に宗全から家督を譲られました。
- 赤松満祐・赤松政則:嘉吉の乱の当事者と、のちに播磨をめぐって山名氏と争った人物。
よくある質問
山名宗全は何歳で、いつ亡くなりましたか。
1473年(文明5年)3月18日に、70歳で亡くなりました。応仁の乱の最中です。
赤入道とはどういう意味ですか。
出家した宗全のことで、顔が赤かったことと好戦的な性格に由来するといわれます。呼び名は『応仁記』に見え、一休宗純も宗全を毘沙門天の生まれ変わりと書きました。
宗全と細川勝元は親子だったのですか。
血縁ではありません。1447年に熙貴の娘が勝元に嫁ぎ、家系図ではこの妻が宗全の養女とされます。そのため宗全は勝元の義父にあたる立場でした。
山名宗全の死因は何ですか。
病死とされます。前年に自害を図ったという噂があり、その傷が悪化したとする説もありますが、詳しいことは分かっていません。1470年ごろから中風を患っていました。
「六分の一殿」と呼ばれたのは事実ですか。
今回確認した資料には、この呼び名の記述が見つかりませんでした。山名氏が10か国ほどの守護職を持ったことは確かですが、呼び名そのものについては確認できていません。





